第3話 反省文と赤ペン(と買い物)
放課後のチャイムが鳴り終わっても、校舎はまだ昼の熱気を残していた。
生徒会準備室の蛍光灯は白々しく、紙の匂いとインク、金属棚の冷たい匂いがまじる。鍵束の重みを確かめながら、皆川真白は机の上を整えた。台帳、赤ペン、日付印、クリップ。整える順番はいつも同じ。順番が崩れると落ち着かない。胸の内では、昼間の出来事がまだ微かなざわめきとして残っている。
(来るだろうか。約束、守る人だろうか。……いや、来る。来てほしい――じゃなくて、提出を確認しなきゃいけないだけ)
自分に言い聞かせ、台帳のページを開く。第二章、没収物・書籍(成年向け)。備考欄には「反省文A4三枚/誓約書提出後返却」と真面目な字で記した自分の字がある。無駄に丁寧だと思いながらも、丁寧に書かずにはいられない。規程は規程、ルールは人を守る。――そう信じてきたし、今も信じている。けれど、昼間の至近距離で見た彼の目の、言い訳のなさと、わずかな焦りは、たしかに胸に残っていた。
準備室の引き戸が、音を立てずに少しだけ動いた。真白は反射的に顔を上げる。影が伸び、長身が細い隙間から入ってくる。
琥太郎だ。
制服の襟はいつものように少し緩んでいる。髪は整っていないが清潔で、目元には少しだけ疲れが滲んでいた。
「……来た」
声が小さく漏れそうになるのを、真白は喉の奥で飲み込んだ。
琥太郎は何も言わず、机の前で立ち止まる。手にしていたクリアファイルを、無造作に差し出した。
「反省文。三枚。……全部手書き」
「確認します」
受け取る手が、わずかに汗ばむ。椅子を引く音が静かな部屋に響き、真白は一枚目をそっと取り出した。横罫の紙いっぱいに、黒いペンの字が並んでいる。筆圧が強く、ところどころインクが滲み、改行は少ない。最初の一文が目に入る。
『この度は校則に反する物を校内に持ち込んでしまい――』
(“しまい”の「い」が潰れてる……句読点……改行……)
読み進める。内容は、驚くほどまっすぐだった。持ち込んだ理由の言い訳はほとんどない。「軽率だった」「迷惑をかけた」「再発防止に努める」。短い言葉を重ねて、言い逃れをしない。けれど、文の継ぎ目が粗く、ところどころ同じフレーズが繰り返され、主語と述語の距離がたまに迷子になる。
「……読める?」
向かい側から低い声。真白は顔を上げかけて、慌てて紙に視線を戻した。
「読めます。読めますけど……」
赤ペンが勝手に指に吸い付く。ぐっと堪えたが、堪えきれなかった。文末に小さな丸を打ち、余白に「句点」「段落を分ける」と小さく書き込む。琥太郎の視線が、その赤い印を追う気配がした。
「おい。添削、すんの?」
「提出物です。読みやすさは大事です」
「反省文って、読めりゃいいんだろ」
「読めれば、です。読みやすいはさらに良い、です」
会話のテンポが、昼間より半歩だけ柔らかい。真白は自分の内側のその変化に気づき、ぎゅっと背筋を正した。
二枚目をめくる。
ところどころ手が止まった跡がある。書き直そうとして、消し跡が紙を白くこすっている。
(消せないインクなのに……指でこすってる。無理なのに、直そうとした跡)
「ここ、同じ言い回しが続いているので、言葉を変えると――」
赤ペンが走る前に、彼の指がそっと紙の端を押さえた。驚いて視線を上げる。距離は昼間ほど近くない。けれど、目と目が合うと喉が少し乾く。
「……書き直すの、下手なんだよ」
「見ればわかります」
「直球だな、委員長」
琥太郎の口元がわずかにゆるむ。
真白は自分の耳が熱くなるのを感じた。赤ペンを持ち直し、口角に力を入れて真面目な顔を作る。
「ここ、『反省しています』が四回連続しています。同じ段落に『反省』が四回は多いです。具体性がない、と先生に言われます」
「具体性、ね」
「たとえば――『今後は校内に持ち込まない』だけではなく、『家庭に持ち帰る前に中身の見えない袋に入れて、学校では読まない』など、行動レベルに落とす。あと、授業中に……えっと……」
(授業中に眠そうにしているのも、たまに見かける。言うべき? 今は違う?)
