5.霞の森の女主人①

 晴れる様子の見えない濃霧。足が深く沈み込む雪の地面。一層暗く、不気味さを増していく森。


 そこら中から聞こえてくる鳥とも何ともわからない奇怪な鳴き声の中、火の玉のごとく怪しげに浮かび上がる大きな赤い目の梟に導かれてアルマスは『白霞の森』の奥深くに入り込む。


 吐き出した息が白く染まる。


 森の入り口付近と比べて、気温が下がっていると感じるのはおそらく気のせいではない。まだ日が暮れる時間でもないのに周囲は薄暗く、霧と相まって闇の中を歩いている気分になってくる。時折垣間見える、か細い陽光だけが今が昼間であることを教えてくれていた。


 先導する魔女の使い魔のおかげだろう。これだけ森の奥深くに踏み込めば、ぞろぞろと妖精が出て来てもおかしくないのにアルマス達の方へ近寄ってくる妖精の気配はまったくなかった。


 やがて木々の陰から見えてきたのは石造りの館だった。背の高い針葉樹にひっそりと埋もれるように存在するそれは館と表現するには少しばかりこじんまりしているが、これこそ聞き及んでいた魔女の館に他ならない。


 ここまで来れば恐ろしい妖精達も襲ってくることはあるまい。なにせ、ここには妖精さえも畏れてやまない魔女が棲んでいるのだから。


「これはまた趣のある家ですね」


 魔女の館は端的に言うと古びて寂れていた。枯れた蔦が石壁に張り付き、所々石がひび割れている。廃墟と言われても頷いてしまうくらいにはぼろぼろだった。しかし、何者かが住んでいる証として、その窓には揺らめく橙色の明かりが灯っている。


「なんというか歴史の重みを感じますよ―――おわっと」


 アルマスが魔女の使い魔相手に大胆な感想を口にしながら館へと通じる小路に差し掛かったとき、ガランガランとけたたましい音が鳴り響く。


 小路の脇に突き立っている街灯にも木にも見える棒状の何かが鐘も付いてないのに金属製特有の冷たい音を発している。


「『招かざる者を告げる鐘』・・・」


 アルマスは肩越しに視線だけで森を振り返った。途端にアルマスの背後に広がる森がざわっと空気が膨らむように濃密な気配を放ち、様々な動物のいななきや息づかいが強まった気がした。


「招かざる者、か」


 小さく言葉を溢すアルマスが森に意識を向けているうちに、いつの間にか梟は館の扉の前で止まっていた。

 ぎょろりとした梟の赤い瞳が瞬いている。


「これは早めに用をすませてお暇した方がいいかもしれない」


 独り言のつもりで呟いた言葉であったが思わぬ返答が戻ってくる。

 梟がこくりと頷き、その細い嘴を開いて鳴き声を上げたのだ。そして、梟の声に応えたように館の扉がひとりでに開いていく。


 まるで『それがいいでしょう。ですが、まずはお入りなさい』と言われているかのようだ。


 扉の向こうは底のない穴を覗き込んだかのような真っ黒な闇が広がっている。

 一息吐いてからアルマスは躊躇することなくその闇の中に入り込んだ。






 太陽の光とも燃えさかる炎とも違うぼやけた明かりに出迎えられる。


 館に踏み入ったと同時にアルマスの頭上付近で拳くらいの大きさの光が瞬いた。明かりとしては幾分心もとなく、建物内部がぼんやりと照らし出される程度。蠟燭もないのにゆらゆらと漂っている光の玉につられて自身の影が不規則に揺れ動く様を見ているとなんだか並行感覚がおかしくなってくる。


 少なくとも見える範囲では館の入り口には誰もおらず、梟はアルマスを見やることもなくスッと奥の方へと飛んでいった。

 出迎えは特にないらしい。


 外套を掛ける場所も見当たらないので、アルマスは雪と泥で汚れた格好のまま館に上がり込む。


 魔女の館に入った感想としては独特な内装や雰囲気よりもまず『広い』と感じた。

 客を出迎えるこの入り口の空間だけでちょっとした小屋程度にしか見えなかった外観を遙かに上回っている。何かしらの魔女の術が働いていることは明白だ。しかもその大きさが尋常ではない。通路も階段もあちらこちらにあり、まったく全容を把握できない。


