すらんぷ温泉 ~湯煙 I_dea‐r I~
Kei
すらんぷ温泉 ~湯煙 I_dea‐r I~
書けなくなってしまった。もう一ヶ月、一文字も書いていない。所謂スランプだ。小説の構想が全く浮かばない。
この状況を打開すべく温泉に行くことにした。昭和の文豪は馴染みの旅館に、しかも「離れ」に籠ることでアイデアをひねり出すものだ。私もそれに倣おうと考えた。
行く場所は決まっていた。『矢間奥野温泉郷』。訪れたこともなければ思い入れもない。しかし馴染みがある。ここのポスターが壁に貼ってあるのだ。私が貼ったわけではない。この長屋に越してきたときから、すでに貼ってあったのだ。
* * * * *
山中の温泉郷は全体が湯煙に包まれていた。谷沿いにある宿場は本通りの両側にホテル、旅館、土産物の商店街が並んでいる…はずだが、歩いてみると湯煙で一寸先も見えなかった。
『
私は目に入った旅館の戸口に立った。
「すみません。私です。いつもの部屋、空いてますかね?」
「あの、お客様、ご予約はいただいておりますか?」
「いえ、初めてです。あの、離れを予約したいんですが。いまから」
「申し訳ありません。離れの方は現在、他の方がお泊りになっておりまして…。本館の客室でしたらいまからでもご用意できますが」
「やむを得ませんね。それで構いません。…ところで、離れに泊まっているのは文豪ですか?」
「! 他のお客様の個人情報はお教えしかねます」
私は女将が見せた一瞬の表情を見逃さなかった。図星を突かれて驚いた反応だ。やはり離れには文豪が泊まっているのだ。昭和の文豪が。
従業員通路を通り、本館に入る。真ん中には中庭があり、それを囲むように渡り廊下。磨かれた板張りが太陽を反射している。ぐるっと回って奥に進むと、赤いフロアカーペットの広間に出た。ロビーのようだ。むこうに旅館の玄関が見える。
どうやら私は裏口から訪ねていったらしい。よく通してくれたものだ。
ひとまず一週間、滞在することにした。
チェックインをしている間、カウンターの奥で女将は色無地の女性と何やら小声で話していた。キー代わりの合い札を受け取ってからは、その女性が対応を引き継いだ。
案内された部屋には襖の上に “苔の間” と書かれた木札が掲げられていた。
「女将、松とか竹は空いていないんですか?」
「申し訳ありません。柿、桐、栗、欅いずれも満室でございまして」
「そうですか …ん?」
この旅館には女将が二人もいるのだろうか? いや、それより、
「女将、欅の次が苔になるのはおかしくないですか?下がりすぎですよ。その間にいくつか部屋があるのではないですか?何か隠しておきたい理由(わけ)でもあるんじゃないですか?」
「カ行の語順でございます」
「そうですか」
「浴室は二十四時間、入っていただけます。お夕食は何時ごろにお持ちいたしましょうか?」
「では、晩御飯は七時半でお願いします」
「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」
二人目の女将が下がり、私はひとりになった。
部屋は特に苔むしてはいなかった。では、なぜ “苔の間” なのだろうか。
典型的な和室だ。踏込はなく、入口の襖を開ければそのまま前室。左には浴室。主室は床の間と畳続きになっている。簡略版シームレス和室は最近の流行りだ。
主室の壁には棚があり、その下に金庫が収まっている。
テレビは薄型だった。こんな山奥にまでデジタル化の波が及んでいることに寂しさを感じる。その横の飾り台には稲が活けてあった。いい稲だ。珍しい。何か意味があるのだろうか。いいいね… いいね? 口コミ高評価の要求だろうか。
縁側はお定まりの広縁で、丸テーブルと椅子が置かれている。全面ガラス窓からの眺めはまずまずだ。谷川から湯煙が立ち上り、その向こう側には深い山が聳えている。
下を覗いてみたが露天風呂の様子はわからなかった。
机の上にはウェルカム和菓子とインスタントお茶が置いてあった。お湯が沸くのを待つ間にテレビを点けた。旅行の楽しみのひとつは、その地方のローカル番組を見ることだろう。
——…当地の観光にはレンタカーがいちばん!ご用命は「湯霧よ今夜は5マイル・リース」まで。オート三輪からハイブリッド車、電気自動車、重機まで多数取り揃えております——
お茶うけの乾燥羊羹を緑茶で飲み下し、温泉に入ることにした。
館内はまるで迷路のようだった。しばらく彷徨ったのち外庭沿いの廊下を歩いていると、小高い竹林の向こう、松に隠れるようにして日本家屋が見えた。おそらく別館、つまり「離れ」だ。きっと立派な石畳の通路で繋がっているに違いない。あそこならアイデアもすぐ湧いてきそうな気がする。