「……など、です」
「……など、な」
琥太郎は自分の字を見下ろして、短く息を吐いた。三枚目に目を移すと、最後の行に大きな余白がある。そこでペンの跡が迷っている。
(締めの言葉、迷ったんだ)
「最後は、『再発の際には相応の処分を受ける覚悟がある』みたいに――あ、でも、覚悟より先に『しない』が先です。『誓います』の方が前」
「“誓います”って書くと嘘っぽくねえか」
「嘘じゃないなら、嘘っぽくないです」
沈黙。
蛍光灯の微かな唸る音。換気扇が風を吸う音。遠くの部活の掛け声。
琥太郎は目を細め、笑うでもなく、苦笑するでもない表情をした。
「……じゃあ、書き直す」
「今、ですか?」
「今」
短く返され、真白は慌てて新しい用紙を差し出す。琥太郎が立ったまま書く気配だったので、真白は急いで机の空きを作る。
ぶっきらぼうに腰掛けた琥太郎は、ペンを持つ右手を一度握ってから、ぐっと一行目を書いた。
筆圧の強さに紙がきしむ。
(字は荒いけど、迷いは少なくなってる。言い訳のない書き方を――選んでる)
「“この度”の『度』、偏と旁が……こう。はい、ここ」
「先生かよ」
「委員長です」
視線が合って、二人とも一瞬だけ息を呑んだ。真白は慌てて咳払いをして、赤ペンの蓋をカチリと閉める。
「続けてください。私は見てません。――いえ、見ますけど——」
「どっちだよ」
横顔に、昼間より柔らかい影が落ちている。
琥太郎のペン先が走る音が、静かな準備室と真白の胸に心地よく響く。
真白は台帳に視線を落とし、必要以上に丁寧に日付欄をなぞった。
(約束を守って、ここに来た。書き直すと言った。――ただそれだけのことなのに、どうしてこんなに、安心するんだろう)
二枚目の途中で、彼のペンが止まった。真白が顔を上げると、机の端の古い時計に彼の視線が吸い寄せられている。短針と長針の位置を確かめるように一瞬だけ見て、すぐに紙に戻る。何気ない仕草のはずなのに、そのわずかな焦りが、真白の胸に引っかかった。
(時間……気にしてる。――用事? 帰りたい理由?)
尋ねかけて、唇がほんの少し動いて止まる。
琥太郎のペン先が再び走り出した。
三枚目の中ほどで、真白は赤ペンの蓋を指先で回しながら、小さな声で言う。
「……急ぎますか?」
「ん?」
「さっき、時計……見てたから」
「癖だよ」
短く返す声は、素気ない。けれど、その素気なさは、どこか嘘の場所を隠す壁紙のようだった。真白はそれ以上踏み込まない。踏み込まないことが、今は礼儀だと思った。
「“誓います”の前に、“二度と”を入れてもいいです。“二度と、”――はい、読点」
「読点……な。こう、だろ」
「はい。上手です」
「子ども扱いすんな」
「扱ってません。……評価です」
また、息が合わないまま合っていく妙なテンポ。真白は内心で笑いそうになる。笑ってはいけないと思い直して、真面目な顔に戻した。
三枚目の最後の行。
琥太郎は一度ペンを止め、紙の余白を見つめた。
真白は、何も言わなかった。
言ったら崩れるバランスがある。
琥太郎の中で言葉が沈澱するのを待つ。
やがて、ペン先がそっと紙に触れた。
『以上の通り、二度と同じことはしません。』
『迷惑をかけたことを反省し、再発防止に努めます。』
『提出者 ――』
名前を書く前に、琥太郎が一瞬だけ真白を見た。
真白は視線を外せなかった。
ただ、琥太郎は何事もなかったように、紙へ視線を戻し、ペンを動かす。
署名。日付。最後に真っ黒な句点。
真白は琥太郎がペンを止めるまで、じっと彼を見つめてしまっていた。
「……終わり」
紙を揃えて差し出される。真白は受け取り、順に目を通した。文の骨がさっきよりしっかりしている。反省という言葉の回数は減り、何をどうするか、の具体が増えている。ところどころ文法の継ぎ目は荒いけれど、意味は明確だった。
