第八十三話
推定二メートル半の巨体が、犬や猫より俊敏な動きで襲いかかって来るのは、端的に言って恐怖そのものだった。
「――ふっ!」
それでも白澤香奈は鎖鞭を操り、鞭の先端が最高速に到達するポイントを瀬野恭平だったバケモノの顔面に合わせながら身を躱し、後方宙返りして着地する。
探索者になる前は、とてもではないがこんな芸当はできなかった。
なりたての頃だって無理だっただろう。
今はできる。魔力を身の内に取り込むとは、そういうことなのだ。
そして――そんな人間離れした探索者であっても、目の前のバケモノ相手では、無力に等しいのが実感できる。
何度か、それを繰り返した。
手を抜いて突っ込んで来るバケモノに、鞭を当ててバックステップ。後ろに。後ろに。下がり続けて行き止まりになったら、右か左に逸れて、また後退。
「ケっ、カ、ハハハ――スゲェじゃねぇか、シラサワァ!」
ぐるると喉を鳴らして笑いながら、瀬野が顔の辺りを撫でる。距離を取り続ける香奈を嘲るように、ゆっくりと歩を詰める。
鞭という武器は上手に振れば先端が音速を超えるのだが、音速を超えた速度で敵を打つ、というのは中々難しい得物でもある。振っただけでは速度が出せず、振って返したエネルギーが先端に伝わった瞬間に音の壁に触れるからだ。
実際、それなりに鎖鞭を扱えるようになったのはここ最近だ。今みたいに極限まで集中すれば十回振って七回は音速で敵を叩ける。
香奈が使っている鎖鞭は魔力を通しやすい魔鉄と呼ばれている合金製で、敵の魔力障壁を突破するためにもしっかり鎖の先端まで魔力を通している。武器に魔力を乗せるのは探索者の基本だ。
「……瀬野くんも、凄いことになってるけどね」
全くダメージを受けていないバケモノを相手に、それでも香奈は虚勢を張って、空々しく笑ってみせる。
「カハハ! だろうナァ! 鏡でもアリャあドン引きする有様ダロウさ。こんなふうにナッチマウなんて思ッテもなかったが――こうナッチマエバ、気分いいゼ?」
「なんでそんなことになったの?」
時間稼ぎの意味合いもあるが、本当に不思議だからこそ、疑問を口にした。そもそも、どうして瀬野恭平はこんな有様になっているのか。
大人が手加減しながら追いかけっこをするような手抜き感で、瀬野は両手を上げてグツグツと笑いながら近づいて来る。岩肌の大男が、春先の変態みたいに迫って来るのは端的に言っておぞましかったが、貞操の危機はあまり感じなかった。
犯して殺してやる――瀬野はそう言った。
けれど、ほとんど確信のように思う。この男は私を犯したいわけではないのだ。同じサークルで何度も迷宮探索をしていたけれど、瀬野から性的な欲望を向けられたことがない。今となっては理解できるし確信できる。
この男が白澤香奈を通して見ていたのは、早坂透だ。
「サァナ! だが、コウナッチマッタら、好きにヤラセテもらうゼ!」
ぶぅん、と腕が振られる。
香奈が視認できる、そして避けられる程度の攻撃だ。本当に手を抜いている――なのに重機のアームが動いているような力感。
「そんなに早坂くんのことが気になるの?」
大袈裟にバックステップして距離を取りながら鎖鞭を振る。パァン、と音速で瀬野の顔面を打ち据えたのに、まるで効いていない。
目の前で羽虫が飛んでいてうっとうしい、くらいのリアクションで瀬野は顔をさすり、またゆっくりと歩いて来る。
「ハヤサカなぁ……あのクソ勘違い野郎をナ、ワカラセてやりてぇんダヨナァ」
グルル、と喉が鳴る。
言葉が上っ面を滑って、ほとんど意味を成していないのが香奈には判った。本音を話していないからだ。
「鼻を折られてから、ずーっと気にしてたんでしょ。早坂くんのこと」
言った瞬間、目視できない速度で瀬野の巨体が動いた。
気づいた瞬間には吹っ飛ばされていて、意識がコンマ二秒くらい明転と暗転を繰り返した。ガンッ、と背中を壁にぶつけたのは、どんどん後ろに下がっている間にまた丁字路へ行き当たっていたからだ。
「……っ!」
怪我は――左肩が動かない。雑に殴られて、左鎖骨が折られている。慌てて前を見れば、岩肌の魔獣が両手を広げてグルグルと喉を鳴らしていた。
