Life♡HACKED//DIETER
りどかいん
From DIETER
好き勝手に書き散らかしてきた末に、二人のドラマはこうなった、という総括的まとめです。
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シャツの襟を少し立てて、カフェの片隅で紫煙をくゆらせる。なんとなく背を丸めて。
さして美味くもない微妙な甘さのアイスコーヒーは、持て余している。
何処に行って何をしよう、とも思いつかず、まだ強い日差しの下に出ていく理由もなく。
銃声はない。爆音も聴こえない。
このあたりは、人の気配だけが行き交っている。
軽車両の走行音が時々行き過ぎる。無意識に車両を特定しようと神経が働いてしまう。
(……まだ抜けねえな)
通りの屋台から、スパイシーな香りが漂ってくる。
どんな改造を施しているんだか、彼らの屋台のコンロは馬鹿みたいに火力が強い。
あれはそのうち離陸するんじゃないか、とすら思う。
だが、その上の鉄板で焼かれる何かは割と美味かった。
煙草を灰皿に押しつけながら、ふと、目を細める。
(悪くねえ匂いだ)
一瞬、戦場では決してあり得なかった「ただの昼下がり」に、ようやく気付いた。
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カーゴパンツのポケットには、いつも文庫が入っている。
大体なにか一冊は持っていた。活字。言葉。詩。文章──誰かが綴った文字列。
眼が文字の上を通る。思考が整理される。そのプロセスが好きだった。
理路整然とした哲学書であったり、情緒にあふれた古典的な詩集であったり。
他人からすりゃ「ガラじゃない」と思われるだろう。
そもそもは「読め」とジジイに言われたのが始まりだ。
半分も理解できないまま、ただ文字を追っていた子供の頃。
それでもいつの間にか、自分の一部みたいになった。
ジジイが逝ってからは、なおさらだ。あれが、随分、自分の支えになっていたんだと気づいた。
ジジイは言っていた。
「中身のない男になるな。知性なき力は、ただの獣だ」
その言葉は、耳に残るだけじゃなく、骨の奥に沈んだ。
俺はあの頃から、力を使う場に身を置いてきた。だが、力そのものが目的になったことはない。
そうならずに済んだのは、きっとジジイのおかげだ。
しかし、あんなフィジカルの権化みたいなジジイから出た言葉とは思えねえ。
筋肉と武勇の塊みたいな男だった。俺にとっては、戦場そのものを体現したような存在。
だからこそ、その口から「知性なき力は獣だ」なんて言葉が出るとは思わなかった。
けど──だから効いたんだろう。
あれがただの学者の説教だったら、俺は聞き流してたかもしれない。
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ジジイは、士官学校への推薦状まで用意してくれた。
俺が進むなら、その先はきっと用意されていたんだろう。
けど、俺は行かなかった。
ジジイは反論しなかった。
それでよかったんだと思う。
だからって、楽にフラついて生きていく気はなかった。
俺はただ、どの国にも縛られず、どんな思想にも染まらず、契約の任務を選んだ。
ドイツ人か? 日本人か?
