第五十三話
笹森武は、人生で初めてと言える敗北感を噛み締めていた。
何処とも知れないビルの地下に拘束され、S級探索者とかいう若造に尋問という名の拷問を受けた。意に沿わぬ言葉を発するだけで地獄のような責め苦が待っていた。肉体的苦痛を味わうのは、笹森の人生において非常に珍しい出来事だった。
親にだって殴られた記憶がない。
せいぜい高校の頃に階段で足を滑らせ、骨折したくらいのもの。あるいは先日の会議で迷宮課の課長に暴力を振るわれたときは、あまりにも唐突で痛みよりも驚きの方が強かった。確かに苦痛を味わったが、笹森のプライドを多少傷つけただけだ。
それが――ちょっと文句を言っただけで容赦なく蹴られた。
息が止まり、口から勝手に呻きが洩れるほどの威力で。
あの相馬とかいう若造が加虐を楽しんでいたのなら、そういう変態なのだと納得もできたかも知れない。理解不能の異常者に捕まったのだと、ある種の現実逃避をして自分は悪くないと言い張れたかも知れない。
しかし、あの男は――ひどくつまらなそうだった。
笹森の腹を蹴り、脛を蹴り、頬を平手で叩いているときも、淡々とした調子を崩さなかった。その態度を笹森は知っている。誰もが嫌がる作業を「仕事だから」と引き受けた者の顔だ。政治家として、笹森はそういった者を強く労うように気をつけていた。辞められると困るからだ。
その理屈を適用するなら探索者に対してもそうすればよかったはずなのだが……あれは別だ。国家によって天井を下げられた売却額の魔核と迷宮産出物を、喜々として売り払う間抜け共が、次から次から湧いてくる。
うちの子が探索者になりたがっていて――なんて後援者からの相談を受けたのも、一度や二度ではない。十や二十でも足りない。
どうしてあんな『働き蟻』になりたがるのか、笹森武には意味不明だった。
かつて世界が異世界と融合した前世紀末、そして『
当時は若かった笹森の友人たちも――何人も何人も、死んでいった。とんでもない莫迦だと思った。なにが悲しくて他人のために命を張らねばならないのか。
命なんてものは、他人に張らせるものだ。
過酷、危険、不快……そんな仕事は腐るほどある。
人がやりたがらない仕事には笹森とて最低限の敬意は払う。誰もやらねば困るからだ。下水処理、特殊工事、一部の工場勤務、農業や畜産業もそうだ。それらは笹森の後援者であることが多かったし、笹森自身は決してやりたくない、そしてやりたがる者が少ない仕事――もちろんそれは笹森の認識において、だが――これらに対して労うのは費用対効果が高い。それは経験則だ。
気持ちなど込めずとも、ただ労うだけで彼らは嬉しそうにした。
人は感謝されることに弱い。
これも経験則だ。特に強者からの感謝に、弱者はひどく喜ぶ。きっと普段から誰にも感謝されていないのか、あるいは立場ある者から無視されているのか。政治家としては美味しい相手だ。ちょっと褒めれば支持が得られるのだから。
だから――というべきかは判らないが、笹森武は自分の考えが間違っているとは、今に至っても全く思っていなかった。
壁を走るパイプを挟んで後ろ手に拘束されていても、その状態で拷問を受けても、痛めつけられたまま放置されても、別になにも考えは変わらない。
あれから時は流れ、探索者という職業の死亡率はかなり減ったという。だが、笹森の中の意識は、まるで変わらない。
探索者などという莫迦共は、社会の『働き蟻』だ。
ただ――自分は失敗したのだな、とは思った。
◇◇◇
地下室に集まっていた連中がそれぞれ去って行き、浜松菜々美とかいうアイドル探索者グループのマネージャーだけが地下室に残された。
といっても、部屋の家具にいちいち挨拶をする者がいないように、誰もが笹森のことを『ないもの』として地下室を去った。残った浜松にしても、全員が去ったのを確認してから軽く溜息を吐き、やはり笹森のことなど『ないもの』として、壁際のパイプ椅子に腰を下ろし、携帯端末を眺め始めた。
