第15話 友達想いの優しい人


『お前さ、ウザいよ』


 昔、といっても中学三年生の頃、クラスの男子からそう言われた事があった。

 その男子は嫌がっているわけでもなく、蔑視しているわけでもなく、ただ淡々とした低い声音で──今思えば、はなから興味もなかったんだと思う。でもだからこそ、一番心に堪えた言葉だった。


「待って……! ごめん俺が、俺のせいで……!」


 目の前の男子に、手を伸ばす。だが男子は踵を返してそっぽを向き、歩き出した。


 あぁ……と同じだ……。


 届かない。手も、言葉も、届くことなどもうありはしない。過去が覆らないのと同じように。


『お節介な独善者』


 ふと、そんな言葉が浮かんだ。


『自意識過剰な偽君子』


 ついで、そんな言葉が浮かんだ。


『ヒーロー気取りの偽善者』


 続いて、そんな言葉が浮かんだ。



 また、そんな言葉が浮かんだ。


 こんな事で償えるとは思っていない。非難されて当然だ。だけどそうすることでしか、俺は俺の罪を許せない。そうして一生罪を背負い続け、苦しみ、藻掻き、苛まれることこそが──俺に課せられた責務なのだから。


 突如、足元が沈む。

 底なし沼に引きずり込まれるかの如く、憎しみに呑まれるかのように、俺は沈んでいく。

 光はない。身体の感覚もない。意識すらも、途絶えそうになる。……それでも、伸ばした手だけは、絶対に絶やさすに──。


       ※


 目を覚ますと、息苦しかった。瞼を開けようとしても、開かない。というか、顔全体に鉛のような重い何かが伸し掛かっているようだった。……しかし、重い、と言ってもソレは柔らかい質量もまた内包していて、鉛のような重さすらもその弾力で跳ね飛ばしている。

 重くて、柔らかくて、心地良い……。まさにソレは布団のよう──


「──って、おっぱいやないかいっ!」


 俺は顔を横にずらし、小声でそうツッコむ。眼前にこれでもかと大きいおっぱいが映し出された。

 おっぱいの主は……顔を見なくても分かる。綾乃雀だ。

 俺は半ば興奮しつつも、起こさないように慎重におっぱいを退かす。徐に両横を見てみると、あむと楓が朝日に照らされながら寝息を立てていた。勿論、雀も同様に。

 満足そうな、それでいて穏やかな寝顔。


 幸せそうな顔だなぁ。あぁ……今すぐ叩き起こしたい。


 シングルベッドをぎゅうぎゅう詰めに占領する三人を見下ろしながら、俺は満面の笑みでそう思う。


 言っておくが、怒ってなどいない。昨夜散々襲ってきた挙句寝る場所まで奪うとはいい度胸だなこの野郎とか、決して思ってもいないのだ。寧ろ穏やかに俺は朝を迎えている。それだけ落ち着けるのも、全ては無の境地に至ったが故の事であった。

 俺はベッドから出て、伸びをする。昨夜の出来事を脳裏で反芻する。


 ──昨夜、あの後も自害の俺と平手打ちのあむとで死闘が続いた。その末、皆が寝落ちした事で俺が勝利を果たしたのだ。けれども身体は疲労困憊、夜中まで死闘が続いたことも相まって俺の意識は今朦朧としていた。

 陽光に満ちた自室の真ん中で欠伸(あくび)をする。


 ……眠い、二度寝したい。


 ぼんやりとした目を擦り、願望を抑え、ふと時計を見た。


「…………」


 時計を、見た。

 壁に掛けられた、丸い時計を見た。

 あれは、時計だ。

 最近購入したばかりの、新品の時計だ。

 ……では何故、時針は『八時』を指しているのだろう?


