2.白霞の森①

 遙か昔、大陸が数えられないほど多くの国々に分かたれていた頃、人は今では想像もつかないほど高度な知識と緻密な技術に溢れた豊かな文明を謳歌していた。


 永劫続くと言われた人類の時代は、ある日唐突に終わることになる。極まった知性を持つはずの人類は生態系の頂点から瞬く間に追い落とされた。妖精の出現である。


 いや、妖精が生態系に君臨したわけではないからこの表現は正しくない。便宜上『彼ら』と呼ぶことにするが、彼らは生物の枠組みにすら収まっていない。何から生まれ出でて、どこから来たのか、何を糧にして存在しているのか、現代においても解き明かされていない謎に満ちた彼らは如何なる理由をもってか、何百年何千年とかけて築かれてきた人類の歴史とその遺産を悉く破壊尽くしたという。


 その最たるものは人がその知識の研鑽とともに長い年月をかけて作り出したとされる機械文明だ。


 今となっては数少ない古代の文献にその名を残すばかりとなった『機械』であるが、彼らの出現と共にありとあらゆる『機械』はその機能を停止し、人々は抗いようもなく妖精の暴威に晒された。まるで自然の代弁者と謂わんばかりの彼らの行いは嘘か誠か大地を割り、山を崩し、海を荒らしたとされる。


 とにもかくにも彼ら妖精により『機械』という智の結晶を奪い去られた人間は地球上の支配者の座から転げ落ちる他なかった。人はあろうことか彼らの存在により文明の、歴史の逆行を余儀なくされたというわけだ。


 大陸北部を切り取るように横たわる大山脈がその姿を現す前の話だ。遙か古に起きた、御伽話として語られる未曾有の大災害である。


 その後だ、魔女という存在が現れたのは。


 生き残った僅かな人類はかつて誇った叡智など見る影もなく、原始の時代のように自然の猛威に耐えながら、なにより妖精の悪意に怯えて暮らす時代が訪れた。


 ある歴史書曰く、嘲るように人を惑わし、嗤いながら暮らしを脅かし、時には自然環境すらも巻き込んで人を弄ぶ彼ら妖精を魔女は平然と従えたという。人里離れた森の中で、切り立った険しい山の中で、霧に沈んだ湿地の奥で、彼女達は人に害を為そうとする恐ろしい妖精たちを怪しげな術をもって封じて抑えてきた。そうして魔女に守られながら人の営みは現在まで細々と紡がれてきたのだ。


 歴史書の一節において記されるとおり、魔女が畏れられ、崇められ、敬われていたのは覆しようのない事実である。


 しかし、それも過去の話。現代において彼女らは―――。











「っとと」


 思考に耽っていたアルマスは泥濘みに足を滑らせ、慌てて近くの針葉樹の枝にしがみつく。


 背の高いトウヒの木に囲まれた森は、冬の間に積もった雪が中途半端に溶けてひどく歩きづらくなっている。


 危うくぐずぐずになった雪と泥の水たまりに飛び込みかけた金髪の青年アルマスは、枝を掴んだ腕に力を込めてなんとか身体を引っ張り起こした。


 顔に飛び散った泥混じりの雪など気にしている余裕はなく、汗を滴らせながら乱れた呼吸を整えるために何度も大きく息を吸う。


 本当に春になったのかと疑うほどに冷え切った外気に晒されているというのに、吹き出た汗は一向に止まる気配はない。座り込みたくなる弱気を振り払いながらも、アルマスはせめて一息だけでもつくために太い木の幹に背を預けて空を仰いだ。


 この森に入ってからというもの、アルマスは後悔しきりだった。


 降り続けていた雪がやっと収まり、森に踏み入ることが出来るようになったのはつい先日のこと。もう5月になるというのに森の中はほとんど白一色で、ここだけ冬に取り残されている気分になってくる。 


