第19話 オタクの戦場 後編


「あ、すみません……! 入っています!」

「……え、その声……もしかして椎名風紀院長、ですか……?」

「「⁉」」


 な、何でここに楓が⁉ どどどどうしよう……!


 俺は慌てふためき、動揺する。……が、よくよく考えてみればそんな必要はなかった。


 ……いや、何で隠れてんだ俺達。別にやましい事は何もないだろ。


 そうだ、偶然椎名先輩と会って、成り行きで休憩していたとかで説明すればいい。この状況だって食べ過ぎたとかで説明が付くはずだ。慌てる必要もなければ、動揺する必要もないじゃないか。

 俺は跳ねていた鼓動を鎮め、取っ手に手を掛けた。

 しかし椎名先輩はそんな俺の手を取り、妨げる。


「(待ちなさい……)」

「(え? 何でですか?)」

「(ここで私達が出ていって、一緒に居ることについてどう説明するつまりなのかしら……?)」

「(そりゃ、一緒にカフェで休憩していたとかで……)」

「(していた、それで? その次は? こっそり二人で海から抜け出した理由は? 机に残っている大量のコラボパフェは? どう説明するつもりかしら?)」

「(あ、確かに……)」


 仮にこの状況について説明できたとしても、その他については説明が付かない。更に椎名先輩がBLオタクだという事が判明すれば、下手をすれば同盟関係の事だってバレる可能性だってある。そうなれば椎名先輩とあれやこれやした事だってバレてしまい、楓を傷付けしまう!


 マズい、マズ過ぎる……それだけは絶対に阻止しないと……! 


 俺と椎名先輩は向き合い、意思疎通して頷き合う。


「えっと、大丈夫……ですか……? 返事がないようですが……」


 しばしの沈黙に違和感を覚えたであろう楓が、心配そうな声音で問いかけてくる。

 それに俺は口を塞ぎ、椎名先輩が答えた。


「あ! いえ! 心配いらな──うぷっ!」

「(し、椎名先輩⁉)」


 焦燥感に駆られて腹に力が加わったのか、椎名先輩は再度顔色を悪くし、込み上げる。

 事情を知らない楓は、訝しむ様子で訊いてきた。


「椎名先輩……? 本当に大丈夫ですか……?」

「え、えぇ! 大丈──オ゛ロロロロロロロロロッ……‼」

「(先輩ぁあああああああああああああああい⁉)」


 瞬間、虹色のそれらが空を舞い、文字通り虹を造った。世界一見栄えの悪い、クッソ汚い虹の完成である。

 だがそれに見惚れているのも刹那、虹は落下し俺の上半身に付く。


「(ヒィィィッッッ⁉)」


 俺は口を抑え、絶叫する。とはいえ俺の今の姿はほぼ裸体である水着。幸運にも服には付着していなかった。……いや、幸運なのかこれ。

 もうまともな判断も取れず、俺は無我夢中で椎名先輩を介抱する。


「ほ、本当に大丈夫なんですか……⁉ 開けますよ……? 開けますね……⁉」


 切羽詰まった楓の声が聞こえたかと思えば、ガチャッと鍵が開けられていく。


「⁉」


 俺はすぐさま鍵を片手で抑え込む。

 普通、外部から鍵を開けることなど不可能なはず。となると……、


 ここ十円玉とかで開くタイプの鍵じゃねぇか! ふっざけんな!


 トイレでよくあるあのタイプの鍵かと、俺は舌打ちをしてなんとか片方の手で抑え、もう片方の手で椎名先輩を介抱し続けた。

 ちなみにこの状況を俯瞰して見てみると、クッソ汚い虹を掛けられるわ、先輩を介抱しなきゃいけないわ、鍵を無理やり開けられるわと、もうめちゃくちゃであった。


 あぁ……戻りたい……、旅行前の浮かれていたあの頃に……。


 そう願っても、何も起きるはずがない。故に俺は艱難辛苦の中、必死に首を振って難を逃れる為に糸口を探し出す。そうして……一筋の光を見つけ出した。


「(……はっ! 椎名先輩! 俺の言う通りにしてください!)」

「(え? えぇ……分かったわ……)」


 きっとこれしかない。多分これが、唯一残された道筋だ! 


