第3話「役職の名:監察官/残渣清掃員」
——再起動回数:003。
数字は、今日も冷ややかに従順だった。従順さは、ときに人の心を油断させる。ユウトは起き抜けの舌で金属の味をそっと押し返し、枕元のフラグメント・ノートを開いた。紙は夜の湿気を少し吸い、角が丸くなっている。鉛筆の芯は昨日のまま、角がわずかに潰れ、線の最初の一払いに柔らかい遅延が乗る。
上段のピクト群——△(リラ)、■(ミナ)、波(ヴァルド)、|(カイ)、S(マルタ)、{ }(デン)、葉(ソラ/消)——に、ユウトは**⚓(錨)と□(空ポッド/斜線二本)を並べ直してから、太い一本線を引いた。その線の横に、油性ペンで「役職COを盲信しない」と書く。盲信は速度だ。速度は刃**だ。今は刃が多すぎる。
居住区に出ると、空気は「初日の朝」の真似をしながら、二日目の筋肉で動いていた。テーブル角の固定バンドは斜め、カップは二つ重ねて逆さ、もう一つは中に水滴。昨日と同じ、だが目は違いを拾うように訓練されている。
「おはよう」リラが最初に言った。△のピクトに相応しく、音が跳ねる。「砂嵐は少し弱まった——ように見えるけど、遅延は四秒前後。わたしは遅延が嫌い。嫌いなことだけが、わたしに正直」
「波形、やっぱ気持ち悪いまま」ヴァルドの低音が食堂の骨格を鳴らす。「ピークは戻らない。戻らないまま、安定。安定は安心の仮面をかぶった敵だ」
「循環障害は今日も起こりうる」■のミナが手帳を掲げる。「初日の推理は逸話バイアスに弱い。二日目は逸話の集積がもっと危険。——だから、手順に頼る」
「ゼリーは甘い」{ }のデンが肩をすくめる。「甘いことは嘘をつかない。いや、つくけど、許せる嘘だ」
「操縦区、異常なし」|のカイは短句で置く。「今日の投票は遅く、短く」
ユウトはリラの前髪留め(三角ピン)に目をやり、ノートの片隅に**△の横線を一本足した。速度のドレミファを、自分なりの符丁で記す。早口は情報量を増すが、場の心拍**を上げる。心拍が上がると、結果が先に来る。結果が先に来る場所は——エコーが好む穴。
「さて」ミナが黒板の端にチョークで四角を描いた。その中に大きく二語。監察官/残渣清掃員。その瞬間、場の温度が半拍ぶれた。役職の固有名は、議論の言語UIを一気に変える。
「コイツを出すか」ヴァルドが椅子の背もたれに腕を載せる。「名前は好きじゃない。けど骨の名前は嫌いじゃない」
「監察官(予知スキャン)と、残渣清掃員(護衛)が存在する。訓練仕様書に明記がある」ミナは淡々と言い、チョークで占いの目の記号と、盾の記号を描く。「いるかいないか不明ではない。いる。——だから、今この場で、名乗ることが戦術になる」
「わたしが監察官」リラが手を上げた。間髪入れず。「今朝、スキャンした。結果は——ミナ、黒」
空気が一度だけ、薄く衝撃を受けた。黒、という二音は、場の目を色で縛る。ユウトはノートに「△→■黒」とだけ書き、評価語を飲み込む。口の中で「黒」が砂糖のように溶けていくのを、吐き出さずに咀嚼し、飲み込んだふりをする。
「わたしも監察官」ミナが静かに言った。声は熱を持たない。「今朝、ヴァルド白。結果は白」
「対抗成立」カイの短句。
「成立」ヴァルドは眉間を揉み、目を細めた。「白ね。わかった。俺は白の骨とやらを演る」
「おいおい、対抗がしれっと出るの、嫌いじゃないけど心臓に悪いね」デンが笑い、笑いは半拍遅れた。「二人監察官は理論上あり得るが——場が割れる」
「清掃員は名乗らないで」ミナが即座に被せる。「護衛は生きてる時に価値が最大。名乗れば刃先が向く」
ユウトはノートの左端に太線を引き、油性ペンで重ねる。「最初にCOを盲信しない」。太字は注意喚起であり、力学の矢印。最初に声を出した者は、場の拍を握る。握った拍は凶器にも手綱にもなる。拍を奪い返す術は、速度を落とすか、UIを変えるか。
「今日の方針」ユウトは言い切らずに口火を切る。「情報価値を優先。誰を冷凍すれば、明日の情報量が増えるか」
「それってわたしを冷凍するのが最適じゃない?」リラが肩をすくめる。言い方は軽いが、瞳孔は粘土のように重い。「ミナ黒が嘘なら、わたしを落とせばミナ真が立つ。わたし真なら、ミナ黒のまま、ヴァルド白が偽になる。どっちにしても明日、何かがはっきりする」