「はい。受理します」
台帳の『提出確認』欄に、自分の名前を署名する。日付印を朱肉に押し、ぽん、と小気味よい音が木の机に跳ねた。
「誓約書は?」
「それも、今書く」
「――ありがとうございます」
琥太郎は誓約書の定型用紙に向き直り、必要事項を埋めていく。住所、氏名、学年、担任名。文字はやっぱり荒い。けれど、空欄を飛ばさない。
真白は自分の胸の中で、もうひとつ小さな安心が灯るのを感じた。
「担任への報告は、私からします。内容は最低限に留めます。それから――」
「返却、だろ」
「……はい。規程に基づいて、返却します。ただし、“校内に持ち込まない”のは絶対です」
「わかってる」
真白は鍵束を手に取り、スチール棚の前へ立つ。南京錠の番号を回し、鍵を差し込む。金属の小さな音。扉が開く微かな風。その奥から、ブックカバーの付いた本を取り出す。表紙を見ないように、少しだけ顔をそむけた。
「……これは、返却します—―」
「感想は聞かねぇって」
「言いません!」
受け渡しの瞬間、指先が触れそうになって、どちらも一瞬だけ止まる。
触れない。
紙の上でだけ起きる、ぎりぎりの距離感。
真白は本を差し出し、琥太郎が受け取るのを見届けると、瞼をそっと閉じた。
「サンキューな」
小さな声が琥太郎の口から出る。
少し不器用な丁寧さ。
真白は瞬きをして、耳に届いたそれを頭の中でもう一度再生する。
「……いえ。職務です」
「職務でも。――サンキューな」
短い沈黙。
真白は机の上の赤ペンを見つめた。蓋の赤が、蛍光灯の白に少しだけ透けて見える。
「字、練習しますか?」
「いきなり課題出すなよ」
「毎日三行ずつ。“読みやすい字を目指す”。反省文より、将来役に立ちます」
「将来……ね」
琥太郎は、どこか遠いものを見る視線をした。
ほんの数秒。すぐに、戻ってくる。
「三行。覚えとく」
「本当に?」
「……たぶんな」
「たぶんを“誓います”に変えられますか」
「強情だな委員長」
言葉の角がとれていく。
真白は胸の奥がふわりと軽くなるのを、わざと見逃したふりをした。
準備室の時計が、針をひとつ進める。
琥太郎はまた、さっきと同じように時間を確かめる仕草をする。
今度は、それを見ていたことを悟られないように、真白は台帳に視線を落とした。
「急ぎますか?」
「さっきも聞いたろ」
「はい。……二回目です」
「癖だよ。――それと」
言いかけて、琥太郎は口をつぐむ。
言葉を選ぶように、視線を少しだけ泳がせる。
真白は椅子に座り直し、待った。
待つことが、今は自分にできる精一杯のことのように思えた。
「……晩、買い物。寄って帰る」
「買い物」
「そう」
短い肯定。
真白はそこから先に踏み込むのは、野暮だと思った。
赤ペンのキャップを指先でくるりと回す。
「じゃあ、引き止めません。――提出、確認しました。誓約書も」
「助かった」
彼は立ち上がり、扉の方へ二歩進んでから、ふと思い出したように振り返る。
「……その、字。三行。――“やってる”って言えたら、ここで言う」
「報告ですか?」
「報告」
「わかりました。受理します」
口にした瞬間、なんだか可笑しくなって、真白の口から小さく笑いが漏れた。
琥太郎も、ほんの少しだけ口の端を上げる。
準備室の引き戸が、静かに開き、静かに閉じた。
残された部屋には、紙とインクの匂い、金属棚の冷たい手触り、そして日付印の朱の艶だけが残る。
真白は赤ペンを置き、台帳に今日の日付と「反省文受理」の文字を丁寧に書き込んだ。
文字が、いつもよりまっすぐに感じられる。
(約束を守る人。言い訳を選ばない人。――不器用だけど、まっすぐ)
胸の内側が、静かに温かかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます