4.白霞の森③

 アルマスの手が背嚢に伸びる。雑多に詰め込まれた道具を漁り、目当ての物を掴む。


 手に握った宝石のように煌めく緑色の輝石を慣れたように指で弾くと、内包された光の粒子が震えて輝きを増していく。


 そして、輝石が砕け散るのと同時に暴風が吹き荒れた。緑の粒子が入り交じった突風は雪の大地を巻き込みながら下から上へと吹き上げる。


 その勢いは凄まじく、巨木の妖精の太い枝の腕が大量の葉っぱを散らしながら上空に向けて無理矢理持ち上げられている。


「さすがに火を使って森を燃やしでもしたら怒られそうだからね。お次は―――」


 二つ目の輝石をその手に構えたところで、アルマスは輝石を励起させるのを止めた。正確にはその必要性がないことに気付いたのだ。


「あー、そっか。そういえばそうだったね」


 強烈な風により、その枝のほとんどを天に伸ばす格好となった巨木の妖精は、太い幹に浮かび上がった老顔を露出する羽目になっている。


 木肌に刻まれた無数の皺で表現されている感情は怒りでも、苦しみでもない。わかりにくいがきっとあれは恥辱に類するものだ。


 アルマスは笑う。


 巨木の妖精の顔をじっと見つめながら正面から堂々と歩み寄る。近づけば近づくほど風の拘束から抜け出そうとする妖精の抵抗が弱まっていく。


「『巨木の翁』は縄張り意識が高いという。近づいてきた狩人や動物に対して、とにかく枝を振るって追い払う逸話が有名だよね。ではなぜ君という妖精が誰も近づかせたがらないのか」


 あれだけ枝を振り回して荒れ狂っていた巨木の妖精は、その場から動けないにも関わらず器用に幹を捻って顔を背けようとしている。だが残念ながら太い幹のど真ん中にある大きな顔を隠すことなどできはしない。


 アルマスが一歩近づく度に巨木の妖精は消え入りそうな悲痛な叫びを漏らす。


「簡単だ、その醜い顔を見られたくないんだろう?」


 ついにアルマスと巨木の妖精との距離が腕を伸ばせば届くほどとなった。


 真下から見上げるアルマスに対し、彼の妖精は小刻みに震えるばかりだ。まるで断罪を待つ罪人のように恥辱や恐怖がない交ぜになっている。


 近くから巨木の妖精を見たアルマスの感想としてはやはり醜悪の一言に尽きてしまう。


 長々と見ていたいものではなかったが、おそらくこの妖精が暴れることなく大人しくしているのは、真正面からその顔面を見据えている間だけだ。きっと視線を逸らした瞬間にこの巨木の妖精は怒りと共にアルマスにその太い枝の腕を叩き付けるのであろう。


 しかし、いつまでもこんな老顔と見つめ合っているわけにもいかない。アルマスの目的は巨木の妖精の後ろ側にある広場の出口なのだから。


「そんな君にいいものをあげるよ。遠慮せず、どうぞ」


 アルマスは手に握ったものを至近距離から投げつける。放られた物体は狙い違わず巨木の妖精の眉間にぶち当たった。


 アルマスが投げたのはなにも特別なものではない。

 錬金術によって作られた魔法のごとき神秘を内包する輝石ではなく、陽光によって溶けた雪と泥を混ぜ合わせて作ったただの泥団子だ。中に石を入れているわけでもないから人に当たったとしても大した威力はない。ましてや巨大な樹である『巨木の翁』にぶつけても何の効果も見込めないはずだ。


―――普通ならば。


「うん、いい顔になったじゃないか。お似合いだぜ、君」


 咄嗟に耳を塞いだアルマスの目の前で巨木の妖精が金切り声を発する。幹に浮かんだ顔が面白いように驚愕と悲嘆の表情に変わった。


 それと同時にアルマスは妖精の背後に向かって走り出すが、想定通り恐ろしい枝の腕による乱打は襲ってこない。


 巨木の妖精は泥団子をぶつけられた箇所を気にして枝をわさわさと揺らしている。何百、何千という葉が落ちるのもお構いなしだ。枝は良くしなるといっても本当の腕のように自由に動かせるわけではないらしく、幹にこびり付いた泥汚れを必死に拭おうとしているものの拭うことはできていなかった。