「タノシイナァ、シラサワ。オマエこそ、アイツのことずーっと気にシテンジャネェカ。『
「私が未練がましいのは自覚してるよ。だって好きだもの。好きな人のこと、忘れられなくたって仕方がないでしょ。じゃあなに、瀬野くんは早坂くんが好きなの?」
笑って言った次の瞬間、香奈の腹を打ち抜くような速度と威力の拳が――迷宮の壁を叩いた。絶対に激昂すると思っていたので、見えもしないのにあらかじめ避けていたのが、たまたま上手くいっただけ。
床面をごろごろ転がって、左肩の痛みに顔をしかめながら、鎖鞭のグリップを握ったままの右手で床を叩き、反動で身体を起こす。
「フザケんじゃねぇぞ、シラサワァ!」
「ふざけてない。判るよ。強いものね、早坂くんは。瀬野くんは弱い。弱いよ。周りと比べないと自分のことが判らない。周りより凄いって確認しないと、自信が持てない。早坂くんは、そんなことをしなくてもいいのに」
「ウルッセエェエエエ!」
突っ込んで来る――から、鞭を合わせる。
バシャン。そんな音と共に鎖が砕け散った。ビーズのアクセサリーを力任せに引っ張ったような壊れ方。相対速度の問題で威力が増すだろうと思ったのに、そういうレベルの力量差ではなかったという、それだけの話。
ほとんど同時に、交通事故にでも遭ったかのような衝撃。
今度こそまともに瀬野の突進を喰らって、前後不覚になって吹っ飛ばされる。途切れそうになる意識を無理矢理に掴んで引き寄せなければ、たぶん気絶して手遅れになってしまう。瀬野は私を犯したいわけではないだろうけれど、そうすれば早坂透を怒らせると考えたなら、犯すことだってするかも知れない。
滞空時間は、たぶん二秒以上。
丁字路のどちらか側に吹っ飛ばされて、背中から床に落ちる。カーリングの石みたいに床を滑って、止まった頃には肋骨が何本か折れているのを自覚する。どういうふうに攻撃されたのかも判らなかったけれど……たぶん、手加減された。
「弱っチインダヨ! ハヤサカなんて探索者ニモなれなカッタ雑魚じゃねェカ! あんなのが強いナンテ、眼が腐ッテんだよ! ナンモネェから弱く見エネェだけダろうがヨ! 周りの評判ナンカ知ったコッチャネェってか!? 他人より偉い! 他のやつより凄い! おまえより俺の方が価値がある! そういう場所に俺たちはいるんだよ! あいつはそういう場所から一人だけ降りて、他人事みたいな顔して! まともな人間の苦労から逃げた雑魚なんだよ!」
口調が、途中から普通の人間のそれに戻っている。
見れば喉や口の辺りの岩肌がボロボロと崩れてきて、皮膚を剥いだ内側みたいな気持ちの悪い生体が露出している。
くらくらする意識をどうにかたぐり寄せ、香奈は激痛を訴える身体を無理矢理に起こした。立ち上がるのに五秒くらいかかったけれど、瀬野はそんな香奈へ追撃を加えるでもなく、ゆっくりと近づいて来る。
「みんなの中にいないから弱い? そんなだから早坂くんの眼中に入れないんだよ。あの人は学校のルールを無視したりしてなかった。団体行動は苦手みたいだったけど、ちゃんと和を乱さずにいた。天涯孤独になっても、犯罪者になんかならないで、きちんと税金を払って生きていた。みんなの中で、一人で立っていた!」
「底辺のゴミじゃねぇか! それがなんだ! 聖剣だ妖刀だぁ!? あの卑怯者だけが、どうしてイイオモイできる! 俺だ! 俺がそうなるべきだったろ!」
「無理だよ。瀬野くん、弱いもん。どうして弱いか判る?」
武器。武器がない。鎖鞭は千切れて壊れた。
たぶん死ぬ。どう考えても助かりそうにない。早坂くんが私の死体を見つけることになるのは、申し訳ないなぁと思う。でもそうなったら、きっと早坂くんの心の傷になるだろう。ずっと忘れられないだろう。
本当に救い難いけれど――あの人の傷になって忘れられなくなるのなら、そんなに悪い死に方じゃないなぁ、なんて。
「人にマウントとって、自分の方が凄い、偉い、カッコイイ。あいつの方が弱くて無様でカッコワルイ……そういうのって、結局は人の顔色をうかがってる、旗色によって振る舞いを変えなきゃいけない、他人の奴隷なんだよ」