暇潰し、なのだろう。
笹森としては、小さな板の画面を睨んで時間を潰す神経はよく判らないが、魔導通信によってネットワークと繋がれる以上は、時間を浪費するには最適の機器だろう。
「……浜松とかいったか。こんなことをして、どうなるか判っているのか……?」
なにかを期待したわけではないが、相馬とかいう暴力男が去った安心感からか、笹森はついそんなことを口走っていた。
が、浜松は携帯端末から一瞬ですら視線を動かさず、笹森の言葉をただなかったことにした。無視をする、という労力すら支払うに値しない、そんな態度。
ククク――と、思わず莫迦らしくなって腹の底から小さな笑いが溢れてしまう。
つい先日までは他人の価値を計り、決める側にいたのに。今ではせいぜい二十代半ばの女に『無価値』と断じられ、無視されている。
「なに笑ってるのよ? どうなるか判ってないのはおまえの方だろ」
冷えた声音で浜松が言った。
ひたすらに無感動だった相馬とは違い、そこには軽蔑があり、怒りがあり、笹森を苛立たせるための嘲りがあった。
「どうもこうもあるか。こうなった以上、最悪死刑だ。そうでないなら、あの内閣情報調査室の男を釣り上げるための餌にするつもりだろう。いや、今が正に釣りの時間か? まったく、これだから探索者は嫌いなんだ」
「あんたが『働き蟻』と見下してる人たちのおかげで、世界中のエネルギー問題がほとんど解決したし、魔法技術の発展がもたらされて、世の中は便利になってる。あんたは他人から金を巻き上げる以外になにをしたのよ?」
「おまえらは米を作らないし、家畜を育てない。知っているか? 引退した探索者が農家に就職したそうだが、そいつは『こんな仕事なんて』と言い続けて、半年経たずに辞めたそうだ。有り余る体力があって、六十代の男女が身体中を痛めながらこなしている作業など簡単にできるのに、『つまらない』から辞めたそうだ」
「そんなもん、木を見て森を見ずの典型じゃない。引退した探索者が社会貢献してる例なんていくらでもあるわよ。あんたは、ただあんたが理解できないものを見下してるだけ。知ってる? そういうのを老害って言うのよ」
わざとらしい見下しに、笹森は喉の奥を震わせて笑うしかなかった。
やはりこの女には私怨がある。
他の――異世界からやってきたエルフ、アイドル探索者、派遣されてきたS級探索者や陰気な女、迷宮課の課長、その部下の女……誰もが笹森武を視界に入れなかったのに。浜松菜々美、この女だけは、視界から外すように努めていた。
「おまえだけ、ドブの臭いがするなぁ」
くつくつと笑いながら言ってやる。
笹森武には政治家としての思想信条などない。実のところ必要以上に金が欲しいとすら思っていない。安定した強者の席、それだけが笹森の望むもので、そのためなら支援者の戯言にも話を合わせて、任せておけと請け負うこともしてきた。どうせ実際に手を動かすのは笹森ではないのだから。
そして同時に、その安全を脅かそうとする者を蹴落とすことに、笹森は良心の呵責など一切覚えなかった。弱っている者の『突いて欲しくない弱点』を察する能力は、それなりにあったのだ。戦うことはできないが、蹴落とすことは得意だ。
今はもう、そんな席など消え失せたとさすがに理解している。
あの薄暗い男の甘言に乗ってしまったのが分水嶺だった。あれさえなければ、立場と信頼は失ったかも知れないが、金を握って何処か遠くへ隠居するくらいはできただろう。といっても、遠い何処かでなにをすればいいのかなど知らないが。
手遅れだ。である以上、蹴落とすことはもうできない。
笹森にできるのは――足を引っ張ること。
「……なんですって?」
案の定、浜松菜々美は安い挑発に乗り、持っていた携帯端末をスーツの内ポケットに戻して笹森に向き直った。