 そう信じて、俺と椎名先輩は行動を起こし、やがて扉は開かれていき──


「──あ、椎名先輩。本当に大丈夫ですか……?」

「え、えぇ……大丈夫よ。心配かけてごめんなさいね……」


 椎名先輩と楓は顔を合わせ、対面する。

 ちなみに俺からはそんな椎名先輩と楓の頭頂部が見えた。そう、つまり俺は……トイレの両壁を使って天井に張り付いたのだ。


 グッ……咄嗟の思いつきにしてはだいぶ良い案だけど……これ……キツッ……!


 四肢を使って壁に張り付くその様はまさに謀蜘蛛男であり、思っていた以上に筋力を要するものであった。

 俺はプルプルと四肢を震えさせながらも、必死の思いで粘って張り付く。

 すると椎名先輩と楓は会話を終え、やっと解放される──と思いきや、楓は普通にトイレに入ってきた。


「…………ッ!」


 ですよねぇ! じゃなきゃトイレなんかノックしませんもんねぇえええ!


 予想通りとはいえ、いや予想通りだからこそ俺は冷や汗をかき、心臓を跳ねらせる。

 楓は天井に張り付く俺に気付かず、水着のパンツを下ろしていく。


「ッ⁉」


 肌と擦れて生じるスルスルという衣擦れの音に加え、盗み見というシチュエーションが俺の欲を搔き乱す。俯瞰視点で大事なところが見えないとはいえ、それでも気がどうにかなりそうだった。


「(フゥ……! フゥ……!)」


 罪悪感に苛まれ、汗と息切れと心臓の鼓動が止まらない。

 楓はそんな俺にやはり気付かず、パンツを完全に下ろし、便座に腰を下ろしていた。


 なっ⁉ ま、まさか……⁉


 トイレに入り、パンツを下ろし、便座に座ってすることといえば……一つ。


「…………んっ」


 その時、楓から雀のさえずりのような吐息が漏れた。ついで、聖水によって織りなされるせせらぎもまた……。


「(おっふ……!)」


 その音は俺の全ての毛を逆立てさせ、興奮を有頂天へと至らしめる。例え見えなくても、分かってしまう。いや、見えないからこそ……感じてしまうのだ。

 俺は目を充血するまで瞠り、闘牛の如き鼻息を吹く。そのまま目と耳に全神経を集中させ、研ぎ澄ます。


 しかしそんな俺の意志とは反するように、無情にも物理は働く。それはニュートンが万有引力を発見した時のりんごように、ポタリと、あっけなく地に落ちた。

 地面に浸ったのは、先程椎名先輩にぶっかけられた虹という名の土砂物。それが便座に座る楓の目の前に、だ。


「あ」

「…………」


 目が合った。合ってしまった。合わせてしまった。

 一瞬……呼吸が、意識が、時が止まったような感覚に陥る。焦燥感のあまり冷や汗も完全に引き、顔は絶望一色に染まった。

 楓はそんな俺を虚ろな目で見上げ続ける。相変わらず何を考えているのか分からない、不思議な目で。

 俺は誤魔化す為、上擦りながらも無理に言葉を投げかけた。


「て、テンジョウノヨウセイサンダヨ」

「…………」


 あぁ……父さん、母さん、生まれてきてごめんなさい……。


 楓は俺の渾身の演技を聞いても全く微動だにせず、無言を貫き通す。それでも唯一変わったところがあるとすれば、それは『目』だった。その目は虚ろからまるで俺をゴミとでも言いたげな目に変わり、というかゴミでしたねはい盗み魅してすみません呼吸してすみません生まれてきてすみません。


 俺は自責の念に駆られ、まともな思考ができなくなってしまう。

 楓はそんな顔面蒼白の俺から一時だけ目を離し、徐にスマホを取り出した。


「?」


 訝しむ俺に、楓はスマホのカメラを向け──パシャリ。


 ……パシャリ?


