第六節 差出人不明の手紙
その日の夕暮れは、焼け跡を黄金色に染めていた。
伸びる影の中で、舞の手元に一通の手紙が届いた。封筒は薄茶に変色し、角は擦れてよれよれだ。差出人の欄は空白のまま。消印は隣町の名で、見覚えのない筆跡だった。
胸の奥がざわついた。見知らぬ筆跡に、なぜか目を逸らしたくなる。けれど、どうしても気になってしまう。
舞は指先に力をこめ、震えながら封を切った。紙の裂ける乾いた音が、なぜか自分の鼓動と重なって聞こえる。
そこに綴られていたのは——舞の胸を突き刺すような言葉だった。
――――――――
拝啓
あの日の夕餉を、今も忘れることができません。
湯気を立てた鍋からよそわれた新じゃがと味噌の煮ころがし。皮が薄く破け、口に入れるとほろりと崩れ、土の香りとともに広がる素朴な甘み。味噌の塩気がじんわりと舌に残り、心の底まで温まっていくようでした。
あの時の食卓には、笑い声がありました。
「熱いから気をつけて」
差し出す声には、幸せな未来を信じる力が宿っていました。戦火の中にありながらも、あの一皿には明日を生き抜く力があったのです。
私は、その味を、決して忘れません。
あのじゃがいもを頬張ったときの温もりごと、今も胸に生きています。
敬具
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手紙を握りしめた瞬間、舞の呼吸がひどく乱れた。紙の縁が掌の肉に食い込み、指先に残るざらつきが心の奥へと沈んでいく。
薄暗い長屋の室内に、遠くで誰かが器を片付ける音がする。その音がいつの間にか消え、ただ自分の鼓動だけが耳の奥で鳴るようになった。
目の前に並ぶ言葉の文字は、まだ冷たい紙の上にあるのに、胸の中には熱い湯気が立ちのぼる。
あの夜の台所が、じわりと立ちあがるようだ。
煤けた土間に置かれた小さな鍋、竹ベラでじゃがいもを転がす音。皮をむけば薄い皮が指の下で剥がれ、鍋の中で土の匂いが湯気と混じりあう。味噌を溶いたときの香りが、焦げずに上下に漂って、ひと匙すくうと味噌の塩気がじゃがいもの素朴な甘みを引き立てる――そんな、舌と鼻で確かめたことでわかる細部が、手紙の行間に写し出されている。
「なぜ……どうして……私の思い出を、他人が……」
声にならない言葉が喉から漏れる。
舞は手紙を宙に掲げ、一行一行を目でなぞった。文体はあくまでそっけない。けれど、そこに紡がれている語句は、彼女があの日、自分の手で紡いだ言葉と同じ世界を持っている。
『ほろりと崩れ』『土の香り』『味噌の塩気がじんわり』——思わず胸に走る違和感は、盗聴や覗き見のようなものではなく、もっと心に深く入り込んだものだった。あの小さな台所での仕草や、二人の屈託のない笑顔を……誰かが自分の記憶のように語っている。
舞は辺りを見回した。
硯の黒い水面、古新聞を束ねた端、窓の外に積もった灰。――すぐそばにあるはずのものが、すべて現実に戻すための道具のように感じられた。けれども手の中の紙は冷たく、そこに書かれた記憶は熱を保っている。
温度を――自分の過去を――誰かが触れている。皮膚の感覚でしか感じ取れないものが、言葉になって返ってきたのだという衝撃が、胸を押し潰しそうになる。
怒りと羞恥と、説明のつかない寂しさが、一度に押し寄せてきた。舞は膝をついて、手紙を膝の上に落とした。
封筒の裏に目を移すと、消印の輪郭が薄く滲んでいる。
――隣町。差出人欄は空白。
指先がその輪郭に触れるたび、心の奥で封じていたあの夜の小さな幸福の殻が砕ける音がした。
彼女は思い出す――あの煮ころがしを作った日の、ささやかな所作を、互いに交わした声を、目線までも。誰がそれを知り得たのか。誰が、その味に言葉を添えられるほどに近くで見ていたのか。探りたくないのに探ってしまう衝動と、ただ手紙を抱えてもう一度その味を味わいたいという欲望が、同時に舞の胸を引っ張ろうとする。
夜が深くなり、長屋の外を行き交う足音が薄れていく。舞は手紙をそっと胸に当て、目を閉じた。震える指の間に、あの日の味の余韻が残っているように思えた。
――誰かが彼女の記憶を手にしているという事実は、代筆屋としての仕事が自分自身に返ってきた証であるともとれた。
言葉が「味」を伝えると信じてきた舞は、その力が自分の人生さえ揺り動かすのだと突きつけられた。
けれど、その「味」は、過去をただ閉じ込めるものではなく、むしろ未来へと開く扉の鍵なのかもしれない。愛した日々と、これから歩む日々とを、ひとつに結ぶための……。
舞はゆっくりと手紙を畳み、両の手で固く握りしめた。逃げずに向き合わなければならない。差出人を探し出し、彼の真実を確かめるのだ。
夜明けのかすかな光が障子に差し込む頃、舞はひとり、そう心に誓った。
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