父に殴られ、罵られ、モラハラを受けても謝り続けていた母。
父と別れて香奈を抱えて生きていく自信がなかったからだ。
たぶん、我慢することで香奈を守ろうとしていた。
それが香奈の心をずっと傷つけているなんて、判っていたはずなのに。
この世界で、独りで、立たなきゃいけない。
線を引いて、境界を侵した者をぶん殴らなくちゃいけない。
あなたのことを好きになったのは――
「――早坂くんに、憧れてる」
弱くて、独りで、探索者の才能もない。教室で目立つ方じゃない。大きな声で笑いもしない。誰かを楽しませることで喜ぶわけでもない。人より偉そうにして立場を上げようともしない。皮肉と文句を言うとき以外は口下手で、優しいのにそれを表現するのは下手くそで、ちょっと面倒くさがりで。
でも――独りで、確かに、立っている。
他のナニカに揺るがされたとしても、誰のせいにもしないで。
「だから瀬野くんじゃ、無理。自分で判ってるでしょ。聖剣と妖刀? そんなのあったところで、瀬野くんじゃ調子に乗ってどこかで終わるだけ。早坂透には、なれないよ。だって、弱いから。弱いから、憧れてる」
視界から消えた。
もう言葉を発することをせず、瀬野は瞬間移動みたいな速度で香奈に接近し、消えたと思った次の瞬間には右の肩を壊された。なにをどうやったのかは判らないが、一撃で仕留めなかったのは、まだ理性が働いているからだろう。
捨てることもできないのだ。
本当の意味でブチキレることすらできない男。
痛みに呻く間もなく、瀬野の手が香奈の首へと伸びる。ぐっ、と掴まれて宙吊りに。二メートル半の巨体に持ち上げられてしまうと、思っていたより高く吊り上げられてしまうんだなぁ、なんてどうでもいいことを考えた。
苦しい。でも死ぬほどじゃない。
「図星……でしょ。大学に入って探索者になって、すごい真面目にやってるなぁって思ってたけど、結局、早坂くんより上に立ちたかっただけなんだ。早坂くんの方は瀬野くんのことなんて、きっと思い出すこともないのに」
「……だが、おまえのことは思い出すだろうな」
静かに、言う。
くだらない問答の終わり。口論の終わり。生死の境。ここまで来たら、もうやるしかない。そういうところまで来てしまった。だけどそんなの、香奈からすれば莫迦じゃないかと思う。バケモノになった時点で、とっくに引き返せないはずじゃないか。
まだまともな人間でいるつもりだなんて。
香奈を殺すことでそこから外れるかも知れない、なんて。
「本当に莫迦だね。友達になろうって言えばよかったんだよ。みんなの顔色をうかがうのをやめて、友達と一緒に楽しいことをしてればよかったのに」
岩みたいな魔獣の手が、喉を圧迫する。
二秒もしないで握り潰されるだろう。
ああ――もう一度、逢いたかったなぁ。
恋人に戻りたいなんて言わない。ただ、もう一度だけ、隣に座って、なんでもない話をしたかった。どうでもいいような話に、小さく肩を竦めて欲しかった。香奈が予想もしないような皮肉を言って欲しかった。
最期に想うことがこれなら、悪くない。
そう考えて、目を瞑る。いや、もう目を開けていられない。首を絞められて、脳に酸素が回っていない。首を潰されるまで、あと一秒? それとも、もっと少ない?
――――――ぞぶり、
と。
異様な音がして、落下した。
床に自分の身体がぶつかって、腕や鎖骨や肋骨の痛みで強制的に意識が引き戻される。眠るように死ぬはずだったのが、痛みで叩き起こされて、頭の中で情報を処理しきれず、逆になにも考えられなくなった。
ガンッ、と重い音がしたのは――香奈を吊り上げていた瀬野の腕が、迷宮の床に落ちた音だろう。なんで香奈の方が先に落ちたのかは、よく判らない。
とにかく、前を見る。
大好きな人の背中が見えた。
この世で一番好きな人が――この世のなによりも悍ましい、赤黒の妖刀を手に、瀬野と香奈との間に立って、ぽつりと呟く。
「あー……悪い。ちょい遅れた」
そんな、普通の待ち合わせのときみたいに言わないで。
泣きそうになるから。
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