第8話 酔生夢死
桜がいなくなってからの人生は体調のいい日に食べるおかゆみたいなものだった。
投げ出したくなるほどつらいわけでも、新しく恋人をつくるほど元気なわけでもない。
ひとりで受験勉強をして。
ひとりでクリスマスを過ごして。
ひとりで卒業式を終えて。
ひとりで大学に入学して。
ひとりで上京して、就職して。
目覚まし時計に起こされて、ご飯を食べて出社する。
一日中キーボードをカタカタ叩いて定時に帰る。
お風呂に入ってご飯を食べて布団に潜る。
休日は本の世界にどっぷり浸かってまた月曜日が来る。
ただそれだけの繰り返し。
だけどそんな生活もずいぶん前に終わった。
定年退職したあとは高校時代を過ごしたあの町に帰って、命の火が燃え尽きるのを静かに待っている。
日中はコーヒー片手に本を読み、夜になったら星空を見上げて桜との思い出を思い出す、最近そんな生活を過ごしている。
星空を見上げて自分の人生を振り返る。
私の人生で何か成し遂げたことはあっただろうか?
桜と過ごした3ヶ月よりも楽しかったことはあったんだろうか?
なんだかぱっとしない、酔生夢死な人生だった。
「桜、そろそろフォルチュナ彗星が見えるころかな」
当たり前だけど、口からこぼれ落ちたその言葉への返事はなかった。
空中をダブルタップして検索エンジンを起動する。
『フォルチュナ彗星 いつ見える?』
スマホさえ持たなくて良くなるなんて技術も進歩したものだ。最近は死んでしまった人の人格をAIで生成して、それをアンドロイドに入れることで実質的に生き返らせることも出来るらしい。
そんなことができても私は桜で同じことをしようとは思わない。
体温も肌の柔らかさも再現出来るらしいけど、人間の本質は魂だと思う。
「日本では2075年9月25日の未明に見えると思われます」
自動音声が流れ、哲学の世界から引き戻される。
明日、いやもう今日か、日をまたぐのなんてお泊まりしたときぶりだろうな。
それにしても桜と付き合って今日で50年、ずいぶん遠いところまで来てしまった。
遠くの空がぽわっと明るくなる。
「50年ぶりだよ桜、もう一回一緒に見たいって願い事言ってたよね」
返事なんて帰って来るはずもないのに口に出してしまう。
「そんなこと言ってたね。それにしても椿もすっかりおばあちゃんになっちゃったんだね」
私は耳を疑った。
振り向くと、私があげたマフラーを巻いている17歳の桜がいた。
半世紀ぶりに会うことが出来た彼女の姿を目に焼き付けたいのに視界がぼやけてよく見えない。
「泣かないでよ!彼女との感動の再会だよ?」
「桜、私ちゃんと生きてるから!ひとりはさみしいけど約束ちゃんと守ってるからね!」
拭っても拭ってもあふれてくる涙。
「一途だね~他の人と付き合って幸せになってくれても良かったのに」
小悪魔的な笑みで、えへへと笑っている桜の足がキラキラと散っていく。
「どうしても会いたくなったら彗星にお願いしなよ!ってごめんごめん。椿はそういうの信じてなかったよね。とにかくまた会えてうれしかったよ!じゃあね!」
「嫌だ!まだ行かないでよ!私に『好き』を教えてくれたのに無責任なのよ!」
久しぶりに会えたのにこんな一瞬だけなんてひどいよ。
もう一回桜に触れたい、そう思って伸ばした手は空を切った。
遠くの空にはまだ彗星が駆けている。
桜と過ごした時間に比べればほとんど止まっているようなものだ。
「記憶を消してもいいから桜に告白されたあの日の教室に戻してください!記憶がなくても私の魂が桜を絶対に幸せにするから!」
涙をぼろぼろこぼしながら叫んだ私の声は夜空に吸い込まれていく。
次の瞬間、彗星の眩い光に思わず目を閉じてしまう。
目を開けてあの日の教室に戻ったとしても桜のことは絶対忘れない。
◇
「椿ちゃんに『好き』って気持ち教えてあげる、いや感じさせてあげる!だから私と付き合って!」
桜が私の両手を掴んで、見つめている。
間違いない、あの日の教室だ。
桜のことはまだちゃんと覚えているけど、思考が霧に包まれていく感覚がある。
夢でも現実でもいい、全力で思いをぶつけようとして口を開く。
「 」
言葉は出てこなかった。
なにかとても大切なことを言おうとしていたはずなのに。
私、なんで泣いてるんだろう。だけどとても懐かしい気持ちが胸の中には確かにある。
「そんなに私と付き合うの嫌だった?」
泣いていることがバレないように下を向いていた私の顔を犬飼さんがのぞき込んでくる。
『好き』を教えてくれたあなた 小野飛鳥 @AsukaOno1029
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