引き返して大浴場に向かった。
浴場は半地階にあった。並んだ入口が二つ、
まだ日が高い時間なのもあってか、湯治客は他にいなかった。
源泉かけ流しで乳性飲料のような湯は疲労、ストレス、冷え性、関節痛、四十肩五十肩、自律神経の乱れ… などなど改善すると説明書きにあった。アイデアの枯渇にも効けばいいのだが。
露天風呂に出て泳いでいると、ガラス仕切りを通して屋内風呂に誰かが入ってきたのが見えた。湯煙で良く見えなかったが、どうも男性のようだ。
再び室内浴場に戻った時には誰もいなかった。
湯上りにマッサージ機に座る。コインで動く木製の年代物だ。
ぼうっと格子模様の天井を見ていると、考えが巡っていった。
他の客を見ていない。離れには誰か… おそらく昭和の文豪が泊っており、苔より高い目線の部屋も満室だと言っていたが、実際に姿を見かけたのは銭湯で見かけた誰かだけだ。それも顔もわからない状態で…
ふわふわした足取りで来た道を逆に辿っていった。中庭を囲む廊下沿いの手摺に蝶がとまっている。黄色い羽と木とのコントラストが暖かい。
「モンキチョウか。久しぶりに見たな」
通りすがった二部式着物の女性が言った。
「それは黄色いモンシロチョウでございます」
「そうですか。女将、詳しいんですね」
三人目の女将は会釈して、どこかに歩いて行った。
中庭を眺める。山を模した隆起とそれを覆う苔の草原。石と倒木を組み合わせた原始世界、そして吹き抜けの宇宙。
苔の間に帰り、畳に座り込む。テレビをつけっぱなしにしていた。そして机の上には財布と時計を置きっぱなしにしていた。金庫に閉まっておいた方がいいだろう。
鉛の扉を開くと奥に何かがあった。
取り出してみると、原稿用紙の束だった。紙が黄ばんでいる。どうやら古いもののようだ。過去に泊まった誰かの忘れ物だろうか。
何か書かれている。私は読み始めた。
❝書けなくなってしまった。もう一ヶ月、一文字も書いていない。所謂スランプだ。小説の構想が全く浮かばない。
この状況を打開すべく温泉に行くことにした。昭和の文豪は馴染みの旅館に、しかも「離れ」に籠ることでアイデアをひねり出すものだ。私もそれに倣おうと考えた。
行く場所は決まっていた。『矢間奥野温泉郷』。訪れたこともなければ思い入れもない。しかし馴染みがある。ここのポスターが壁に貼ってあるのだ。私が貼ったわけではない。この長屋に越してきたときから、すでに貼ってあったのだ。❞
!?
まるで私の心情をそのまま書き記したようだ。これは一体、どういうことなのか。
< コン コン
その時、襖をノックする音が聞こえてきた。私は原稿用紙の束を金庫になおして鍵を引き抜いた。
「はい、どなた?」
「わたくしです。お夕食をお持ちいたしました」
「ああ、そうですか」
時計を見ると七時半になっていた。
「どうぞ」
明るい柿色の茶衣着を着た女性が襖を開けた。
「女将、わざわざありがとうございます」
「お待たせしました」
四人目の女将は前室から主室にお膳を差し出した。その時、ちらっと金庫の方に目を遣った。そして微かに微笑んだように見えた。
「随分と豪華な夕食ですね」
「この辺りの名物をふんだんに使っております」
キャンベルのスープ、生野菜のアイス煮込み、ジビエ(熊・ワニ・〇△)、みかん納豆和え、秋刀魚カレー、フグのマカロン、カリフォルニア巻き、ピザ、ドリアン…
「これは何の肉ですか?」
「この辺りの肉でございます」
「そうですか。いただきます」
国内外の食材、缶詰、レトルト、冷凍食品が机を埋めつくした。どれも非常に美味しかった。蓋つきカップに入った地酒はとても強く、頭を朦朧とさせる。
食事のあと、再び金庫を開けて原稿用紙を取り出す。
❝山中の温泉郷は全体が湯煙に包まれていた。谷沿いにある宿場は本通りの両側にホテル、旅館、土産物の商店街が並んでいる…はずだが、歩いてみると湯煙で一寸先も見えなかった。❞
私の行動そのものだ。
どうして、一体誰によって、こんなことが書かれているのだろうか。
原稿用紙をめくり、先を読み進める。
❝『出涸弛乃湯』
私は目に入った旅館の戸口に立った。
「すみません。私です。いつもの部屋、空いてますかね?」
「あの、お客様、ご予約はいただいておりますか?」
「いえ、初めてです。あの、離れを予約したいんですが。いまから」
「申し訳ありません。離れの方は現在、他の方がお泊りになっておりまして…。本館の客室でしたらいまからでもご用意できますが」
