クロネコ配達日記

タカ丸

1サイズ

薄暗い意識の中で、耳の奥にざらついた音が響いていた。車輪が石畳を擦るような、しかし現実感のない音。

気づけば私は立っていた。地面は土、空は広がる群青、見渡す限りの森。


「……え?」

声が掠れる。喉の奥でいつもの私の低めの声が鳴ったはずなのに、耳に届いたのは妙に軽やかで幼い声だった。


足元に水音。ふらふらと歩いて小川を覗き込む。

そこに映ったのは、見知らぬ小さな身体。


緑のニット帽から黒い猫耳がちょこんと突き出している。長い黒髪は外にはね、後ろ髪の先端は黒から藍、さらに緑、最後は黄色へと鮮やかにグラデーションしている。

ジャケットを軽く着崩し、結んだTシャツから臍が覗いていた。ハーフパンツにスニーカー。身長はどう見ても140cm程度。

そして尻からは二股に分かれたしっぽ。片方の先には小さな鈴がちりんと揺れていた。


「……猫山、クロ?」

思わず呟く。鏡に映るのは、私が配信で使っている“配達系猫又Vライバー・猫山クロ”の姿そのものだった。


息が詰まる。胸がぎゅっと締め付けられる。

まさか、自分のVのキャラに転生してしまったのか。


頭の中に声が響いた。

――スキル【宅配】を獲得しました。


「……いや、宅配て」

反射的に突っ込む。

剣も魔法もなく、なんの役に立つんだそんなスキル。


しかし足元の草むらに散らばる小石や枝を見て、ふと意識を集中すると、目の前に半透明のウィンドウが現れた。

【届け先:指定なし】

【配送可能物:小石×3、木の枝×1】


「……え、マジで? 配達できんのこれ……?」


何のために存在しているのかも分からないスキル。

けれど、ここはどうやらゲームやファンタジーのような異世界。

最弱の能力だとしても、頼れるのは“私”の手の中にあるこの【宅配】だけだった。


「……とりあえず、水辺沿いに歩くか」

小さな身体でよろよろと歩き出す。

猫耳がピクリと揺れ、二股の尻尾の鈴がちりんと鳴った。

その音が、自分が現実から遠く離れた世界に放り込まれた証のように響いていた。


「……っていうか、声も変わってない?」


自分でも驚く。小川の水面に映る猫山クロの顔を覗き込みながら、また小さく声を出してみる。


「……う、うわ……」


耳に届くのは、普段の低めで疲れ気味の私の声ではなく、どこか柔らかく、ふんわりと女の子っぽい声だった。男である私の意識のままなのに、外見が引っ張ったせいなのか、声だけが体に追いついていないような妙な感覚。


手を下ろす。確認するように股間に手を当てる。よく見ると、確かに男の子としての存在はある。生々しくて、変化がなかったことに少し安心する。


「……まぁ、んん〜…何とかなるか」


私はそう呟き、気を取り直して歩き始めた。二股のしっぽが左右に揺れ、鈴が小さくちりんと鳴る。長い黒髪が風になびき、グラデーションが光を受けて色を変える。普段なら配信で見せる表情や仕草だが、今の私は、現実世界の意識を持ったまま、異世界の小さな身体で世界を歩いている。


足元はまだ柔らかい土と草。見渡しても街の影はない。森が続き、小川のせせらぎが頼りになる唯一の音だ。足を進めるたびに、ハーフパンツの裾やTシャツがひらひらと揺れる感触が、現実にはない違和感を与えた。


「……まず、どこに行けばいいんだろうな」


つぶやく声に、またも女の子っぽさが混ざる。普段のようにサクッと挨拶もできず、口下手がより際立つ。足取りは遅く、森の中の道はわかりにくい。地図も、案内もない。あるのは私の意識と、得体の知れないスキル【宅配】だけだ。


小川沿いに歩くと、水面が揺れて顔が映る。時折、鳥や昆虫が飛び交う。自然の匂いが鼻をくすぐり、普段の配信の賑やかさとはまるで違う世界にいることを思い知らされる。


「……街、見つかるかな」


背中の二股しっぽが小さく揺れ、鈴が軽く鳴る。小さな身体で歩きながらも、頭の中は現実の生活と、Vライバーとしての生活でぐちゃぐちゃになっていた。


歩き続ける私の目には、まだ街の気配はない。けれど、遠くの森の端にわずかな光が差し込む場所が見えた。小さな希望のように感じ、私の足は自然とその方向へ向かっていた。


「……まずは、あそこまで行ってみるか」


その一歩一歩が、異世界での新しい生活の始まりだった。


森を抜け、ようやく地面が平坦になった。

足元の草が薄くなり、土の色が濃くなる。遠くに、わずかに踏み固められた道――街道のようなものが見えた。


「……あ、道……」


小さな声で呟く。足を止め、道の先を見つめる。人が通る気配はまだない。けれど、ここは人間の暮らす場所に近づいているらしい。


「……さて、どっちに行くか……」


左に行くか、右に行くか。どちらも未知だ。地図もない、案内もない、頼れるのは自分の勘だけ。

迷う私の手は自然と耳元の猫耳を撫でる。二股のしっぽも小さく揺れる。


「……適当に……こっち、かな」


右側の道に目をやり、深呼吸して歩き出す。小さな体に風が当たり、Tシャツの裾がひらひら揺れる。スニーカーが土を踏む音だけが、静かな森を切り裂く。


歩きながら、ふと考え込む。


「……この世界に……私みたいな種族、いるのかな……?」


この世界に獣人はいるのだろうか…。

もし村や街で出会った人が、私を見てどう思うだろうか――。

普通に、話しかけてもらえるだろうか。いや、たぶん怖がられるかもしれない。

下手したら物珍しさで……。


「……いや、そんなこと考えるのはやめとこ……」


現実の世界では、面倒事は避けてきた。メンタルよわよわで、人付き合いも苦手で、声を出すのもためらうほど。そんな自分が、なんでいきなり異世界に転生なんて……。


小川沿いの道と違い、街道は踏み固められている。歩きやすいはずなのに、心臓の奥がちくちく痛む。恐怖と不安と、少しの好奇心が入り混じって、足取りは緩慢になる。


「……まぁ、歩くしかないか」


前に進むしかない。立ち止まっても、道は変わらない。

森の香り、土の匂い、遠くの鳥の鳴き声――異世界の空気に胸がざわつく。


「……私、ちゃんとやれるのかな……」


問いかける声は、やはり柔らかく、女の子っぽい響きになってしまう。

それでも、街道を歩く足は止まらない。二股のしっぽが揺れ、鈴が小さく鳴り、私の小さな旅は静かに、でも確実に始まっていた。

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