 木々の合間から差し込むほんのり暖かな日射しだけが春の季節を連想させるが、鬱蒼とした森の中ではなんとも頼りないものだ。


 その木漏れ日のせいでべちょりと緩く靴が沈む箇所もあれば、光の届かない木々の裏は氷のように堅く凍って滑りやすくなっている。


 木こりや狩人のように普段森を歩く機会がないアルマスからすれば歩きづらいなんてものではない。それもここは森の深部にほど近い場所のはずだ。外縁の村にいる熟練の狩人だって間違っても踏み込まない領域だから道の整備などされているはずもなく、あるとしてもせいぜい獣道だというのだから参ってしまう。


 端的に言えば底冷えするほど寒いのに長時間歩きっぱなしで汗だくだし、その上足場も最悪だった。


 不慣れな森に踏み入ることが、こんなにも体力も気力も消耗するとは思っていなかった。


 太陽はすでに頭上にさしかかり、森に入ってからそろそろ半日くらい立つ。早朝に出たばかりの村はとうに見えなくなっている。周囲にはひょろ長い針葉樹だけが狭苦しく並んでおり、当たり前だが人の気配は少しも感じられなかった。


 右を向いても左を向いてもまるで代わり映えのしない景色は、方向感覚を狂わせ、人の心をも迷わせる。いくら歩こうともまるで進んでいないような錯覚に陥り、焦りがじりじりと精神を削っていく。


 ざわりと頭上で起きた不気味な葉擦れの音を耳にし、アルマスは背筋に冷たいものが走り、肩を小さく跳ねさせた。


「これが遭難かぁ」


 戯けるように言ってみたものの声が震えてしまったことにアルマスは自分の事ながら苦笑した。


 先ほどまで握りしめるように持っていた方位磁石は、今はただくるくる回るばかりでとっくに役に立たなくなっている。


 念のためと村で借りた羊皮紙の地図は随分古くてところどころ朽ちており、まともに読めたものではなかった。それでも方向を把握することくらいはできるだろうと思っていたが現在地も方角もわからなくなった以上はただの黒ずんだ動物の皮でしかない。


 事実としてアルマスは歩くべき道が見つからず、進むべき方向もわからず、対処すべき方策もなくなっていた。


 これこそ旅人を迷わせると悪名高き『白霞の森』の恐ろしさの一端なのだろう。


「うん、これは確かに怖いな」


 徐々に絡みついてくるようにわき上がる恐怖と絶望を見ない振りしてアルマスは背を預けていた木から離れる。小休止は終わりだ。疲労で悲鳴をあげる身体を叱咤して歩き始める。


 通常であれば道に迷った時点で無闇に動かないのが定石だ。助けが来るのを待つなり、状況が好転するのを期待して大人しくしているべきであろう。しかし、森に近い村の人間ですら立ち入らない奥深くに助けが来るはずもなく、じっとしていたところでそのうち日が落ちて気温も急激に下がることを考えれば状況は悪化することはあれど良くなることはまずない。


 それにアルマスだってなにも無策で歩き回っているわけではない。この森ではこれこそが『正解』なのだ。


 行動を再開して体感で四半刻ぐらい経った頃、ふと異変に気づいた。いつの間にか、アルマスの周りに白い霧が立ちこめている。


「ああ、やっとか」


 寒さ、悪路、方向感覚の喪失、その程度のことはどんな森でも起こりうる。だが、ここはそこらにあるただの森ではなく、あの『白霞の森』なのだ。むしろこれからが本番だと言える。


 漂う霧はあっという間にその濃度を深め、目の前はおろか足下さえ覚束ないほど視界が悪くなる。


 そして、随分と遠くからあるいは至近距離からだろうか、きゃらきゃらとどこかから嘲笑う姦しい声が響き渡る。耳元で囁かれるような、離れたところから呼ばれているような、はたまた周りすべてを囲まれているかのような曖昧で不快な感覚だ。