「逆も同じよ」ミナは微笑に似た非表情で返す。「わたしを冷凍すれば、リラ真が立つ。残るのはヴァルド白という無色の証明だけ。骨は残る。骨は残ったほうが、明日の体になる」
「自分で自分を盤上に置くの、好き」デンが手を叩く。「観客としては気持ちがいい。戦術としては、気持ちよすぎる」
「清掃員は黙る」カイが言い、視線を一度だけユウトへ投げた。二人の間に、薄い紙が一枚挟まる。共同署名の欄に必要な**「二人」**。まだ鍵は回らない。回さない。
日中の議論は、短句で区切られた。ミナは統計の図を描き、“リラ−ミナ−ヴァルド”の三角に矢印を打つ。ユウトはうなずきの遅延を観測し続け、名指しを避けるかわりに、合図のタイミングをわざとずらした。場のうなずきが、一拍遅れたり、半拍進んだりする。無駄に大きい同意が、今日は少ない。無駄に小さい同意は、保留の顔をして静かに散っている。
夕刻、ミナが黒板に投票の指針を書いた。
——①情報価値投票(明日増える情報を最大化)
——②過程の保全(UIを壊さない)
——③速断禁止(沈黙一分)
——④自己矛盾の提示(投票前に、自分の矛盾を一行)
ユウトは④の下に、小さく**⚓の記号を添えた。手順は歌**。歌はUIに落とせる。錨守の端末の画面が脳裏に浮かぶ。共同署名。閾値。今はまだ、鍵が灰色。
夜。監察の結果が掲示された。■のミナは「ヴァルド白」。△のリラは、ミナ黒。衝突は定石だ。二人の監察官が作る鏡像。場は分裂する。分裂は手順で縛る。
「沈黙、一分」ミナが砂時計を置く。砂粒の一つひとつが、薄い音で落ちる。リラは初めて、口を閉じたまま、砂の音を見ていた。
砂が落ちきると、ユウトは自己矛盾を一行書いてから、票を置いた。
——矛盾:役職COを疑うと決めながら、役職に救いを求める自分がいる。
——票:リラ。
デンは「矛盾:気持ちいい選択を避けきれない」「票:リラ」。ヴァルドは「矛盾:数字に寄りかかる」「票:リラ」。カイは「矛盾:沈黙を武器にしている」「票:リラ」。マルタは「矛盾:水の音だけを信じたい」「票:保留→リラ」。ミナは「矛盾:自分の白を信じさせたい」「票:リラ」。——拮抗は、しなかった。情報価値が場の拍を揃えたのだ。冷凍拘束の扉が開き、△の彼女は、最後に一言だけ置いた。
「明日、誰が生きてるか——それでわかるわよ」
笑いはしない。笑いは油だ。油は今日、凍る。霜花がゆっくりと扉の内側に咲き、花弁の縁が砂の波に似て揺れる。ユウトはノートへ、**△に×**を重ねる。沈黙の三角。リラの声は今晩、場から消える。声が消える場が、どう揺れるか。
その夜、ユウトはもうひとつの提案を出した。残渣清掃員(護衛)が匿名で守り先を示す仕組み——投函箱。紙片に**「守り先:——」とだけ書き、油性ペンで封をして、食堂の隅の透明な筒に差し込む。匿名性の条件は三つ。①投函は一名一枚**。②日付スタンプを押す。③翌朝にAIが枚数だけ読み上げるが、筆跡は公開しない。
「匿名は毒にも薬にもなる」ミナが針のような声で釘を刺す。「今夜だけ。必要なら続ける。——護衛は死なないことで価値を生む。名乗るな」
「ポストは私が見張る」カイが透明筒の位置を調整し、視線の死角を作る。「囁き禁止を守る部屋の延長」
「囁き禁止、好き」デンが笑い、今度の笑いはちょうどいい遅延で届いた。
ユウトは、投函箱の前に短い手順書を貼った。短句。矢印。数字。手順は歌詞。歌詞は短いほど、遠くへ残る。
——守り先を一行。
——誰にも見せない。
——朝、AIが枚数だけ読む。
——守りは手順。
——手順は過程。
——過程で守る。
眠りは、やはり来た。四拍に割り、砂の音を拍子木に見立て、瞼を閉じる前にノートへ最後の一行を書いた。「⚓は灰。鍵は二人。明日、白が残れば——」
——起床手順、完了。
目を開く前に、AIの声が耳に触れた。「投函:一枚。内容、守り先:ミナ。筆跡情報、非公開」
ユウトは、頬の下の枕の温度がほんの少し高いことに気づいた。誰かが眠りながら、手順を抱きしめた痕跡。彼は手首を持ち上げ、タグの数字——003——を確認し、食堂へ小走りに向かった。食堂では、砂時計の隣に透明筒が置かれ、底に一枚の紙片が斜めに引っかかっている。ミナは淡い顔でそれを一瞥し、黒板の端に盾の記号を小さく描き加えた。