どっちでもあるが、どっちでもねえ。
だからこそ「契約兵」という立ち位置が一番しっくりきた。
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両親の記憶はない。まあ、いたんだろう、俺がいるんだから。
最古の記憶がドイツなのは確かだ。だからって理由にはならないが、俺は祖父に似ている。骨格も背の高さも、眼の色まで。ジジイの遺伝子はやけに強かった。
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PMCのオペレーターとして幾つも任務をこなした。
そのうち「Zug V」──ドイツ語分隊に所属した。変な分隊だった。
クセの強い奴らばかりで……人のことは言えねぇが。難しい任務が多かった。撤退戦、残敵掃討。成功率は高かったが、死傷率も同じくらい高かった。
過去の話はしなかった。みんな何か抱えていたのは分かる。だが、移動中や酒場では馬鹿みたいな話ばかりしていた。ケンカもした。任務は必死だった。分隊のメンツはしょっちゅう入れ替わった。頼りになりそうな奴が来たと思えば、信じられないミスで呆気なく死ぬ。逆に、細っこいのが要領よく生き延びたりもした。
俺はいつも隊で一番背がデカかった。同時に、最年少でもあった。歳なんてどうでもいい世界だが、任務外ではイジられた。二十代は、戦地に全部持っていかれた。
……冴えなかったよ、任務以外では。
女絡みの思い出なんて、ろくなもんじゃない。忘れたいことの方が多い。
それでも、女が嫌いなわけじゃなかったから……余計に困った。若かったんだ。
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何度か、「あ、これで終わったな」と思ったことがある。
そういう瞬間は、不思議と頭の中が静かになる。呆気なくて、軽い。痛みも苦しみも、あのときはほとんど感じない。だから余計に、冷静に「ああ、終わりだ」と思うんだ。
で、次に目を覚ますと、それが本当の地獄だ。
身体は痛ぇ、息は苦しい、腹は減る。周りは医療の匂いと狭い病室の壁。俺の語彙はいつもそこしか出てこなくなる――Scheiße。何度もそう呟いた。狭いベッドで、息をするたびに何かを呪った。
ジジイの血なのか、俺は丈夫に生まれたらしい。死ななかった。生き延びた。
生き残ったことの重さだけが、あとでじわじわと残るんだ。
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三十歳になる目前。
契約更新のタイミング。
書類にサインしようとした瞬間、ふと頭をよぎった。
(……いや、もういいか)
そう思ったら、もう止められなかった。
そのまま契約を終了した。
バックパックひとつに、少ない私物を詰め込んで。
本当に「フッ」とした呼吸のように、俺は戦場を後にした。
今でも上手く言語化出来ない感覚だった。
だが、だからこそ、何にも干渉されない俺自身の「意思」だったんだと、思う。
ドイツに帰ろうか──そう思った瞬間、頭の中に声が響いた。
「ディーター!仕事だ!」
きっと、すぐに誰かがそう言うだろう。
そうなればまた銃を担いで、どこかの空港から戦地へ向かうことになる。
……勘弁しろ。
俺は一度きりの「フッ」とした意思を、そんな風に押し流されたくなかった。
だから俺は、日本に行くことにした。
自分のルーツの一部。けれども何の記憶もない国へ。
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都市の中心部――そこだけが取り繕ったように「未来都市」を名乗っている。
一歩外へ出れば、景色はすぐに剥がれる。新時代への脱皮を試みて、途中で諦めたかのような中途半端さ。古びた街並みに貼り付いた最新式の部品は、むしろ時代遅れの証拠にしか見えない。
未来を抱え込んだふりをしながら、過去を引きずり続ける街。矛盾を誤魔化しつつ、今日もどうにか動いている。
だが、いかにも「未来です」といったあの中央部に、憧れといった感情はまったく湧かなかった。
それが日本に来た時の、この都市の印象だった。
混沌と喧噪、鈍色の空。
あらゆる「形状」のモノが動いている。
有機、無機、半機械……。
戦場とも違う。だが、確かにここにも「せめぎあい」がある。
不思議と俺は、この混沌を嫌悪しなかった。
むしろ──俺には似合っているのではないか。
そんな感覚が、胸の奥でわずかに動いた。
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日本に来てまず痛感したのは、そのギャップだった。
思った以上に、俺の日本語は危うかった。
そしてこの文化圏ではミドルネームが消える。
俺は「黒川 誠」として生きることになる。
名は完全に日本人だ。
だが、内実はどうだ。
ドイツ育ち。祖父に似た鋼灰色の瞳。ドイツ語分隊でも一番背が高かった体格。
常にドイツ語で思考し、会話し、英語で命令を受けてきた二十代。
日本語は、祖母から聞いた言葉とリズムが、辛うじて残っている程度。
……「黒川 誠」らしい要素が、俺には何ひとつない。
アイデンティティが噛み合っていなかった。
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日本にこのまま居続けるか。
定住するとなれば、どうやって食っていくか。
そんな事を考えながら、俺は一年弱を過ごした。
蓄えを切り崩し、ときどき単発の警護や護衛の仕事を受けた。
依頼主や雇い主は、俺の名を見るたびに顔をしかめた。
「ミスター……クロカワ?」
そう何度も確かめられた。
名は完全に日本人。
だが、日本人に見られることは滅多になかった。
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ある日、唐突に迎えが来る。
「黒川 誠さんですね、新任配属です」
「……は?俺は申請なんざしてねぇぞ」
「AIは“返信なし=了承”と判断しますので。メール、ご確認されてますか?」
──脳裏に、スパムだと思って放置した通知メールの山が浮かんだ。あの中にスカウト云々という文字列が、確かあった。
「……いや、スカウトじゃねえ…罠だ」
だが。
どっちにしろ食っていかなきゃならない。仕事は必要だ。しょうがねぇな俺に向いてるっていうなら、やってみるさ。
そうして俺はニコイチとか呼ばれるCID-C9南監視署に向かった。
黒川 誠さんという人が来た日のことは忘れられない。
まず思ったのは──背、高っ! スーツの上からでも分かる、基本設計からして違う骨格。長い手足に、彫りの深い顔立ち。ひとつひとつのパーツがくっきりしていて、何より瞳がグレー。
(この人が、黒川 誠さん? どの辺が!?)
