透明な恋と、夕立のにおい

MARC001

透明な恋と、夕立のにおい

八月の午後、校舎の窓から射しこむ光は、色あせたポスターをやけに鮮やかに見せていた。

 天井の扇風機がうなる音とのりの匂い。教室の隅で、僕は余ったガムテープを丸めながら、ただぼんやりと彼女を見ていた。


 春野はるの――隣の席で、一年のときからずっと一緒だった女子だ。髪を後ろで結んで、文化祭の看板に最後の色を塗っている。白いTシャツの袖に絵の具の赤がついていて、それすらも似合って見えた。


「ねえ、まだ手伝わないの?」

 筆を振りながら春野がこちらを見上げる。


「してるだろ。監督って大事な役割」

「それ、さぼってるって言うんだよ」


 軽く笑う声。周囲のざわめきより少し高く響いて、僕の鼓膜に残った。胸の奥がざわつく。

 友達としての距離感を保ちながら、心臓の裏では別のリズムが走っている。そんな状態が、もう何年も続いていた。


 放課後の廊下を歩くたび、夕焼けが彼女の横顔を染めていくのを見た。体育祭で声をからして応援していた姿も、すぐ近くで聞こえる寝息も。全部、僕の時間に溶けこんでいる。

 だけど、言葉にしようとすると喉が塞がる。


「ほら、これ持ってきて」

 春野が指さしたのは、床に置かれた絵の具の箱だ。僕は慌てて立ち上がり、隣にしゃがみ込む。絵の具の匂いが強くて、彼女のシャンプーの香りと混ざった。


「完成、もうすぐだね」

「うん。……終わっちゃうんだなって思うと、ちょっとさびしい」


 彼女の声が少しだけ小さくなる。筆先を止め、窓の外を眺める春野の横顔。

 その視線の先には、夏雲に覆われた空。湿った風が吹き込んできて、カーテンを揺らした。


 胸の奥で小さなざわめきが広がっていく。今日が何かの節目になるような、そんな予感。


 やがてチャイムが鳴って、教室のざわめきがふっと軽くなる。準備はひとまず終わり、明日からの本番を待つばかりになった。

 友人たちは「ジュース買いに行こう」「写真撮ろう」などと勝手に盛り上がり、三々五々散っていく。僕もその流れに乗るはずだった。けれど、足は自然と春野のそばにとどまっていた。


