第七節 記憶の縁
翌朝、舞は一枚の手紙を胸に忍ばせ、隣町の闇市へと足を運んだ。
駅前から続く細い路地は、焼け跡を埋め尽くすように掘っ立て小屋と粗末な屋台で溢れていた。干からびた魚、割れた茶碗、古い軍服。人いきれと埃、焦げた油の匂いが入り混じり、声が飛び交っている。
「ほら、新じゃがだ! 掘りたてだぞ、美味いぞ。見ていけよ!」
「味噌ならここだ! 配給じゃ手に入らねぇ旨いのがある!」
「安くしとくよ、姉ちゃん! どうだい?」
舞は足を止め、一軒ずつ屋台をのぞいた。木箱に積まれた小さなじゃがいもを指で確かめ、味噌の樽の匂いをかいだ。声を掛けられるたび、彼女は丁寧に頭を下げる。
「すみません……ここで、復員兵の方と話したことはありますか? その方はじゃがいや味噌の味を、よく語っていたと思うのですが……」
店主たちは怪訝な顔をしたり、首を横に振ったりするばかりだった。
けれど、やがて古びた樽の前に腰を下ろした年配の商人が、煙草をくゆらせながら答えた。
「……ああ、そういえば、いたなぁ。やけに嬉しそうにしてさ、『故郷の煮ころがしが忘れられねぇんだ』って話してた復員兵が。ときどき来て味噌を買うたんびに、同じことを言ってたよ」
舞の胸がどきりと鳴る。その言葉は、手紙の一節と響き合うようだった。
「……けど、悪いな、姉ちゃん。あいつ、どこから来てどこへ行ったか、俺は知らねぇし。ただ……ほんとに幸せそうに笑ってたよ。まるで、煮っころがしの湯気が目の前に立ちのぼってるみてぇに、なっ」
そう言って商人は、喉を詰まらせるように大声で笑った。
「……なぁ、誰かよう。ここらで、煮っころがしの話をよくする復員兵を知らねえかぁ――」
商人のしゃがれた声を耳にした闇市の古株の商人が、煙草の灰を指で弾きながら、ふと思い出したように返した。
「そういや……あの話をしてたのは、こん先の長屋のそばに住んでる復員兵だったかもしれんぞ。似たやつを見たことがあるような気がする。夕方になると、ぶらりと出てきては、酒をちびちびやりながら昔話をこぼしてたなぁ」
「あのう……その方に、お会いできますか?」
舞が食い入るように尋ねると、商人は少しだけ考えてから、路地の奥を指さした。
「川沿いの掘っ立て小屋だ。痩せぎすで、いつも古い軍帽をかぶってる。ああ、名は確か……佐野、とか言ったかな」
舞は礼を言い、雑踏を抜けて川沿いの長屋へと向かった。
湿った畳の匂い、錆びついたトタン屋根からしたたる水音。そこに、煤けた軍服の上着を羽織った男が腰を下ろしていた。
まだ三十に届かぬはずなのに、頬はこけ、目だけが妙にギョロつき、遠くを見つめている。
「あのう、突然にすみません……お尋ねですが、あなたが、佐野さんでしょうか?」
舞が声をかけると、男はゆっくりと顔を上げ、かすれた声を返した。
「ああ、そうだが……俺を知ってるのか?」
「闇市の商人の方に、あなたが『煮ころがし』のことをよく話していたと……」
佐野はわずかに笑みを浮かべた。
「……ああ、そのことか。戦地で、仲間のひとりが、よく言ってたんだよ。『最後にもう一度、新じゃがの煮ころがしが食べたい』ってな。土の匂いと味噌の甘さが、夢みたいに浮かんでたらしい」
その言葉に、舞の胸が熱く震えた。それは、高志の記憶に違いない——そう直感しかけた瞬間、佐野は続けた。
「そいつの名は……石井。石井誠。山形の出身だったかな。残念だが、復員できずに死んじまった」
舞の瞳が揺らぎ、息が詰まる。
違う――高志ではない。
胸の奥に、期待と共に膨らんでいた光が、一気にしぼむ。
「……そ、そう――ですか……」
声を絞り出すのが精いっぱいだった。
佐野は、舞の表情を不思議そうに眺めながら、煙草に火をつけた。
「だがな、あの時の目は忘れられんよ。まるで本当に、湯気の前に立っているみたいな顔でな……」
その言葉はなおも胸を突いたが、舞は深く頭を下げ、静かにその場を後にした。川沿いを歩きながら、耳の奥にまだ「煮ころがし」という響きが残っていた。
けれどそれは、高志のものではなかった。その落差が、いっそう心を締めつけた。
闇市の雑踏を後にした舞は、足取り重く路地を歩いていた。
胸の奥には、先ほどの復員兵の言葉がまだこだましている。けれど、名前を告げられた瞬間、心に差し込んだ光は砕け散り、ただ疲労と空虚だけが残っていた。
ふと目に入ったのは、色褪せた暖簾。『古道具』と墨で書かれ、端はほころび、風に揺れている。舞は無意識にその下をくぐった。
店内には、古びた机や皿、割れかけた硝子瓶が並び、ほこりっぽい匂いが充満している。
奥から現れた店主は、背を少し丸めた年配の男だった。
「いらっしゃい……めずらしいね、こんな時分に若い子が」
舞には特に買い物の当てもなかったので、便箋と封筒が並ぶ棚に視線を漂わせていた。店主はそんな様子を見て、棚の奥を片づけながら、ふと独り言のように語り出した。
「……少し前だがな、復員した若い兵隊が来て、筆と紙を求めていったんだ」
舞の心がわずかに動いた。
「復員兵……ですか?」
「ああ。えらく真剣な顔をしていてな。ただの買い物じゃなさそうだった。聞けば、戦場で亡くなった仲間に頼まれたんだとよ」
店主の声は低く落ち着いていたが、言葉の端々に重みがあった。