「醜いからって更に醜くなっても気にしないってわけじゃないんだよな」


 老いぼれたような皺くちゃで見るに堪えない自らの顔を殊更卑下している巨木の妖精は顔面を汚されることを死ぬほど嫌がるという。だからこそ、その顔面が汚れでもしようものなら一時的にだが人を襲うどころではなくなる。


 顔を覆い隠すように枝を揺らす『巨木の翁』を尻目にアルマスは広場の出口へと向かう。腹に響く気味の悪い嘆きの声を漏らす『巨木の翁』だが、いつ悲しみを怒りに変えて動き出すかはわからない。とはいえ、半刻ほどはうずくまって動かなくても不思議ではないはずだった。


「あれ?」


 異変に気付いたのはアルマスが無事に広場の出口に辿り着いたときだった。


 大人しくなった『巨木の翁』を後にして、悠々と先に進もうと考えていたアルマスの背後に枝が叩き付けられたのだ。もう既に枝が届く範囲は脱しているため、風圧がアルマスの髪を揺らすばかりではあるがその行為には怒りが充ち満ちている。


「おっかしいな。しばらく動かないはずなんだけど。もしかして君、特異種だったりする?」


 質問に返ってくるのは不気味なうめき声だけ。


 アルマスの考えではしばらく暴れることはないと踏んでいたが、結果はほんの少しの時間で立ち直ってしまっている。


 それでも普通の『巨木の翁』であればこれ以上アルマスに危害を加えることは適わないはずだった。


「なんとなくわかってたけど、こうなると威圧感がもの凄いね。あんなのと追いかけっことか勘弁して欲しいよ、ほんと」


 つい口から愚痴が漏れる。


 アルマスが引きつる顔をする先では、『巨木の翁』が枝を地面に付けて支えにして根を蠢かせている。その光景は樹がひとりでに地面から這い出ようとしているとしか見えなかった。


 半ば予想していたことではある。


 あのままの定位置から『巨木の翁』が動けないのであれば、枝の可動範囲外に位置する広場の隅々にある木々がへし折れているのはおかしいのだ。


 そうであれば当然、枝を伸ばすなり、樹自体が動くなりしないと理屈に合わない。


 その答えがアルマスの目の前で実証されつつある。


 あの巨体で動くとなればどの程度の速さかはわからずとも楽に振り払うことはできそうにもなかった。


「こんなところで使いたくはないんだけどな」


 アルマスが背嚢に仕舞った輝石に手を伸ばそうとしたとき、ついには地面から完全に抜け出してアルマスに向けて突貫しようとしていた『巨木の翁』の動きが止まった。


 ほー、と気の抜ける鳴き声がアルマスの頭上から落ちてくる。


 見上げれば、アルマスからほど近い針葉樹の枝の上、そこには一羽の梟がいる。薄暗い木々の下で、巨大な瞳が怪しく光っていた。


 大きな羽根を広げた梟は滑らかに空を飛び、『巨木の翁』の数ある枝の一本に降り立つ。そして身じろぐ『巨木の翁』に向けてもう一度鳴き声を響かせた。


 するとあれだけ暴れ狂い、いきり立っていたはずの巨木の妖精は振り上げかけていた太い枝の腕を力なく下ろす。怒りに染まっていた顔に怯えを滲ませ、そのまますごすごと地面の中に戻っていってしまった。


 瞬く間に巨木の妖精を押しとどめた梟は、用が済んだとばかりにアルマスの側へと降りてくる。大きくて赤い瞳が無機質にアルマスを見据えていた。


「これはこれは。魔女殿、いや、その使い魔かな。何にしろ助かりましたよ」


 アルマスがなんてことのないように話しかけるが当然梟が返事をするわけもない。ふいっとアルマスから視線を切ると森の奥の方へと向きを変えた。


 おそらくこの梟は魔女がアルマスに差し向けた道案内なのだろう。


「じゃ、お願いします」


 荷物を背負い直したアルマスが再度梟に話しかける。


 やはりその言葉に答えは返ってこなかったが、梟はアルマスをちらりと見ると鬱蒼とした木々の暗がりへと飛び上がった。

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