 さあ、来たぞとアルマスは思わず唾を飲み込んだ。


 『白霞の森』。それは魔女の支配する森だ。古来より迷いの森として語り継がれ、多くの旅人を攪乱し、そしてその命を奪ってきた呪いと悪意に溢れた土地。


 魔女が棲む地には妖精がいる。それも悪辣で陰湿な妖精だ。気を抜けば気付かないうちに命を落とすなんてことも冗談ではなくありうる。人の住む街中や整備された街道とは違う、この場は既に人の領域ではなく彼ら妖精の世界だ。生きるも死ぬも彼らの気分次第というわけだ。


 アルマスは目を瞑ると耳を澄ませた。閉ざされた視界の中、頭に響くのは特徴的な甲高い少女達のような笑い声。こんな森の奥深くで本当に人間の少女が、それもこうも可笑しそうに嗤う少女達がいるわけがない。この声を発しているのは明らかに妖精であった。


「うん、よかった。『戯れる少女達メッサネイト』だ」


 しばらく耳障りな嗤い声を聞いていたアルマスはやがて納得したように呟いた。


 強がりで言ったのではない。アルマスが目を閉じてまで耳を傾けていたのは、不明瞭な視界の中で妖精の声や周囲の木々のさざめきをもとに妖精の種類の見当を付けるためであった。


 結論としてアルマスは大したことのない類の妖精だと判断した。


 それになによりこの妖精は今のアルマスにとって都合が良い。


 アルマスは脳裏に目的地を強く思い浮かべると一本の針葉樹を中心にして三度だけ円を描くように歩いた。


 一回、二回、そして三回。その間も妖精の嗤い声が途切れることはない。それでも変わったこともある。今度は目を開いたままアルマスは注意深く妖精に意識を向けた。


 聞こえてくる嗤い声の位置が少し移動している。遠くからの呼び声、近くからのささやき声、入り交じるように響く妖精の喧騒はよくよく聞いてみればどれがどの方向からなのか理解できる。


「なるほどね」


 アルマスは一つ頷くと左手の方へと迷いなく歩を進めた。


  アルマスの歩みに焦りはなく、むしろゆったりと余裕さえ出ている。今のアルマスにとっては先ほどまで感じていた心細さが嘘のように感じられるほどだった。


 恐怖や緊張が一周回って思考が吹っ切れてしまったわけではなく、不気味な妖精の叫声を前にしてアルマスは確かに安心感を覚えていたのだ。


 その理由は偏にこの妖精自身にある。


 『戯れる少女達』といえば、森や山の中でまるで人の声に聞こえる音を囁いて迷った旅人を誘導し惑わせようとする厄介な妖精だ。どこに向かってもいつまでも付きまとってくるが、決してその言葉に耳を傾けてはいけない。呼び寄せる声に従って進んだ先には大抵崖や底なし沼など命に関わる危険な場所に辿り着く。その声に従って迷い人が助かることは絶対になく、例外なく死へと続く道程なのだ。


 しかし、逆に捉えれば妖精の声がしない方向は目的地に通じるということでもある。


 落ち着いて聞くことに集中すればすぐにわかる。前、後ろ、上、下、右からはひっきりなしに聞こえてくるのに、左側からだけは妖精の声が響いてこない。だからアルマスは左方向に歩き出したのだ。


 無知な旅人にとっては死へと誘う悪魔の囁きだとしても、アルマスにとってはただの親切な道先案内でしかない。


 心なしか妖精達の声がアルマスを引き戻そうと躍起になっているような気がしたが、わざわざ相手をしてやるつもりもない。アルマスは妖精達が付いてきていることを確認しながら少しだけ足を速めた。この便利な妖精達が飽きていなくなってしまうよりも早く、少しでも目的地に近づいてしまいたかった。


 なにせ、この森に棲む妖精は『戯れる少女達』だけではない。より危険で、よりあくどい妖精などごまんといる。道案内を失ってまた迷子になってしまえば、そんな妖精と鉢合わせる可能性が増すことになるのだ。

 いくらアルマスといえども、それは勘弁して欲しかった。

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