西日の差す喫茶店にて12-彼岸花の咲くころ-

蓮見庸

西日の差す喫茶店にて-彼岸花の咲くころ-

 お彼岸を過ぎたある晴れた日の午後、わたしはいつもの喫茶店へ向かっていた。

 バス通りからひとつ角を曲がったすぐにある家のへいの下に、ちょっとした花壇のような場所があり、鮮やかな紅い彼岸花が数本まとまって咲いていた。

 最近やっと夏の暑さがやわらいできて、日中外を歩くのが苦にならなくなってきた。あれほど早く終わらないかと願った夏が、今ではもう懐かしくさえあった。夏休みで訪れた島旅も、もうずいぶん昔のことのように感じてしまう。そういえば、セミの声もほとんど聞かなくなった。


 喫茶店の庭の隅に咲く白い彼岸花が目に入った。

 わたしは扉に手をかけカランカランと音を立てて中に入った。

「いらっしゃいませ」

 カウンターにいたマスターがいつもの穏やかな笑顔で迎えてくれた。

「こんにちは」

 わたしは軽く会釈しながら空いている席を探し、カウンターの前を通り過ぎようとすると、

「今日もブレンドコーヒーにしますか?」

とマスターに声を掛けられた。

「え?」

 わたしは初めてそんな声を掛けられて、なにかの聞き間違いかと思った。

叔父おじさん……」

とマスターの隣にいためいが小声で言った。

「あ、すみません。差し出がましいことを。あとであらためてご注文をお伺いに行きます」

 マスターはあわてて、そして恥ずかしそうに言った。

「いいえ、ブレンドコーヒーをお願いしようと思っていましたから、お願いします。あ、そうだ。ケーキセットにしてもらえますか?」

 わたしはマスターがなぜそんなことを言ってきたのか不思議に思う一方で、おそらく顔を覚えてくれていて声を掛けてくれたのだろうから、常連客の仲間入りができたような気がして素直にうれしかった。

「有難うございます。ではブレンドコーヒーとケーキセットのご注文を承りました。今日のケーキはチーズケーキです。あ、どうぞお好きな席へお掛けください」

 マスターは照れ笑いをしながら申し訳なさそうに言った。

 わたしは席へ向かうときにカウンターをちらりと見てみたが、片隅に置いてあった猫の写真は見付けられなかった。


 椅子に座り手帳を広げると、店内にゆるく流れるジャズが耳に入ってきた。ピアノの旋律とともに流れるのはベースの音だろうか、低い音が体を包むようでとても心地よい。

「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです」

 マスターがわたしの前にカップを置くと、立ち上る湯気が芳醇なコーヒーの香りを漂わせた。

「先ほどはたいへん失礼いたしました」

 そしてマスターは、わたしの顔を伺うように見て言った。

「実は、ちょっとお願いがあるのですが……」

「はい」

「もしよろしければ、コーヒーの飲み比べをしていただけませんでしょうか? もちろんサービスです」

「飲み比べですか?」

「ええ、うちの姪がブレンドした豆があるんですが、とてもいいブレンドなので、ぜひ飲んでいただいてご感想を伺えればと思いまして……あ、コーヒーをれるのは私ですが」

「そういうことでしたら、よろこんで。姪御めいごさんもコーヒーお好きなんですね」

「今ちょうど勉強をしているところなんです」

「コーヒーの勉強ですか? 本格的なんですね」

「ええ、将来は……」

 マスターがそう言いかけた時、

「おじさん!」

 とカウンターから声が飛んできた。

「お客さん困ってるじゃない」

「あ、これはとんだ失礼を」

「いえ、とんでもないです」

「すみませんでした。それでは、今から姪のブレンドしたコーヒーを淹れてお持ちしますので、どうぞごゆっくり」

 マスターはそう言っていそいそとカウンターへ戻っていった。マスターのこんな姿は初めて見た。

 コーヒーカップに目をやると、湯気がゆらゆらと渦巻うずまきを描いていた。

 彼女がいる日は、店の中は活気が出て明るい雰囲気になる気がする。マスターだけの落ち着いた雰囲気も好きだけれど、この感じもとてもいい。

 他の人たちはどうだろうと周りを見てみると、本を読んでいたり、ノートに何かを書いていたり、スマートフォンに夢中になっていたり、それぞれ自分の世界に入り込んでいるようだった。