「そいつの話だと……戦地で知り合った仲間が、妻との夕餉の話を何度もしてたそうだ。『新じゃがの煮ころがしが恋しい』ってな。で……もし自分が死んだら、その幸せだったことをせめて妻に伝えてほしい、って」
舞の胸がひやりと締めつけられた。
「……その方は、戦火で……」
「亡くなったそうだ。残された復員兵は、約束を果たそうと、筆と紙を探してたんだとよ。手紙の宛先は、仲間が話していた住所をなんとか思い出して書いたらしい。けどな……」
店主は、かすかに首を振った。
「手紙に自分の名前も住所も書かなかった。いや、書かなかったんじゃない。書けなかったんだ。生き残った者の罪ってやつかもしれん……」
舞は震える指先で、古びた机の角をなぞった。
「……その兵の行き先は、わかりませんか」
店主は目を細め、記憶を探るようにした。
「はっきりとはわからんが……話の中で一度、『里山村』って名前が出た。小さな村らしいんだが。どこにあるのか、わしも詳しくは知らん」
その名を聞いた瞬間、舞の心にかすかな灯がともった。
決して確かだとはいえない。けれど、わずかな手がかりが、暗闇の中に一本の細い糸のように浮かび上がってきた。
長屋に戻った舞は、次の日、愛文代筆の顧客であった杉本美佐子の長屋を訪ねた。里山村の義母宛に出した手紙――ところが、残念ながら美佐子も赤子の浩も、すでにこの世にはいなかった。
小さな祭壇の前に座る。淡い陽の光が障子を通り、ほこり混じりの空気に溶けていく。舞は静かに線香を取り出し、香りが立ち上るのを見つめた。祭壇には、里山村から届いた義母の訃報が記された手紙が置かれている。
「……ごめんなさい、もうお会いできないのですね」
小声でつぶやく舞に、誰も応える者はいない。けれど、手紙の文字が、かすかに彼女の胸に触れるように感じられた。義母の住所がはっきりと記されている。舞は手元の紙片に、そっと書き留める。
「美佐子さん、ありがとう。これで、里山村へ行けます……」
舞は深く息を吸い込み、祭壇にもう一度頭を下げた。静寂の中で、亡き二人への思いと、自分がこれから辿る道の重みを感じながら、そっと杉本家を後にした。
村外れの坂道を上りきったときだった。木立の隙間から、傾きかけた陽が差し込み、古びた藁葺き屋根を柔らかく照らし出す。舞は胸の奥にたまった息を吐き出しながら、やっと辿り着いたことを確かめるように立ち止まった。
戸口の表札には、野坂と書かれていた。入口そばには、一人の男が腰を下ろしていた。褪せた作業着に包まれた体は細く、顔には戦の影を刻んだような深い皺が走っている。舞が足を進めると、男は気づき、ゆっくりと視線を上げた。
「……あんた、どちらさんかな」
声はかすれていたが、奥に不思議な温かみがあった。舞は胸に抱えた封筒を握りしめ、喉を潤すように唾を飲み込んだ。
「……あの、突然すみません。わたし……この手紙を頼りに、ここまで来ました」
手紙を見た男の眉が、わずかに動く。舞は封筒を差し出しながら、言葉を継いだ。
「これを書かれたのは――高志さんと一緒に戦った、あなたで間違いないでしょうか」
しばしの沈黙。風が山裾を抜け、縁側に干された洗濯物を揺らした。
男は震える指で封筒を受け取り、目を伏せる。
「……ああ……確かに、俺だ。高志とは、同じ部隊で……あんたは?」
声が途切れ、肩が小さく上下する。舞は、胸の奥に張り詰めていた糸がふっと緩むのを感じた。やっと、つながることができた――その実感が、目頭を熱くする。
「ありがとうございます。やっと……お会いすることができました。私は、高志の妻で、有馬舞と申します……」
舞の言葉に、男は顔を上げ、疲れの奥にある柔らかな眼差しを向けた。沈黙の中にも確かな出会いの響きが、あたりに満ちていった。
里山村を離れる前、野坂の妻・幸江がふと口を開いた。
「お隣に住んでいた杉本京子さんが、亡くなられた旨のお手紙を出したのは私です。そのお手紙の住所が、ご主人との再会を繋いだのですね……」
舞はその言葉を胸に刻んだ。野坂の証言と幸江の
――思いが、記憶が、誰かの手を介してつながる。
静かに息をつき、舞は里山村を後にした。
夕暮れの光が庭先の落ち葉に揺れながら差し込み、静かに長屋を染めていく。
「あの味……あの日の煮っころがし……」
手紙の一行をそっとなぞる指先が震える。高志とだけ共有していたはずの記憶が、今では他人の口を通して語られていた。胸の奥に、温かさと切なさが同時に広がる。
――私たちだけの思い出が、誰かの心に残っている……
野坂の言葉が何度も頭の中で響く。戦地で高志から伝えられた、ほんの小さな幸福の味。高志は死してなお、その幸せな記憶を人に託していたのだ。
「手紙は、失われた過去の断片……でも、他者を通して甦る記憶でもあるんだ……」
舞はそっと瞳を閉じて呟いた。手紙を握る手の温もりが、高志の存在を胸に届けるように感じられた。思い出の味は、もはや孤独ではない。誰かの心に生き続けている。
舞は、静かに未来への決意を――これからも、味覚を通して言葉を紡ぎ、失われた記憶を誰かに届ける――その使命を、改めて胸に刻んだ。
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