第十九話 英雄たちの厄介な日常(前編)

 王都に凱旋してから、数日が経過した。

 アイリス分隊は、国王直々の計らいにより、王城の東棟にある、来賓用の豪華な居住区画を与えられた。

 ふかふかのベッド、豪奢な調度品、そして窓から見える王都の美しい景色。

 新人騎士だった頃の、質素な寮生活とは天と地ほどの差があった。

 しかし、アイリスの心は、一日として休まることがなかった。

 朝、目を覚ませば、まず耳に飛び込んでくるのは、城の中庭で聞こえるギルの雄叫びだ。

「うおおおおお! 姉御に捧げる、朝一番のトレーニングであります!」

 彼は、騎士団が訓練で使う巨大な丸太を、小枝のように軽々と振り回し、早朝から凄まじい騒音と風圧をまき散らしている。

 朝食の席に着けば、テオが「今日のファンクラブ会員の入会状況ですが…」と、胡散臭い営業報告を始め、ジーロスは「今日の食卓は、色彩のバランスがなっていない!」と、料理の配置に文句をつけ、シルフィは、そもそも食卓にたどり着けずに、城のどこかで迷子になっているのが常だった。

(…私の知っている日常は、どこへ行ってしまったのだろう…)

 アイリスは、あまりに現実離れした日々に、自分が何者なのかさえ、分からなくなりそうだった。

 騎士として、人として、あまりにも歪な今の状況。

 彼女は、せめて騎士としての自分だけでも取り戻そうと、一つの決意をした。


「…よし」

 アイリスは、使い慣れた訓練用の剣を握りしめ、鏡の前で、きつく髪を結い上げた。

 向かう先は、聖騎士団の第一訓練場。

 かつて、彼女が来る日も来る日も、汗と泥にまみれて剣を振るっていた場所。

 あそこへ行けば、少しは、まともな日常を取り戻せるかもしれない。

 彼女は、部屋を出る前、まだベッドで寝ぼけているシルフィに、一通の封筒を手渡した。

「シルフィ殿、これを、騎士団長のアルトリウス様の執務室まで届けてもらえるだろうか。先日の任務に関する、追加報告書だ」

「ふぁい…」

「執務室は、この廊下をまっすぐ行って、三番目の扉を右だ。いいか、絶対に、まっすぐだぞ」

「はい…まっすぐ…」

 シルフィが、再び夢の世界へ旅立っていくのを見届けると、アイリスは今度こそ、一人の時間を求めて、部屋を後にした。


 第一訓練場は、朝の訓練に励む騎士たちの、活気と熱気に満ちていた。

 剣と剣がぶつかり合う甲高い音、ときの声、そして汗の匂い。

(…ああ、落ち着くな…)

 アイリスは、久しぶりに感じるその空気に、心の底から安堵した。

 しかし、その平穏は、彼女が訓練場に一歩足を踏み入れた瞬間、打ち破られる。

「…おい、見ろよ。アイリス様だ…」

「あの、聖女アイリス様が、なぜここに…?」

「本物の英雄だ…。俺たちとは、格が違う…」

 騎士たちの、ひそひそとした囁き声。

 その視線は、畏敬、嫉妬、好奇、様々な感情が入り混じり、針のようにアイリスに突き刺さる。

 彼女が、素振りをするために木剣を構えただけで、周囲の騎士たちが、ぴたり、と動きを止めて、その一挙手一投足を見守り始めた。

(…やりにくい…! やりにくすぎる…!)

 もはや、ここは、彼女が知っている、ただの訓練場ではなかった。

「あ、あの! アイリス分隊長!」

 一人の若い騎士が、意を決したように、彼女の元へ駆け寄ってきた。

「お、恐れながら! 俺の剣に、あなたの祝福をいただけないでしょうか!」

「…は?」

「あなたの祝福があれば、俺も、あなたのような英雄になれる気がするんです!」

 純粋な、キラキラとした瞳。

 アイリスは、断れなかった。

「…わ、分かった…」

 彼女が、おずおずと相手の剣に触れ、それっぽく祈りの言葉を口にすると、周りの騎士たちが、どっと押し寄せてきた。

「俺も!」

「俺もお願いします!」

 アイリスの訓練は、いつの間にか、急ごしらえの祝福会へと変わってしまっていた。


『…何をやっているんだ、お前は』

 アイリスの脳内に、呆れ果てたノクトの声が響いた。

 彼は、自室の塔で、古代文献の解読に集中しようとしていたところだった。

(神様! 違うのです、これは…!)

『騎士団の連中を、ファンクラブに勧誘している場合か。さっさと訓練を済ませろ。お前の脳内通信がうるさくて、集中できん』

(無茶を言わないでください! こんな状況で、どうやって訓練をしろと!?)

 アイリスが、内心で悲鳴を上げた、その時だった。

 訓練場の巨大な鉄の扉が、凄まじい音を立てて、外側から、吹き飛んだ。

 土煙の中から、仁王立ちで現れたのは、ギルだった。

 その肩には、本来なら、攻城兵器の訓練に使うはずの、巨大な岩石が、軽々と担がれている。

「姉御! 稽古なら、このギルがお相手しやす!」

 彼は、周りの騎士たちを、ゴミでも見るかのような目で見回した。

「そこのヒョロい騎士どもでは、姉御の神速の剣の、錆止めにもなりやせん! 俺が、姉御の限界を引き出して差し上げますぞ!」

 ギルは、そう言うと、担いでいた岩石を、訓練場の真ん中に、ズドン!!!と、投げ捨てた。

 大地が揺れ、騎士たちは、その圧倒的なパワーに、言葉を失って立ち尽くしている。

 アイリスは、頭を抱えた。

 彼女の求めていた「ささやかな日常」は、今日も、木っ端微塵に砕け散った。


 その頃、シルフィは、アイリスから預かった手紙を手に、王城の廊下を歩いていた。

(まっすぐ行って、三番目を、右…)

 彼女は、呪文のように、その言葉を繰り返す。

 一つ目の扉、二つ目の扉…。

 そして、三つ目の扉の前。彼女は、自信満々に、右へ曲がった。

 曲がった先は、長い、長い、下り階段だった。

(…あれ? 団長様のお部屋は、確か、最上階のはず…)

 少しだけ、疑問に思った。

 だが、彼女は、アイリスの言葉を信じた。

(きっと、この階段を上り下りするのも、騎士の訓練なのだわ!)

 超ポジティブな勘違いと共に、彼女は、薄暗い階段を、一歩、また一歩と、下っていく。

 その先が、王城の地下牢へと続いていることなど、知る由もなかった。

 ノクトの元に、新たな緊急通信が入るのは、それから、さらに三十分後のことである。

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