 次にはスマホの画面に目を落とし──ピ、ポ、パ。


 ん? ……ピポパ?


 聞き覚えのある電子音の数々に、脳裏に嫌な予感が走る。そしてどうやらその嫌な予感は的中したようで、


「もしもし警察ですか? 今テンジョウノヨウセイサンと名乗る男に襲われそうでして」

「ストーップ! ストップストップ! 頼むから話だけでも聞いて!」


俺の必死の静止に従い、楓はスマホを下げる。


「……何ですか?」


 嫌々といった口調で、冷たい態度を取る楓。

 そんな楓の様子を見るに、生半可な態度では許してもらえないのは火を見るよりも明らかである。ならここは誠心誠意、純粋な気持ちで言葉を投げかけなければならない。

 俺は息を整え、真摯の眼差しで語り掛けた。


「その、実はな……これには深いわけがあるんだ」

「天井に張り付いて女の子が用を足しているところを盗み見るのにわけがあるんだ」

「うぐっ……」


 淡々と現状の絵面を告げられ、俺は自身の惨めさを思い知る。


 うぅ……辛い……逃げたい……穴があったら入りたいぃ……。


 俺は悲壮感に苛まれる。……だとしても、諦めず、屈しない。


「……別に信じてくれなんて傲慢なことは言わない。ただ、これだけは言わせてくれ」


 俺は小さく息を吸い、肺に酸素を取り入れ──


「俺は楓の彼氏として、君の事は絶対に傷付けさせないっ!」

「……!」


 ──発散。

 天井に張り付いたままなので全く格好がつかないが、それでも楓は俺の豪語に感嘆したのか、息を呑む。

 やがて親密に交じり合う、両者の視線。

 そんな最中、楓は頬を紅潮させたまま緩め、優しい声音で言った。


「そっか……なら、私もケー君に言わなきゃいけない事がある」

「え、言わなきゃいけない事……?」


 恥じらった様子で、モジモジと身体をくねらせながら続ける。


「うん……実は私、ケー君のスマホに『GPS』を仕掛けてるの」

「うん? じーぴーえす?」


 場に変な空気が流れだす。


 ……じーぴーえすって、あれか? 位置が分かる的な。え、それを俺に……?


 不意に出てきたその単語に、俺は面食らって鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。

 対して楓は先程の嫌悪感丸出しが嘘かのように有頂天となり、か細くも早口で言葉を連ねていった。


「そう、だから何時如何なる時もケー君の居場所は分かっちゃう。ここのカフェに居たっていうのもね」

「……マジ?」

「うんマジ」


 大胆不敵にも程があるだろと言いたくなるが、それよりも困惑が勝る。


 要するに先輩とトイレに居たのも、俺がその天井に張り付いていたのも知ってて……?


 全てを理解した瞬間、俺は急に楓が怖くなり、顔を強張らせた。

 肝心の楓はというと、まるで恋する乙女のように照れている。


 ……ああ、流石楓だ。……照れているのに、全く可愛げがない。


 俺は楓のギャップ萌え? に思い知らされて当惑するが、楓は構わず口を開く。


「ちなみにケー君の隠し撮りとかもあるよ。ケー君が笑顔の時の写真とか、ケー君が困っている時の写真とか、ケー君がお寝坊な時の写真とか寝顔とか……あ、こういうのもあるよ、くしゃみが出そうで出ない一連の流れを連写した写真集」

「いろいろ言いたいことあるけど最後の写真に悪意がある事は分かった」

「フフッ」

「フフッ、じゃないよ? 笑えないよ?」


 お茶目に笑う楓に、俺はツッコむ。

 年相応の可愛らしい女の子の笑みだというのに、一切気が抜けないのは何故なのか。

 そんな身構える俺に向けて、楓は頬を赤面させて告げた。


「と、とにかく私が言いたい事は……その──」


 恥ずかしそうに悶えるその姿に、俺は不覚にもキュンと胸をときめかせる。


 や、やはり俺の彼女は……もしかしたら本当は可愛いのかも……!