 魔女の趣味なのか館の内部には多様な植物が広がっていた。彩りのために花瓶に生けられているのではない。壁や棚、机すらも覆いつくさんばかりに無造作に草花が茂っている。広大な敷地のわりに人の気配がしないことも相まって人々に忘れ去られた古代遺跡にでも迷い込んだみたいだ。


 天井からぶら下がる蔦を手で払いつつ、アルマスは呆れた言葉を口にした。


「とても人が住む場所とは思えないね」


 梟が飛んでいったであろう方向に進んでいくとやがて3つの通路が現れた。頭上に浮かぶ光の玉を仰ぎ見るとふらふらと不安定に宙を漂いながら真ん中の通路に進んでいく。どうやら道案内はきちんとしてくれるらしい。


 導かれるままに幾つかの分かれ道や階段を上り下りした末に豪奢な扉の前に辿り着く。

 おそらく魔女のいる部屋だ。根拠はないが予感があった。


 複雑で凝った文様が刻まれた重厚な扉をアルマスが手で押し開けようとする前に、またもや扉がひとりでに開いていく。


 最初に耳に届いたのはパチパチと薪が爆ぜる音。次いで本のページが捲られる紙の擦れる音が鳴る。


 アルマスの視界には後ろ向きに置かれた一つの大きな椅子が映る。椅子の背に遮られてその姿は見えないが直感的にわかる。この『白霞の森』を治める魔女がそこにいる。薄暗い室内の中、暖炉の前で椅子に座りながら本を読んでいるらしい魔女は背後にいるアルマスの方を見向きもしない。


 さすがの魔女も暖を取るために火を焚くくらいのことはするのかと場違いな感想を抱きつつ、アルマスは魔女に話しかけた。


「ご機嫌麗しゅう。『霞の森の女主人』殿」


 飄々と挨拶を述べるアルマスに対して魔女からの返事はない。


「いやあ、ここまで来るの大変でしたよ。足場は悪くて何度も転びましたし、雪のせいで寒いはずなのに歩き疲れて汗だくになりますし。それに知ってます?森から入ってすぐの所なんですけど大きな泉があるでしょう?その近くにも小さな沼があったんですがそこがまた雪に埋もれてて―――」


「まずは証を」


 アルマスの流暢な話を魔女は端的に遮った。生きた人間が発しているとは思えないガラスが震えるような繊細にして深みのある声色だ。


「おっと。そうでした。こちらを―――」


 アルマスが懐から一通の手紙を取り出すと横から使い魔の梟が手紙をかっ攫い魔女の元に運んでいく。梟は椅子の手すりに止まると器用に身体を振って封筒から書面を取り出した。


 魔女の許しが出るまでアルマスは部屋の中に入ることはしなかった。周囲の人達からは楽観的で適当と言われるアルマスであっても最低限の礼節くらいはわきまえている。魔女が手紙を読むくらいの間は待っているつもりだった。しかし、封入されていた手紙はたった一枚しかなかったのに、しばらく経っても魔女は何も言葉を発さなかった。


「どうしました?なにか問題でも?」


 暖炉で静かに燃える薪の音だけが響く奇妙な沈黙に耐えられなくなったアルマスは、部屋の入り口から離れて椅子に座っているだろう魔女の様子を後ろから覗き見た。


 だが、驚いたことにそこに魔女はいなかった。

 椅子には誰も座っていない。椅子の前に置かれた分厚い本が風もないのにパラパラと独りでにめくれているだけだ。


 アルマスは部屋をぐるりと見回した。歩いてきた館の内部とは違い、毛足の短い絨毯が敷き詰められた室内は植物がはびこることもなく、棚や机などの家具がいくつかあるだけだ。ほの暗くてわかりにくいが、どこかに人が潜んでいるようにも見えなかった。


「いいでしょう。貴方を『遍歴の智者』と認めます」


 また声が聞こえた。


 アルマスの視線は椅子の手すりに鎮座する使い魔の梟に引き寄せられる。しかし、声の発生源はもっと下であった。暖炉の仄かな光に照らされて浮かび上がった梟の影が不気味にうごめいて女性の姿を象った。


 当然ながら影に瞳があるはずないというのにアルマスはその影にじっと見られている感覚を覚えた。


「ようこそ。我が『ヴェルナの森』へ。泡沫の時であれど歓迎いたします。お客人」

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