かつんっ、と地下室のコンクリにパンプスの音を響かせ、一歩ずつ近づいて来る。元B級の探索者ともなれば、一般人を
「ドブの臭いがすると言った。俺はよく知っている。なにかのせいにして、自分ではなにもしない負け犬の臭いだ。そんな連中が遠くで喚いているのを、何年も見てきた。呪う元気はあるくせに、立ち上がって自ら動く気はないやつら。これが正論だと叫ぶくせに、議論からは逃げ続けるやつら」
「……ヘドロみたいな場所で生息してるくせに、ドブの臭いが判る? 冗談はやめてよ。それこそドブ臭い口を開かないでくれない?」
かつん、かつん、と音がして。
もう、手を伸ばせば届く位置まで。
笹森は眼前のバケモノが年相応の小娘であることを認識して、また笑った。
「あの会議室では判らなかったが、今は判る。あの帽子の男からは、そんな臭いはしなかった。あれは仕事でやってるからだ。探索者チームのリーダーの小娘からは、そんな臭いはしなかった。中学の頃に国から集められて、探索者として教育されたとかいう話だったな。可哀想に。好きな男と手を繋いで歩くことも、仲の良い友人とくだらない話をして時間を潰すこともできずに『働き蟻』だ」
「そのドブ臭い口で、人類の希望を語るな」
視線が細くなる。呼吸困難になりそうなほど酸素が薄くなる。目一杯に張った鋼鉄のワイヤーが、きりきりと音を鳴らすような緊張感。
怒らせたのだ。
怒らせたという事実に、笹森はまた笑った。
「浜松菜々美。元B級探索者だったか? おまえは自分だけ楽しい青春を送り、自分の意思で探索者とかいう『働き蟻』をやって、自業自得で失敗して引退した――どうせそんなものだろう? B級になったのは、もっと若かった頃のはずだ。なのに国家プロジェクトの、アイドル探索者のマネージャーなんてやっている。なにか成すべきことがあるはずじゃないのか? 力があるはずだろう? なのに、どうして――」
――自分でやらない?
我ながら最高の笑い方ができた、と思った。なにも知らない相手に、想像でいい加減なことを言っただけなのに……こんなにも怒る。
バギンッ、と破壊音がした。
すぐにはなにが起こったのか判らなかった。何故なら、笹森が見ていた浜松菜々美はその場から一歩も動いていないように見えたから。
たっぷり一秒以上は経過してから、左肩が潰れているのに気づいた。
「――グァ、あっ、が……!」
巨大な万力で肩の骨が潰されたような気分。パイプを通して後ろ手に手錠で拘束されているおかげで、痛みが少ない姿勢も取れない。どうにか首を動かして視線だけで自分の左肩を確認してみれば、本当に潰れているではないか。
出血はない。だが、致命的に手遅れな壊れ方をしている。
「ひっ、――ひひひひ! あっ、ひひひひ!」
笑った。嗤ってやった。
どんなご立派な建前を掲げようが、この女の正体は、結局のところ無力な大衆と同じだ。『善きモノ』と思い込んでいるなにかはあるのに、自分では及ばないと決めつけて、誰かにやらせる。あまつさえ押しつけた誰かの手伝いをしているだけで、自分もなにかを成していると思い込む卑怯者。
「黙れよ。おまえになにが判る。安全圏で他人を見下してただけのクズが、知ったような口を利くな。おまえの保身のせいで何人死ぬところだったのか、判って――いや、判らないからそんなふうに言えるのか。そんな口は、要らないわよね?」
ニタリと口端を吊り上げる浜松に、やはり笹森は「ひひひ」と嗤ってやる。どの道、自分の人生にこの先などない、であれば、このドブ臭い女に殺される方がマシだ。なにか、キレイで正しいモノに断罪されるより、ずっといい。
右足の指が潰された。次は左脚の膝。立っていられないが手錠のせいで座り込めない。壊れた左肩が激痛を訴えて悲鳴を上げるが、それでも笹森は嗤った。
自暴自棄というなら、その通りだ。