ヴァルドは——生きていた。席に座り、腕を組み、波形グラフを睨む。その存在だけで、結論がひとつ削れる。ミナ→ヴァルド白が当てなら、彼が今朝死んでいないのは自然。リラ→ミナ黒が当てなら、昨夜清掃員がミナを守った可能性は紙片で補強される。だが、どちらかは偽。二役職のいずれかが偽だと、数字が告げる。骨が告げる。
食堂の温度は、ひとつ落ちた。落ち着いた、のではない。落ちて、沈んだ。誰も、リラの名を口にしない。冷凍室の霜花は、遠い壁の裏で静かな結晶へ変わっている。ユウトはノートの〈見た〉欄に**「ヴァルド:生」とだけ置き、〈違和感〉欄には「匿名の安堵」と書いた。匿名はたしかに薬にもなる。だが、同時に毒にもなる。毒は、少量でなら薬**だ。
「判明、とまでは言わない」ミナがチョークで、黒板の端に分岐の図を描き、二本の枝に点を打つ。「監察官の片方は偽。清掃員は昨夜ミナを守った可能性が高いが、虚偽投函の線もゼロではない」
「投函の虚偽は、場の拍を壊す」カイが言い、筒の位置を少しずらした。「今夜以降は二重封も検討」
「俺は生きてる」ヴァルドがぼそりと言う。「生きてる骨は、明日も骨でいたい」
「骨が喋ると急に可愛いの、やめて」デンが笑う。笑いは半拍早かった。安堵は速度を上げる。
議論は、増えすぎた役職の影を避けながら進む必要があった。ユウトはノートの端に黒い帯を塗り、そこへ白ペンで書く。「役職を場に増やしすぎると破綻が早まる」——この言葉は、経験ではなく直感だ。だが直感の上に手順を渡せば、確率は改善する。フラグメントは、確率の改善に使うもの。真実の特定のためではない。明日の選択肢の配列——すなわちUIを改善するため。
ユウトは、午前の終わりに、錨守の端末へまた降りた。画面の鍵はまだ灰色。共同署名の欄は空。だが、端末の下に差し込んだ小さな紙片——「二者逆説」——は、まだ剥がれていなかった。油性ペンは時間に強い。時間に強いものを、場に増やす。紙の歌詞、砂時計、透明筒、短句の掲示。役職の名前が場のスピードを上げるなら、手順の名前で場の速度を落とし続ける。結果を先に食う口には、過程の歌を詰める。
——午後の投票は、保留になった。情報価値という言葉が、場の舌に残り、無闇な決着を避けた。デンは配給予定表の端に**「笑いは油」と落書きし、ミナは投票UIの改善案を黒板に描いた。Yes/Noの二択に加え、「保留」の明示欄**。カイは沈黙タイマーを砂時計で強制し、ヴァルドは骨として居続けることを選んだ。マルタは水処理設備の半音が元に戻っていることを報告し、ユウトはノートに**「半音→基準」と記した。砂嵐は——リラの席の上に描かれた△の記号の輪郭**のように、少しずつ薄れていく。
夜。ユウトは、眠る前に、ノートの末尾に太字で書いた。
——**役職(名前)**は、速度。
——**手順(歌)**は、粘度。
——速度が増えれば、破綻が早い。
——粘度を足して、確率を改善。
——錨はまだ灰。
——鍵は二人。
——明日、共同の拍を探す。
呼吸を四拍に割る。砂の音は、遠い。遠いまま、耳の内側に白い波として残る。眠気は、手順。手順は、歌。歌は、次の世界線でも、場のどこかに薄く残るはずだ。リラの声は凍り、ミナの黒は宙ぶらりん、ヴァルドの白は一夜を越え、清掃員は紙片だけで喋った。匿名の声は、手順に乗せれば薬になる。
——起床手順、完了。
タグの数字が004へ跳ねた。紙は残り、ピクトは濃い。ユウトはノートの見出しに、油性ペンでもう一度重ねた。「役職を場に増やしすぎると破綻が早まる」。そして、鉛筆で追記した。「フラグメントは真偽の断定ではなく、確率の改善に使う」**。
扉が開く。食堂の温度は、昨日より遅い。良い遅さだ。遅さは、笑いの遅延をちょうど良くし、うなずきの遅延を観測可能にし、結果の侵入を一瞬だけ止める。止まった一瞬に、鍵を回す二人の拍を探す。錨の灰色の鍵穴に、今日も指を揃える。誰かと一緒に。二人で。過程の歌を固定するために。
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