名前とイメージの乖離に、思わず戸惑った。
背筋をピンと伸ばして立っているだけなのに、もし今ここで突然なにかが起こっても、この人は即座に反応して冷静に対応するだろう──そんな雰囲気をまとっていた。
そして、大柄な身体を驚くほど静かに動かす。無駄がない。隙もない。ここには敵なんていないのに、常に状況を測っている眼。
一体どこから来た人なんだろう。
だがその冷静な眼は、同時にどこか、迷子のようにも見えた。孤高? それとも孤独?
どうしてだろう、そのことが強く心に残った。
初めて言葉を交わした時も、ドキッとした。
ほんの短いやりとりだった。
「これで問題ないか」
低い声。でもはっきりと聴き取れる響きを持っていた。鼓膜と同時に骨にも伝わってくるような感覚に、思わず息をのんだ。
「あっ、はい、大丈夫です」
私は気圧されて、少しどもってしまった。広報・渉外としてこのニコイチで五年も勤めてきたのに、情けなかった。
間近で見たグレーの瞳は、不思議な色だった。冷たいようで、静かな湖畔のようでもある。
──どこから来た人なんだろう。
──氏名:黒川 誠(Makoto Dieter Kurokawa)
──言語:日・英・独
──経歴(限定表示)
・特定PMCへの所属歴
・市街地戦・撤退支援・要人護衛など、主に戦闘支援任務に従事
資料で分かるのは、それだけ。
けれど、そこに並ぶ短い行だけで十分だった。
あっ、本物なんだ。そう思った。
でも、だんだんと見えてきた。
現場判断の速さ。指示の的確さ。
無口というより、余計な言葉を挟まないだけ。だからこそ、一言に重みがあった。
隊の車両を自分の目で細かく点検していたり、誰も気にしないような洗車を黙々としていたり。
誰よりも早く部署に来て、淡々と準備を整えている姿。
日本語が少し堅いせいで、必要最低限に聞こえる会話。
でも、それは不器用さではなく、むしろ無駄を削ぎ落とした的確さだった。
曖昧な言葉を使わない。
それが、この人の有能さを何より物語っていた。
ああ、この人は誠実だ。
黙って、よく見ている。
何かあっても、声を荒げない。
冷静に、淡々と、最も必要なことだけを告げる。
──それがわかった時、私はようやく「怖い」という感覚から解放された。
黒川誠は、ただ真摯に任務を遂行しているだけの人だった。
休憩中、屋上で彼を見かけた。
今どき珍しく、タバコを吸っている。
紫煙をくゆらせる姿は、映画のワンシーンみたいに絵になっていた。
袖をまくった腕に、瘢痕が見えた。
ふいに息が詰まる。
──ああ、この人は本当に、戦場にいたんだ。
改めてそう実感した。きっとたくさんの傷を負って、それでもこうして今、ここで真摯に立っている。
あまり、誰かと雑談しているところは見ない。
もう、みんな彼を「怖い」とは思っていない。
でも──声をかけようとすると、言葉が出てこないのだろう。
話題が思い浮かばない。
だから結果として、彼はひとりで静かに佇んでいる。
それでも、いざという時の指示は的確で、現場での信頼は厚い。
だから余計に、日常の場面での沈黙が際立って見えるのかもしれない。
……どんな人なんだろう。
気がつけば、黒川さんがとても気になるようになっていた。
そんなある日。
私の心に雷が落ちるような情報が耳に入った。
同僚が何かのデータを整理していて、それに気づき、何気なく口にしたのだ。
「えっ、黒川さんって、まだ30なんだ! 若い……もっと上かと思ってた」
「……は? え? 黒川さんって……あの、うちの?」
「うちに黒川さんて一人でしょ。それにしても、そんな若かったなんて驚いたぁ」
「さ、30って……」
気づけば私は声を失っていた。
思考が固まって、ただ数字が頭の中で響いている。
「紗貴ちゃん?」
同僚が怪訝そうにこちらを見たけれど、返事ができなかった。
(……30? ってことは……私より、5歳……下……?)
