魔女が哭く、賢者はスープを飲む

リンゴとタルト

序章

1.プロローグ

 息が白く曇る。


 凍り付くほど冷たい空気が逆巻いて、まばらになった雪が静かに外套を打ち付ける。厚い毛皮に覆われた長靴の下では、踏みしめられた雪がきゅっと鳴った。


 ちらちらと氷の粒が舞う深い森のなか、リーリヤは黒い毛皮の外套を抱きしめるように引き付けて、寒さを振り払うように足を踏み出した。さらりとした粉状の雪は深く積もり、一歩一歩がとても重くて遠い。


 針葉樹の合間を縫うように続くはずの細い小道は真っ白に染まり、進むべき方向も定かではない。それでもなんとか迷わずに歩くことができるのは、幼い頃から何度も繰り返し歩いた記憶が道なき道の歩き方を教えてくれているからだった。


 頭上には白く濁った曇り空が延々と広がっている。まるで自分の心の中みたいだとリーリヤは思う。どんよりと暗い不安が影のように纏わり付いて離れない。


 今朝も、昨日も、その前の日だってそうだった。この冬が始まってからずっと、変わらない息苦しさを感じている。


 そのもどかしさに耐えられなくて、ほんの一時だけでも心を紛らわせたくて、たったそれだけのために吹雪が緩んだ一瞬を見計らっては、わざわざ暖炉の灯る暖かな館から抜け出していた。


 館から出る直前、顔を合わせた師はいつもの冷徹な表情ではなく、心配するように眉をしかめていた。息をするだけで凍り付きそうになる極寒の中を歩き回るなど、師が良く思っていないのは明白だ。


 特にこの時期の雪は止み間などあってないようなもの。そうであっても師がはっきりと制止する言葉を告げたことは一度もなかった。


 やがて辿り着いた場所は切り立った小高い丘の上だった。そこからはどこまでも続く広大な森が見渡せた。冬にも枯れぬ針葉樹は雪を纏って巨大な氷柱と化し、空を縫い止めるように連なっている。


 空も大地も森もすべてが冷たく凍り付き、視界に写るすべてが白に満たされていた。遙か遠くで轟く荒々しい風のうなり声と真横から打ち付ける氷の粒の音だけが、この美しくも寂しい白銀の世界が現実のものだと伝えている。


『春はまだ先だろうか』


 リーリヤの心をざわつかせる不安と焦りはいっそう強くなった。


 もう何ヶ月もの間、雪は降り続けている。しかしそれでも空を覆う雲は飽きることなく、大地を白く染め上げている。


『春はもうどこかにあるだろうか』


 急き立てられた心のままに、見慣れたはずの森に視線を彷徨わせる。ずらりと立ち並ぶ木々の隙間、森のくぼみにできた小さな湖、所々転がるごつごつとした大岩。どれもが深い眠りに落ちているように、しんと静けさをたたえている。


 未だ花は咲かず、新芽も芽吹かず、虫も動物もまるで世界からかき消えたように姿はない。あの騒々しく、厄介な妖精たちですら今は鳴りを潜めている。恐ろしいほどに白一色に染まった光景がどこまでも存在していた。


 そのことにリーリヤは安堵する。


 まだ冬は終わらない。そのことが苦しかった心をほんの少しだけ軽くした。しかし、同時にとても情けないとも思った。


 これまで春を待ち望むことは幾度もあったが、冬の終わりを拒んだことなんて一度もなかった。その心境の変化がなぜなのかは自分が一番理解していた。きっと、これから歩むことになる孤独な人生への覚悟が足りていないからに違いなかった。


 リーリヤは魔女の見習いだ。


 この極寒の大森林を治め、数多の妖精を従える偉大な魔女の後継者。


 それが幼い頃からの夢であり、目標であり、周囲から望まれた役割でもあった。森と生き、森に寄り添い、森で朽ち果てる。いつの日か、どこまでも広がるこの森が枯れ果てるまで、ひとりぼっちで生きていくことこそが『魔女』としての務めである。


 そして、この凍てついた白い世界が終わるときリーリヤは魔女になるのだ。


「さようなら」


 零れ出た言葉は再び勢いを取り戻し始めた雪の嵐の中に吸い込まれていく。誰への言葉なのかは、声を出した自分でもわからなかった。


 ふと思い浮かんだのは幼い頃の記憶。今よりももっと子どもであった頃、一度だけ森から連れ出してもらったことがある。


 たくさんの人や活気に満ちあふれ、数えられないほどの家が連なる街並み。それまでは想像すらしたことのなかった光景がたくさんあった。なにより、初めてできたただ一人の友達がいた。


 大気がうねり、雪が舞う。降り止まぬ雪が叱咤するように頬を打ち、脳裏に描いた暖かな思い出をかき消していく。


 忘れよう、とリーリヤは思った。賑やかな街の生活は、寂しい森の魔女とは無縁な話だ。彼らの住む世界と魔女が交わることは決してないだろうから。


 春はまだ遠く、冬の終わりはまだ見えない。けれどもいずれ白銀の大地は溶けて消え、花々が芽吹く季節が訪れる。そして人々は薄暗い家から飛び出して、太陽の恵みを祝い、歌い踊るのだろう。それは遙か昔から続き、これからも変わることがない自然の摂理だ。


「さようなら」


 言葉はひらひらと舞う雪のように風に流れて消えていった。

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