 マスターと入れ替わるように彼女がケーキを運んできた。

「さっきは叔父さんが余計なことを言ってすみません。コーヒーの勉強をしてるとかそんなんじゃなくて、好きで手伝ってるだけなんです」

 彼女はほんとうに申し訳なさそうに言った。

「あ、そうだったんですね。でもコーヒー豆のブレンドをするなんてすごいじゃないですか。それにわたしお店でブレンドしてるなんて思いませんでした」

「焙煎とブレンドは叔父さんのこだわりなんです」

 彼女はカウンターをちらりと見て言った。

「わたしもコーヒーが好きだから、それで一度やってみたいって話をしていたら、じゃあブレンドからやってみようということになって……。叔父さんに聞きながら自己流でやってみたら、それが思いのほかうまくいったみたいで。でも、まさかお客さんにお出しするとは思っていなくて、親ばかって言うんですか、叔父さんが無理を言ってすみませんでした……」

「いえいえ、コーヒーは好きなんですけど、飲み比べなんてしたことないので、どんな違いがあるのか楽しみです」

「そう言っていただけるとうれしいです。けっこう違うと思います。好みに合うといいんですけど……あ、わたしもついついおしゃべりをしてしまいました。すみません。ごゆっくりどうぞ」

 そう言うと彼女はお盆を抱えていそいそとカウンターへと戻っていった。

 目の前のチーズケーキはおそらく手作りで、フォークで小さく切って口に入れると、甘さは控えめだがとても濃厚で、舌の上でチーズの味がおどった。


 コーヒーを半分、ケーキも半分ほど食べ終えた頃、ふたたびマスターがコーヒーを持ってきた。

「お待たせいたしました。こちらが先ほど言った姪のコーヒーになります。それで、この紙にご感想をいただけませんか? 美味しかったとか、そうでもなかったとか、率直な感想で構いませんので、どうぞよろしくお願いいたします。あ、五段階評価とかでもぜんぜんかまいませんので」

 マスターはテーブルに小さな紙切れと鉛筆を置くと、軽くお辞儀をしてカウンターへと戻っていった。

 わたしはさっそくそのコーヒーカップを口元へ運んだ。

 まず爽やかな香りが口の中いっぱいに広がり、そしてひと口飲むと、少し酸味があるけれどまろやかで、飲んだ後はすっきりする味わいのコーヒーだった。

 続けて、先ほどから飲んでいるマスターのコーヒーを口に含んだ。こちらは酸味は抑えられていて濃厚さが際立つ落ち着く味わいだった。

 わたしは味の違いが分かるわけではなかったけれど、こうして比べて飲んでみると、こんなに違うものかとびっくりした。

 どちらがいいというわけではなく、それぞれとても美味しかった。

 わたしはマスターが置いていった紙に鉛筆を走らせ、思ったことをそのまま書いた。


 しばらく本を読んでいたが、目も疲れてきてそろそろ帰ろうかと、わたしはカウンターへ向かった。

「ごちそうさまでした。これ、コーヒーの感想です」

 わたしは紙と鉛筆をマスターに渡した。

「あ、有難うございました。またお越しください」

「今日はほんとうにありがとうございました!」

 彼女も奥から出てきてお礼を言ってくれた。

「あの、すみません。ひとつお伺いしてもいいですか?」

 そう私は聞いてみた。

「ええ、どうぞ」

「前に来た時、ここに猫の写真があったような気がしたのですが……」

「え? ええ、憶えていてくださったんですね。あれは、しまってしまいました……。特に意味はないのですが」

「叔父さん……」

 マスターは彼女に「いいんだよ」と小声で告げて続けた。

「強いて言うなら、私の気まぐれです」

 そう言ってほがらかに笑った。

「そうなんですね。失礼しました」

 わたしはこれ以上聞くのはためらわれたので、それだけ言葉を返した。

「いえいえ、こちらこそ」

 マスターは笑顔を崩さず言った。

「また来ます」

 わたしはそう言って扉に向かい手をかけた。

「有難うございました」と背中からふたりの声が聞こえてきたので、わたしは振り返り軽く会釈をして外に出た。


 店の外は少しひんやりとした空気が忍び寄ってきていた。

 バス通りへ向かって歩いていくと、紅い彼岸花の前を白っぽい猫が横切ろうとしていた。

 猫はわたしに気が付くとびっくりしたように立ち止まり、じーっと見つめてきた。

 わたしも動かずに見つめ返したが、猫は突然くるりと向きを変えてぴょんと塀に飛び乗り、その姿は青空の中に消えていった。

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西日の差す喫茶店にて12-彼岸花の咲くころ- 蓮見庸 @hasumiyoh

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