「やむを得ませんね。それで構いません。…ところで、離れに泊まっているのは文豪ですか?」
「! 他のお客様の個人情報はお教えしかねます」
私は女将が見せた一瞬の表情を見逃さなかった。図星を突かれて驚いた反応だ。やはり離れには文豪が泊まっているのだ。昭和の文豪が。
従業員通路を通り、本館に入る。真ん中には中庭があり、それを囲むように渡り廊下。明るい色の板張りが太陽を白く反射している。ぐるっと回って奥に進むと、赤いフロアカーペットの広間に出た。ロビーのようだ。むこうに旅館の玄関が見える。❞
私の発した言葉まで一字一句、完全に記されている。これはホラーだ。
私は震える手で紙をめくろうとした。その時、
「失礼いたします」
「は はい! ちょっと待ってください」
急いで原稿用紙を座布団の下に敷いた。襖がスーッと開いて女将が入ってきた。
「お布団を敷きに参りました」
「あ、はい。お願いします」
タンスからぶ厚い敷布団と掛け布団を抱え上げてはドスンと降ろし、手際よくバタン、バタン!と整えていく。さすがに男性だ。力がある。
「ごゆっくりお休みくださいませ」
「ありがとうございます」
女将が下がって行ったあと、三度、原稿用紙に取りかかった。
全ての記述が私の内面を含めた時系列だ。いつの間にか肌が泡立っていた。
❝女将が下がって行ったあと、三度、原稿用紙に取りかかった。
全ての記述が私の内面を含めた時系列だ。いつの間にか肌が泡立っていた。❞
そしてこれは、まさに「今」のことだ。
原稿用紙はまだ続いている。ということはつまり、この先に書かれていることは、私が体験する未来の様子ということになる。
冷や汗が出てきた。読むのが怖い。
—「今週もやってまいりました。『クイズ!ゲット・ザ・チャンス』の時間です!運を掴んで都会に出よう!とか言っちゃって…」—
つけっぱなしのテレビでは、ローカル・バラエティ番組を放送している。
チャンス? そうだ。これはチャンスなのかもしれない。自分がスランプに陥り、訪れた温泉郷で体験した不思議な出来事。これをそのまま書いたらいいじゃないか。この先を読んで… 体験して、その先どうなるのかわからないが、それをそのまま書いたらいい。
私は続きを読み始めた。
❝そしてこれは、まさに「今」のことだ。
原稿用紙はまだ続いている。ということはつまり、この先に書かれていることは、私が体験する未来の様子ということになる。
冷や汗が出てきた。読むのが怖い。
—「今週もやってまいりました。『クイズ!ゲット・ザ・チャンス』の時間です!運を掴んで都会に出よう!とか言っちゃって…」—
つけっぱなしのテレビでは、ローカル・バラエティ番組を放送している。
チャンス? そうだ。これはチャンスなのかもしれない。自分がスランプに陥り、訪れた温泉郷で体験した不思議な出来事。これをそのまま書いたらいいじゃないか。この先を読んで… 体験して、その先どうなるのかわからないが、それをそのまま書いたらいい。
私は続きを読み始めた。❞
* * * * *
「ここから思いつかん」
「先生、この流れ、詰んでますよ」
「わかってるよ! それでもなんとか完成させないと…解放されないじゃないか」
「もうこれで二週間も連泊されていますが、宿泊料金のお支払いはどうなりますか」
「出版社に請求してくれ!ここに閉じ込めたのはあいつらなんだから!」
「わかりました。請求書を送付しておきます」
女将は下がっていった。
行き、詰まり、すぎて、句読点、だけで、小説を、書こう、か、と、思い、始めた。
出涸らしのような頭をこれ以上絞っても、夢オチしか思いつかないような気がする。
気分を変えるため、温泉に入ることにした。
離れを離れて本館に歩いて行った。
他の客の姿は見えない。中庭をまわり、大浴場に向かう。
大浴場は半地階にあった。並んだ入口が二つ、磐治往の湯と潟癒泥の湯。半日ごとに男女入れ替わりになる仕組みだ。今の時間、男性は磐治往の湯だった。
まだ太陽が高い時間なのもあってか、湯治客は他にいなかった。
にごり酒のような湯は疲労、ストレス、冷え性、関節痛、四十型五十肩、自律神経の乱れ…等々、数多くの不調を改善するらしい。源泉かけ流しは効能を得やすい。発想の枯渇にも効けばよいのだが。
黒いタイルの床。灰色の壁にはシャワーが取り付けられ、下にはタライが並んでいる。持参の糸瓜たわしで体をゴシゴシ擦る。スッキリしたら、タオルを巻いて湯に体を沈めた。
天井まで立ち上った湯煙が水滴になって落ちてくる。
湯面に広がる波紋を見つめていると、意識もユラユラするように感じる。
(ウーム… ここは…)
?