「……帰らないの?」

「ちょっと。もう少し見ていたい」


 彼女は首をかしげ、机に広げた看板を見つめ直す。

 文化祭のクラス展示――小さな演劇の看板だった。派手すぎず、でも鮮やかに。クラスメイトが一筆ずつ足した色が、ぎこちなくも不思議に調和している。


「みんなで描いたんだもん。完成したのを見ると、なんか泣きそう」

「まだ始まってもないのに?」

「うん。でも、そういうのって始まる前が一番きらきらしてるんだよ」


 春野の言葉に、僕は返すことができなかった。胸に刺さったまま、ただ笑ってごまかす。


 廊下からは野球部の掛け声、遠くで太鼓の音。校舎全体が、明日に向かって熱を帯びている。

 窓の外では、厚い雲が少しずつ重くなり、夕立の気配が漂っていた。


「ねえ、」

 春野がふいにこちらを向く。

「明日、もし暇なら……一緒に回らない?」


 一瞬、時間が止まった。鼓動だけがやけに大きく聞こえる。

 口を開こうとして、でも声にならなかった。


 その沈黙を打ち破ったのは、雷の音だった。校庭の向こうで低く鳴り、続けて窓に雨粒が落ちる。

 ざあっと、空が裂けるように夕立が始まった。


 教室の中に、濡れた土とアスファルトの匂いが入りこむ。扇風機の風と混ざって、夏の匂いが一気に濃くなった。

 春野は小さく笑って、窓を閉めに走る。頬に汗と雨粒がまじって光った。


 僕は、ただその姿を見ていた。

 夕立の音が強くなるほど、心の奥で言葉が膨らんでいく。

 ――今、言わなきゃ。

 そんな衝動が、胸を叩いていた。


 文化祭の一日目は、思っていたよりも早く過ぎた。

 演劇は何とか形になり、観客席からは笑いと拍手が起こった。幕が下りたあと、僕たちは息を切らせて舞台袖で顔を見合わせ、安堵と照れを混ぜた笑い声をあげた。


 拍手の余韻に包まれたまま、午後は模擬店を回った。わたあめを分け合い、金魚すくいで惨敗し、フォークダンスでは互いにわざと列を外れた。

 そのすべてが、色あせない一枚の写真のように胸に焼きついていった。


 そして、文化祭の終わり。校庭での花火が合図のように夜空に咲き、歓声が広がった。

 クラスメイトたちは片づけを口実に集まり、写真を撮ったり次のカラオケの約束をしたりと浮かれていた。


 けれど、僕と春野はいつのまにか人混みから外れていた。校舎裏、誰も来ない階段の踊り場。遠くに花火の光が見えて、遅れてドンと胸を打つ音が届く。


「……終わっちゃったね」

 春野が呟いた。

 制服の袖に夜風が入りこみ、彼女の髪を揺らす。蛍光灯が切れかけていて、かすかな明滅が影をつくっていた。


「まだ二日目もあるよ」

「でも、今日が一番楽しかった気がする」


 彼女の声はかすかに震えていた。花火の音にかき消されそうなほど、小さく。

 僕は胸の奥で、さっきの夕立の記憶を思い出していた。濡れた土の匂い、閉じた窓ガラスの曇り。あのとき言えなかった言葉が、また喉の奥につかえている。


「……春野」

 名前を呼んだだけで、視線が絡む。

 近い。けれど、あと一歩が踏み出せない。


 彼女は目を伏せ、少し笑った。

「ずっと思ってた。今日で終わりにしなきゃって」

「終わり?」

「うん。だって、ずっと友達のままだと……苦しいから」


 胸の奥で雷が落ちるような感覚。

 鼓動が早くなり、足が震える。

 花火の閃光が彼女の頬を照らし、その一瞬だけ涙が光ったように見えた。


 声を出そうとした。だけど、花火の轟音に消される。言葉は喉の奥で砕け、吐息になって宙に消えた。


 沈黙のあいだ、春野はゆっくりと踵を返す。

「……ごめん。やっぱり忘れて」


 その背中に伸ばした手は、空を切った。夜風が吹き抜け、残り香のように甘いシャンプーの匂いだけが漂った。


 遠くの歓声がにぎやかであればあるほど、胸の空洞は大きくなっていった。

 花火が終わり、夜空が暗く戻るころ、僕はただ立ち尽くしていた。


 十年という時間は、思っていた以上に速く過ぎた。

 大学、就職、引っ越し。気づけば社会人三年目になり、僕は毎朝満員電車に揺られていた。

 窓ガラスに映る顔は、かつて文化祭で浮かれていた自分とは別人のようだ。ネクタイの結び目を直しながら、ふとあの頃の自分を笑ってしまう。


 仕事帰りの夜、コンビニの袋を片手にアパートへ向かう途中だった。