想像だにしなかった。
あの佇まい、あの眼、あの声が──
(歳下!?)
過去の私が撃ってくる。
(歳下とかないわー!)
そう、口癖みたいに言ってた。
(でもほら、もう三十路だもん。誤差よね……誤差……)
(……あああでも待って、30って、つい最近まで二十代ってことよね?)
その日の仕事は、本当に……捗らなかった。
資料の文字は頭に入らず、打ったメールは誤字だらけ。
モニターに映るのは文面じゃなく、グレーの瞳と低い声。
──「年上は、ありですか?」
言葉に出したらどうなるだろう。
そんな妄想まで浮かんできて、私は頭を抱えた。
結局、余計に黒川さんのことを気にしてしまうようになった。
仕事の合間にふと視線を上げれば、あの立ち姿がちらつく。資料よりも先に浮かぶのは、灰色の瞳の色、低く響く声の輪郭だ。あれほど近寄りがたいと思っていた人が、いつのまにか私の頭の中で大きくなっている。
ああ、なんだか声が聴きたい──そんなことを、いつの間にか考えている。
その日、少し遅くなった。
帰る前にカフェ・オ・レを飲みたくて休憩室に行くと──黒川さんが、一人でいた。
「あっ」
缶コーヒーを手に、タブレットで何かを見ている。ふと目が合う。
「お疲れ様です」
やっと声を出す。自分でも堅苦しいとわかる挨拶。
「ああ。遅いんだな、今日は」
「はい。一息入れてから帰ろうと思って……」
低く、よく響く声。黒川さんの声。
自然に、自然にと思えば思うほど、ぎこちない。私は向かいに腰を下ろした。カフェ・オ・レの味が、よくわからない。
休憩室に、二人きり。心拍数があがる三十路女。
黒川さんはタブレットを指先でタップし、また一口、缶コーヒーを口に運ぶ。所作がいちいち静かで、落ち着いている。伏せ目がちな横顔に、視線が釘付けになってしまう。
その視線に気づいたのか、彼が顔を上げた。
「ん?」
何か?という表情。グレーの瞳に射抜かれる。
その瞬間、私は──。
「あの、歳上って……アリですか?」
……死にそうだった。
黒川さんが「?」という顔をして、一拍置いてから、落ち着いた声で言った。
「……何の話かよくわからんが……年齢など、大した判断基準にはならないと思うが」
……なにその返し。倒れそうだった。
過去の私が、今の私が──何かに塗り替えられていく。
「どうした?」
黒川さんが、心配そうにこちらを覗き込む。きっと私の顔色が本当におかしかったんだろう。
「どうか、しそう」
「……は?」
──あの日のことも、忘れられない。
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あの子、広報の島村紗貴。
何か言いたげにしていたな。
ああいうときは、大体ちょっとした愚痴か、
日常の些細な疑問をこぼす前兆だ──と認識していた。
が、出てきた言葉は少々、意外だった。
「年上って……アリですか?」
“年上”。
“アリ”。
対象は“俺”。
……なんの話だ?
いくつかの可能性を瞬時にシミュレーションする。
・上司に対する愚痴の前置きか?
・人間関係の相談か?
・社会的な年齢差による組織運営についての疑問か?