「…………」


 秒針は動いている、正常だ。故障の心配はこれっぽっちもない。……寧ろ心配があるとすればそれは──


「寝坊したァァァ⁉」


 ──学校への遅刻の心配である。


「おい! 早く起きなきゃ遅刻するぞ!」


 俺は楓、雀、あむを揺さぶって強引に起こす。


「えぇ~……後五分っ……」

「起きろ雀!」

「…………スヤァ」

「寝るな楓!」

「へへぇ~お兄ちゃんの顔面にドロップキーック……!」

「あむに至ってはわざとだろ!」


 顔にドロップキックをお見舞いされながらも、俺は懸命に三人をベッドから引きずり下ろす。


 楓と雀には別室で制服に着替えてもらい、あむに関しては無理やり俺が制服に着替えさせる。三人が制服に着替え終わったのを確認したら、今度は顔を洗うよう促し、その間に俺は朝食の準備を始めた。


 まぁ朝食と言っても、食パンに鯖の缶詰の具を乗せただけの簡易的なものだけど

 それでも何も食べないよりはマシだと、必死こいて支度を済ませる。丁度三人がリビングに来たタイミングで支度は終わり、そのまま三人に朝食を食べさせた。


「よし! 食べ終わったな? それじゃ学校行くぞ!」


 食べ終わったのを確認。未だ三人はうとうとと寝ぼけていて返事はないが、おぼつかない足取りで付いてきてくれる。

 俺等は駆け足で玄関まで行き、慌てて家を飛び出た。……飛び出る、はずだった。


「え」

「え?」


 眼前で、薄桃色の長髪が靡く。次に端麗な顔立ちから覗かせている明るい鮮緑の瞳と目が合う。

 ……覚えがあった、その人に。

 俺は素っ頓狂な声で、覚えのあるその人の名を口にした。


「椎名真衣、風紀委員長……?」



        ※



「──で? どうして貴方の自宅に矢野さんと綾乃さんが居たのか詳しく説明してくれるかしら?」


 終業式の後、放課後。

 全校生徒が夏休みで浮足立っていつも以上に校舎が賑やかとなるそんな日に、俺は、いや俺等は屋上で椎名先輩から尋問を受け、終始意気消沈していた。


 椎名先輩は軽蔑の眼差しを俺等に向けていて、許しを請う事すらも許してはくれない。しかしそれもそのはず。あの日──椎名先輩と初めて会話した日、俺は椎名先輩から忠告されていたのだから。


『風紀委員長だから忠告するけれど、彼女さんとは節度あるお付き合いをするように』


 あぁ、あの日に戻りたい……。


 後悔先に立たずとはまさにこの事を言うのだろうと、俺は項垂れて悲観する。

 すると椎名先輩は欲望に負け軟弱な醜態を晒して尚口籠る俺に対して、ガッ! と勢いよく足を踏み出し、威圧してきた。

 俺は気圧され、即座に顔を上げる。


「あ、はい。えっと、あれには深い深ぁい事情がありまして……」

「だからそれを訊いているのだけど?」


 クッ、分かってるくせに! この意地悪! 俺この人嫌いっ!


 どうしても俺の口から聞き出したいという強い意志を感じる。

 俺は言い逃れすることも出来ず、観念しておずおずと口を開いた。


「その、実は──」


 ……終わった、俺の人生。


 そう、思った。だが、


「──はぁ、聞いて呆れるわね」


 椎名先輩はため息一つつくだけで、どっかのパッションオタクとは違って憎しみの籠った目も、暴言を浴びせてくることもなかった。

 俺は目を瞬かせ、動揺しながら問う。


「馬鹿にしたりとか、しないんですか……?」


 椎名先輩は首を傾げ、問い返す。


「? だって今の話が本当なら、倫理的におかしいのは彼女達じゃない。そうでしょう?」


 俺は目を瞠った。


 ま、まさかこんな所に理解者が居たなんて……!


 自身の艱難辛苦を汲み取り、理解者として寄り添ってくれる椎名先輩に俺は涙が零れそうになる。だからこそ、背後に立つ楓と雀が哀れに映り込んだ。

 俺は変な笑いを引き起こしながら、後ろに居た楓と雀に振り返る。


「は、ハハッ……だってさ! おかしいのはお前等だとよ! 俺は悪くねぇ! ですよね? 椎名先ぱ──!」

「──は? 貴方は何を言ってるの? 確かに彼女達の方が倫理的におかしいけれど、私は一言も貴方が悪くないとは言ってないわ」

「え?」


 ……ん? あれ? この流れは、もしや……。


 嫌な予感がする。そしてその嫌な予感は、的中した。


「そもそも貴方が彼女達と本気で距離を置きたいと思っていたのなら、教師に相談するなり警察に通報するなりして拒めたはずよ。でも貴方はそれをしなかったどころか、自宅にまで招き入れた。貴方は自分でも気付かないうちに、そのハーレム状況を享受していたのではなくて? それとも、全ては彼女達が悪いと言い切って、『自分は悪くない! 被害者なんだ!』とでも思い込んでいたのかしら?」