 ふいに名前を呼ばれた気がして、振り返る。

 街灯に照らされた横断歩道の向こう。傘を差した女性がこちらを見ていた。


「……春野?」


 雨音にまぎれても、その声は確かに届いた。

 変わっていた。髪は肩までで、落ち着いた服装。けれど、笑ったときの口元は十年前と同じだった。


「久しぶり。元気にしてた?」

 彼女は少し恥ずかしそうに笑う。

 僕は頷くことしかできなかった。心臓が強く脈打ち、足元の水たまりに波紋をつくっている気がした。


 近くの喫茶店に入り、互いの近況を話す。

 彼女は地元の病院で働いているという。僕は転勤でこの街に来たこと。

 コーヒーの湯気の向こうで、春野は穏やかに頷いていた。


「覚えてる? あの文化祭」

 不意に彼女が口にした。

 僕の胸が一気に熱くなる。

「……もちろん。忘れるわけない」


 窓の外では雨脚が強くなり、ガラスを打つ音がリズムを刻んでいた。

 十年前、夕立に包まれたあの教室を思い出す。絵の具の匂い、曇った窓、閉じ込められた沈黙。

 言えなかった一言が、再び舌の上に蘇る。


「私ね、あの日……ちゃんと伝えたかったんだ」

 春野がコーヒーカップを見つめたまま呟いた。

「でも言えなかった。怖くて。友達が壊れちゃうのが」


 言葉が胸に刺さる。十年間抱えてきた後悔が、彼女も同じだったことに気づく。

 その事実が、涙にも笑みにも似た感情を呼び起こした。


「……俺も」

 口を開いた。喉が焼けるように熱い。

「俺も、言えなかった。今もまだ……」


 その瞬間、店のドアベルが鳴り、外から強い風が吹き込んだ。

 湿った夏の匂いが押し寄せ、十年前の夕立と現在が重なった。


 春野は顔を上げ、まっすぐに僕を見た。

 視線がぶつかる。十年分の時間を飛び越えて、胸に突き刺さる。


 だけど次の瞬間、彼女は小さく笑って言った。

「……ごめん。今日はもう帰らなきゃ」


 立ち上がる彼女を、僕は引き止められなかった。

 背中に声をかける勇気は、まだ出なかった。


 店を出ると、雨はやんでいた。アスファルトが光り、夏の夜の匂いが漂っている。

 空気がひどく透明で、胸の中の言葉だけが濁っていた。


 それから数日、胸のざわめきは消えなかった。

 仕事をしていても、ふとした瞬間に春野の笑顔が浮かぶ。十年前の校舎裏と、先日の喫茶店が頭の中で交互に再生され、言えなかった言葉が何度も舌の奥で震えた。


 金曜の夜。残業帰りに駅を出ると、また雨の匂いがした。

 傘を広げようとした瞬間、視界の端に春野の姿があった。コンビニの袋を抱えて、立ち止まっている。


「……春野!」

 気づけば声が出ていた。

 彼女が振り返り、驚いたように目を見開く。


「また会ったね」

 傘を差し出すと、彼女は小さく笑って首を振った。

「大丈夫。すぐ止むよ」


 そう言いながらも、雨は強くなっていく。二人はアーケードの下に駆け込み、肩を寄せ合う形になった。

 アスファルトに弾ける水音、濡れた風。十年前と同じ夕立の匂い。


 心臓が痛いほど鳴っていた。

 もう逃げられない。


「春野」

 名前を呼ぶと、彼女は黙って僕を見つめる。

 濡れた髪が頬にはりつき、街灯に光っていた。


「十年前、言えなかったことがある」

 喉が乾き、息が浅くなる。

「俺、ずっと……おまえが好きだった」


 言葉は震えていたけれど、もう消えなかった。

 雨音がすべてを隠してくれる気がした。


 春野はしばらく黙っていた。目を伏せ、唇を噛む。

 やがて小さく息を吐き、顔を上げた。


「……知ってた」

「え?」

「だって、同じ気持ちだったから」


 その瞬間、時間がほどけたように感じた。十年間の沈黙が、一気に光に変わる。

 胸の奥に積もっていた重さが、雨に洗われていく。


 春野は微笑んで続けた。

「遅いよ。でも……言ってくれて、ありがとう」


 気づけば涙がこぼれていた。彼女の目にも、同じ光がにじんでいた。

 雨は少しずつ弱まり、夜空に雲の切れ間がのぞく。


 二人は並んで歩き出した。濡れたアスファルトが街灯を映し、足跡が続いていく。

 十年前に途切れた物語が、ようやくまた始まろうとしていた。


【完】

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