しかし、前後の文脈と表情、言葉の間合いが合わない。
不明瞭なままだったので、素直に答えるしかなかった。
「年齢など、大した判断基準にならないと思うが?」
それが最も論理的で、誰に対しても等しく適用可能な答えだった。
……が。
なぜか、その返答に続くはずの雑談は起こらなかった。
しばらく、沈黙が流れた。
(……年上がなんとか。なんの話だったんだろうか)
……まあ、いいか。
彼女が困っていれば、その時はまた応じればいい。
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それから。
年齢という話の意味は、最後まで腑に落ちなかった。
ただ、彼女の妙に落ち着かない態度の理由が、うっすらわかった気がした。
(……好意を、持たれているのか?)
背負ってる訳じゃない。だが、子供でもない。人の態度から判断できることはある。
(しかし──それは駄目だろ)
俺も生身の男だ。異性から好意を向けられて、不快なはずがない。
だけど、あの子は。
普通に育ってきて、真っ当に生きてきた子だ。
俺なんかを気にしたら、駄目だろう。
……そう、違う。
あの子は、俺が触れちゃいけない女だ。
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年齢なんて、判断基準として不適格。
黒川さんはそう言った。
私なんかより、ずっと大人だと思った。
その考え方に触れた瞬間、今までの自分が丸ごと打ちのめされてしまった気がした。
そうなんだ。
経歴から伺えることは、私にはあまりない。
でも──戦場において、年齢なんてただのパラメーターのひとつで、しかも重要でもない。
彼はそこで生きてきた。
ああ、何もかも違う。
私の想像なんか、到底追いつけない日々を生き抜いて、そして今、ここにいる。
ベッドの中、私は眠れなかった。
戦場。あの腕の瘢痕。隙のない佇まい。冷静な眼差し。
ただ粛々と、与えられた任務をこなしていく彼の姿が、頭から離れなかった。
──黒川さん。
でも、どうしようもなく惹かれてしまう。
何に?
身体に──きっと心にも、たくさんの傷を抱えているのに。
それでも強く、頼もしく立っている、その姿に。
寡黙で、無骨に見えながら。
実際は周りをよく見て、状況を正確に読み、何より「人を守る」ことを当然のように選ぶ人。
あの灰色の瞳の奥に見えるのは、冷たさじゃない。
誠実さだ。
そして、数え切れない傷と、過酷な過去を背負ったまま、なお真っ直ぐ立っている。
孤高さの裏に、確かに孤独を抱えながら。
──あの人に、孤独でいてほしくない。
------
ある夕方。人も少なくなった署の廊下。
私は、思わず立ち止まって彼に声をかけていた。
「黒川さん……」
振り返る灰色の瞳。その視線に射抜かれるような感覚を覚えながらも、私は言葉を続けた。
「あの、私…黒川さんの事が、その…気になってて…」
一瞬の沈黙。
「……やめろ」
低い声。だけど、優しく諭すように、静かに。
「傭兵あがりなんか、やめとけ。
もっとまともに生きてきた男がいるだろう」
その言葉に、胸が締めつけられる。
私は何も返せなかった。ただ、その背中が遠ざかるのを見送るしかなかった。
彼は、一度も振り向かなかった。
ずっと言ってたな、あの頃。
彼氏にするなら歳上! 絶対、頼りがいのある人がいい。余裕に憧れる。
私は基本的に甘えん坊。だから彼氏には甘えたい。女友達と恋バナになるたび、そう口にしていた。
実際、付き合ったのも歳上ばかりだった。でも長く続いたことはない。きっと相手からすれば、私は子供っぽくて物足りなかったんだろう。
そんなこんなで、気づけば30。
「まだ歳上がいいーって言ってるの?」
なんてからかわれて、
「あのね、今どき30のシングルなんてなーんにも珍しくないから!」
と笑って返していたけれど、本当は少し切なかった。
人と関わるのも仕事も好きで、それは頑張れるしやりがいもある。ニコイチの広報・渉外部に入ってからはいっそう全力だった。
どこかで「一人で生きていける女になる」みたいな気負いもあった。
──そして5年。
そろそろ35。四捨五入なんて絶対にしないけれど、それでも一人で来てしまった。
ああ、仕事から解放されたら、誰かに甘えたい。その心の声がまだあるのに、聞こえないふりをしてきた。
そんな頃に──黒川さんが来た。
頼れる大人の男──そう見えた。かっこいい、とも思った。