「…………」


 仰る通りです……とは言えなかった。それはまだ微かに残っていたプライドからなのか、認めたくないと思い込みたい一心からなるものなのか、俺にはもう分からない。しかし無言で居続けることは、肯定と同義であった。


「はぁ……自覚できずに勘違いしていたようならハッキリと言ってあげるわ」


 椎名先輩は呆れた様子から豹変させ、冷徹な声音で告げる。


「……最っ低、この人間の屑がッ」

「…………」

「ケン君……」

「ケー君……」


 うぅ……恥ずかしい……俺に哀れみの視線を向けないでくれ……。


 先程まで馬鹿にしていた者達から向けられる哀れみは俺を辱め、陥れる。自業自得とはまさにこの事を言うのだろう。

 俺はシクシクと涙を流す。雀は悲観する俺を見て近づき、可哀そうな幼子を慰めるかのように語り掛けてきた。


「ケン君、私はそれでもケン君と付き合い続けるからね……」

「うぅ、ありがとう……でも諸悪の根源お前だしそもそも付き合ってないから」


 暴言を浴びせられ悲観しながらも、俺に付け入る隙はない。


 そんな光景を遠巻きに見ていた椎名先輩はまたしてもため息をつき、やれやれと額に手を当てた。


「はぁ……先が思いやられるわね、これから夏休みだというのに」


 不意に発せられた『夏休み』というその言葉に、楓はピクリと身体を跳ねらせ、黙考する。

 俺は地蔵の如き楓の妙な動作に気付き、問いかけた。


「どうした楓? 珍しく浮足立っているみたいだけど」

「……あ、うん、夏休みだからもうすぐ旅行だなぁって」

「! そういえば確かに!」


 以前楓と決めていた旅行を思い出し、悲観して俯いていた俺は顔を上げて笑顔を浮かべる。


 海! 山! 彼女! 旅行! うん! 最っ高じゃないか!


 これぞまさに青春だと、瞳を輝かせて有頂天になる俺。

そんな希望に満ち溢れた俺の横で、同様に白々しく跳ね上がる雀。


「イェーイ! 旅行だー!」

「? 何で綾乃さんも行く前提なの?」

「? 彼女だから」

「…………」


 ……怖い、怖すぎる。


 前提から間違っている返答に、もはや俺は恐怖を覚えて黙り込む。とはいえ誤りは誤り。こういう時こそきちんと否定しなくては。

 俺は一息ついて雀の両肩に手を乗せ、真摯な表情で言い聞かせる。


「綾乃さん、この旅行は楓と前々から考えていたものなんだ。それをいきなり『自分も彼女だから』と言って付いてくるのはいろいろ困るんだよ。ってか仮に彼女だとしても、出発目前で『自分も行くー!』と割り込んでくるのは人としてどうかと思う」


 俺は人としての常識を説き、雀はそれに委縮する。


「……そっか、そうだよね。ごめんね、迷惑だったよね……」

「うん、そうだ、迷惑なんだ。理解してくれたならこれからも弁えてくれたまえ」


 流石の雀も常識には抗えない様子で、俺は満足げな笑みを浮かべる。


 よしっ、これで心置きなく楓と青春を謳歌できるぞ!


 邪魔者はもう居ない。であれば待っているのは、煌びやかな思い出青春のみ。

 俺は今か今かと想いを馳せ、仰ぎ、大きく息を吸う。


 突如、校舎からキーンコーンカーンコーンという鐘の音が響く。今学期最後──夏休みの始まりを告げるチャイムだ。

 俺はそんなチャイムに身を任せ、瞑目し、心酔する。心酔すれば照り付ける日差しも、世界と中和する蝉の鳴き声も、浮かれる生徒の喧騒も、全てが愛おしく感じた。


 何故なら……今から俺史上最っ高の夏休みが始まるのだから!

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