もうどうにもならないのだから、最後の最後くらい、安全のためではなく自分の気分のために、他人を貶めてやりたい。相手が転落の原因を作ったこの小娘なら文句なしだ。落ちろ。墜ちろ。堕ちろ。ここまで。
「――どうなっているかと思えば、ひどい有様ですねぇ?」
よく通る、バリトンの声がした。
負の感情と殺気が充満した地下空間に、あまりにも場違いな傍観者の声。扉を開ける音には気づかなかったのに、その声に気づかないでいることはできなかった。
「お、お、おま……えは……」
「ちょっと見ない間に、随分と楽しい状態になっているようですね、笹森議員」
内閣情報調査室を名乗った男。
笹森武に迷宮を消失させる石を渡してきた、薄暗い男。
「……どうやってこの場所を知った?」
笹森を痛めつけていたときよりもよっぽど冷えた声音と態度で、浜松が地下室の入口へ身体を向けた。わずかに腰を落とし、曖昧に開いた両手を小さく揺らしているのは、探索者としての戦闘態勢なのかも知れない。
が、ダークグレーのスーツの男は、場に走る緊張感など知らぬとばかりに薄笑いを浮かべ、被っていたボーラーハットをのんびりと脱いで――かと思えば、手品みたいに帽子が消えている。
左手で突いている杖が、こつん、と控えめな音を鳴らした。
相変わらず……なんだか印象に残らない顔だ。整っているのだが、ではどのような整い方をしているかというと、なんとも説明しにくい。
「どうやって? そんなもの、ずっと見ていたからに決まっているでしょう。カミオカダンジョンの入口で笹森議員を捕らえてから、ホテルに戻って、ホテルから連行して、このビルまで……どうして監視されていないと思ったのです?」
くすくすと笑い声が聞こえるのに……笑っているのか、判らない。
その不気味さが警戒心を刺激したのか、浜松がわずかだけ、半歩にすら満たないほどわずかだけ、退いた。
「浜松菜々美さん。迷宮庁所属の職員。A級探索者クラン『アンセム』のマネージャーで、元B級探索者。十年前に所属していたクランが解散。そういえば十年前は未成年探索者の規制がまだなかった頃でしたね。とある事故によってクランリーダーを失ったのが解散の理由」
かんっ、かんっ、かんっ――杖が鳴る。
そんな足取りで歩けるなら必要ないはずの杖を、わざとらしく突きながら、歩いて来る男の姿が……微妙に、ぶれていく。
いや、逆だ。
ぶれさせていたものが、消えていく。
まるでモザイクが晴れるみたいに。
印象に残らない男の顔色が――いや、肌そのものが――ひどく不自然な薄紫色であることに、ようやく気づく。
人間では、ない?
「まだ気づかないのですか? 私が『犯人』ですよ。私のせいで、貴方の大事な大事なクランリーダーが死んだのです。ああ、いえ、探索者は自己責任でしたか。これは失礼。貴方の大事なクランリーダーが死んだのは、彼が弱かったからでしたね」
次の瞬間。
カタパルトで発射された投射物みたいに浜松菜々美が薄紫の男に突っ込んで、一瞬が過ぎるより前に跳ね返されて地下室の向こう側の壁に激突した。
コンクリ壁をぶち破る勢いで激突したというのに、浜松菜々美は即座にめり込んだ壁の中から飛び出してきて、傍で見ている笹森が吐きそうなほど強烈な殺気をぶちまけながら、薄紫の男を睨みつけた。
ジジジ――と、浜松の周辺の空気が歪んでいるような……。
なにも持っていなかったはずの、浜松の両手に光る短刀が――いや、短刀のように見える光の塊が、握られていた。
「おまえは殺す。絶対に殺す」
言葉を覚えた猛獣のようなその宣告に、薄紫の男が明確な笑みを返した。
「おやおや、そのつもりがあるのなら、ドブ臭い言葉を吐き出すより先にやるべきことがあるでしょう? そんなだから仲間を見殺しにするんですよ、菜々美ちゃん」
弱点を突いたな、と笹森には判った。
それ以外のなにも判らなかったが。
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