でも、知っていくうちに気づいた。私の中で湧いてくるのは「甘えたい」という感情じゃない。
寄り添いたい、という気持ちだった。
黒川さんは言葉が少ない。
でも、それは無責任なことや曖昧なことを言わないためなんだと思う。
そのぶん、きっと彼の中には、言葉にされないまま抱え込まれた感情や想いがたくさんあるのだろう。
この人に孤独でいてほしくない。
私がそばにいて、何になるのかなんてわからない。けれど、それでも、一緒にいたい。
こんなふうに思うのは、初めてだった。
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「傭兵あがりなんか、やめろ」
いつもの低い声。響く声。まっすぐに届く声。
けれどそのときは、不思議なほど優しかった。諭すように。包むように。だからこそ、胸に刺さった。
そう、私を否定するんじゃなくて——自分が不適格だと言っているのだと、あとになって気づいた。胸の奥がぎゅうと締めつけられる。言葉の裏側にある彼の慎重さと痛みが、はっきりとわかってしまったからだ。
でも、そんな人だから、私は諦めたくない。
彼の過去も、傷も、言葉にならない部分も私には分からない。分かろうとも思ったらいけない。けれど、ここにいる彼のことは知りたい。孤独にしておきたくない。そばにいて、ただ寄り添っていたい——。
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驚くほど、私は大胆になれた。
諦めたくなかったのだ。
「やめろ」と言われたからといって、好きだという気持ちは消えない。
あの日、彼は少し困ったような顔をしていた。
「今の、黒川さんが。ここに来てからの黒川さんが好きです」
素直な言葉が、ぽろりと出た。胸の奥から出た、ほんとうの声だった。
沈黙が少しあって、彼は静かに訊いた。
「本当に、俺でいいのか」
その表情は、切なかった。私の気持ちは、少しも揺らがない。
「はい」
言い切ると、彼の肩の力がふっと抜けた。長かった沈黙のあと、真っすぐに私の目を見て、彼は言った。忘れようにも忘れられない、あの一言。
「ならもう、抱くしかねぇな」
ぶっきらぼうで、不器用で、でも確かな一言だった。
なんてらしい言い方だろう。なんて、黒川さんらしいんだろう。
この人に、全部受け止めてもらえる——私はそう確信した。
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ふと目が覚めたとき。
普段は見上げるばかりのその顔が、肩先のすぐそばにある。枕に寄せた頬に落ちる影が柔らかく、眠りが表情をほどいていた。
(あ、歳下だ……)
そんな、取るに足らないことが胸にすっと落ちる。
普段の落ち着いた低い声も、戦場で磨かれた冷静な目つきも、眠りに沈むその顔の前では嘘のように消えてしまう。呼吸のリズム、眠る唇の形。緊張という鎧を脱いだ瞬間だけ、彼は年相応の人になっている――そう思えた。
目の前にあるのは、無防備で素直な顔。守っていきたいと思わせる顔だ。私はそっと、彼の肩に手を回す。安心が、じんわりと広がっていく。
⸻
今、俺は彼女と一緒に生きている。
いつからか、彼女は俺を「誠」と呼ぶようになった。
「マコト」と呼ばれるのは、祖母に呼ばれて以来だろうか。祖母の柔らかい声、祖父のしわがれた重い声――あの記憶の断片が、妙に唐突に響き返す。
彼女が俺を「誠」と呼ぶたびに、ようやく自分が「黒川 誠」としてここにいる実感が湧く。
そうして少しずつ、俺はこの場所で暮らしている人間になっていく。
ドイツ人か、日本人か――そんな問いは、もう重要じゃない。
俺は俺だ。それでいい。そうやって、生きてきた。
今、彼女の中に「誠」としての俺がいる。
その声が、確かに俺をそう呼ぶ。
ああ、俺は「誠」だ。
だが、今の自分をここまで支えてくれたのは、確かに祖父――ディーターだ。
戦場で身体を張ってきた日々。俺が「ディーター」として生き延び、そして「黒川 誠」としてここに在る背骨は、あの男の存在に由来している。
今ここにある穏やかな日常は、誰かの手で少しずつ形作られてきたのだと、静かに思う。
それでいい。そう思える自分がいることを、彼女に、そしてジジイ、祖父ディーター・ブラントに感謝する。
Life♡HACKED//DIETER りどかいん @lidocaine004
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