露天風呂の方に誰かいるみたいだ。男性のようだが、ガラスが曇ってよく見えない。
…
年齢のせいか、昔よりも湯にのぼせやすくなってきていた。
湯だってしまう前に上がることにした。
脱衣所にガラス扉の冷蔵庫が置かれていた。コインを入れて、カップ地酒を取り出して飲んだ。すぐに酔いが回ってきた。
ふわふわした足取りで廊下を歩く。
中庭を囲む手摺に蝶がとまっていた。波のような木目に白い羽の対比が美しい。
「モンシロチョウか。久しぶりに見たな」
「あれは白いモンキチョウでございます」 通りすがりの中居が言った。
「む、そうなのか」
中居はどこかに歩いて行った。
離れに向かって歩いていたつもりだったが、気が付いたら本館の客室エリアにいた。
< 〇#▽、…!, …? !! ~♪
テレビの音が聞こえる。
どうやら「苔の間」に客が入っているらしい。露天風呂にいた人だろうか。他に誰とも出会っていないからか、何となくそう考えた。
離れに戻って酔いを醒ましていたら、襖をノックする音が聞こえてきた。
スーッと開いて女将が入ってきた。
「温泉はどうでしたか? 先生」
「ウン、気持ち良かったよ。 …ところで女将、夕食はいつ頃かな?」
「あら先生、いつも『七時半で』とご自分で仰ってるじゃないですか。宿泊手続きの時に… お忘れになったんですか?」
「そうだったかな… じゃあ七時半で頼むよ。 …そういえば女将、私が最初にここを訪れたのはいつだったかな」
「二週間前ですが」
「そうじゃなくて… この旅館を最初に利用した時のことだよ」
「三十年前の今日の二週間前ですね」
「そうだったか。それにしても、よく覚えてるもんだね」
「その時と今回だけじゃないですか。先生がお泊りになったのは」
「あれ、そうだったかな」
「最初に来られた時は随分とおかしな方だと思いましたよ。離れに泊っているのは文豪か?とかなんとか聞いていらして…」
「ふぅん… そうだったかな」
「お泊りになられた翌日、離れに飛び込んでいかれて… 全く困りました」
「うーん、そうだったかな… それで、どうなったんだっけ」
「離れのお客様と話し込まれていたようですが」
「そのあとは?」
「 『インスピレーションが湧いてきた!これで書ける!』と叫ばれながら飛び出していかれました」
「不思議なことに、その時のことを覚えてないんだ… 私は誰と話したんだろう。その時、離れには誰が泊っていたんだい?」
「他のお客様の個人情報はお教えしかねます」
「固いなあ… しかし、なんだか面白い題材だな、これは」
~♪ ~♫
離れの庭で松の枝にとまった鳥が鳴いている。
「ん、なんだか書けそうな気がしてきたぞ」
「それはそれは。ではお邪魔にならないよう、失礼いたします」
* * * * *
「女将さん、上手くいったんですか?」
「あら、中居のエッちゃん… ええ、なんとかね。 といっても、先生が忘れていった原稿用紙を金庫に入れておいただけだから。あとは先生が忘れていく原稿用紙をお預かりするだけよ」
「これで何回目ですか」
「さあねぇ… エッちゃん、あなた、いつから此処に勤めてる?」
「それがわからないんです。ずっといるような気もしますし、昨日来たばっかりのような気もしますし…」
「私もなのよ。不思議ね」
中庭にいつの間にか立ち込めた湯煙が、陽光に揺らめいている。
外では温泉郷の全体が白く包まれ、消えていった。
すらんぷ温泉 ~湯煙 I_dea‐r I~ Kei @Keitlyn
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