 俺は一筋の希望を抱く。そして楓から放たれる言葉を今か今かと心待ちにし、


「──ケー君も実は私と同じ仲間変態なんだねっ」

「いや一緒にしないでもらえますぅ⁉」


 瞬間、希望は一瞬で消え失せた。

 激しく動揺する俺に、楓もまた両壁に手を付けて登ってくる。


「⁉」

仲間変態同士、お互いの性癖を開発していこうねっ」

「だから怖いって! 後俺変態じゃないし!」

「それじゃあまずは天井に張り付きながらえっちしよ。新感覚だね、ねっケー君」

「新感覚過ぎてもはやキモいわ! ってかなんか嫌だ! 天上で童貞捨てるの!」

「もぅ……恥ずかしがっちゃって。でもそんなケー君も大好き」

「嬉しいなぁああああああ⁉ って、あ」


 俺は興奮のあまり手を滑らせ、落下する。その下には楓も居て、ちょうど下敷きとなる形になっていた。


 マズい! このままじゃ……!


 俺は即座に楓を抱え込み、壁を蹴って身体を反転。しかし空中故にまともに態勢を変えることが出来ず、楓は守れたもののほぼ受け身を取れていない状態で激突する。


「い、てて……」


 背中と尻が痛む。それでも俺はすぐさま顔を上げ、抱え込んだ楓の顔を覗いた。

 楓は……目を見開いて、珍しく瞠目している。少なくともその様子を見るに、怪我はしていないだろう。

俺は安堵し、一息つく。


「どうして……」


 すると、楓からか細く震えた声が呟かれた。

 不安がっているような、怖気づいているような……そんな声と顔。

 俺はそれを見て瞬時に楓の気持ちを察知し、痛みも忘れて微笑んだ。


「言っただろ、俺は絶対……楓を傷付けさせないって」

「──!」


 瞬間、瞠目していた楓の頬が赤くなった。

 瞠った双眸の中の瞳孔も見開かれ、赤くなっていた頬は緩んで口をポカーンと開けている。

 いつも寡黙で落ち着いている楓らしからぬ照れたその表情に、俺もまた感化されて目を瞠り、本音を漏らす。


「……可愛い」

「~~~~~~⁉」


 咄嗟に出てきた俺の言葉は楓を更なる混乱へと誘い、パニックを来させた。

 瞠った双眸はグルグルと回転し、頬だけでなく顔全体が真っ赤に染まってやかんさながらに蒸気を発する。

 楓は自身の表情が破願しているのが分かった途端、バッと顔を手で覆い隠し、顔を背けた。


 あっ、かわい。


 そんな照れる仕草すら愛おしくなり、俺はにんまりとした笑みを浮かべ、揶揄う。


「カ~エ~デェ~チャン! 照れるなよぉ。さっきまでの威勢はどうしたん──ボグフッ‼」


 が、調子に乗って緩みきった俺の頬に楓の平手打ちが炸裂。

 羞恥によって威力が増したその一撃は俺を軽く弾き飛ばし、その隙に楓は慌てふためいてトイレから逃げていく。

 そうして俺一人がトイレに取り残された。


「あ……やりすぎちゃったかな……」


 俺は可愛さのあまり揶揄い過ぎたことを反省し、項垂れた。そうするとふと、ポケットにしまわれたスマホが振動する。


 ん? メッセージか?


 俺はスマホを取り出し、画面に目を落とす。椎名先輩からだ。


『悪いのだけど、残りのパフェ全部食べてくれないかしら』

「ん……?」


 更に振動し、メッセージが送られてくる。


『そこに矢野さんが居るでしょう? なら、私はそこには居られない。だから貴方が全部平らげてちょうだい』

「はい……?」


 加えて振動。


『お代は全部机にあるから。ではまた後で』

「え……勝手に話が進んでる……」


 一方的過ぎる流れに俺は終始唖然となる。……と言っても、腹の余裕は茶番を繰り返したおかげで随分空いたし、なにより全部奢りなのだ。特段、迷うことはない。

 俺はゆっくりと立ち上がり、背伸びをして、独り言つ。


「まぁ……食うか」

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