第4話 ジュリエットの憂鬱


 ​河野家での一件以来、俺と恵の間には薄いガラスの壁のようなものができてしまった。


 だんご屋には寄らず、真由美がいない時は無言で並んで歩く。

 恵は何か言いたげに時々俺の顔をうかがうが、俺はそれにどう応えればいいのか分からず、ただ硬派を気取って前を向くだけだった。


 そんな気まずい空気を一変させたのは、良くも悪くも、学校の一大イベントだった。


 ​「はーい、じゃあ今日のロングホームルームは、文化祭のクラスの出し物について決めたいと思いまーす! 」


 ​学級委員長の掛け声に、放課後の教室がわっと沸き立つ。


 模擬店か、お化け屋敷か、それとも展示か。

 誰もが胸を高鳴らせ、思い思いの案を口にする。秋風が教室の窓を揺らし、生徒たちの熱気をわずかに冷ましていた。


「たこ焼き屋やりてー!」


「お化け屋敷がいい!絶対盛り上がるって!」


 ​様々な意見が飛び交う中、クラスのムードメーカーである木村が、ニヤリと笑いながら教壇の前に立った。


 ​「まあまあ、みんな落ち着けって。 うちのクラスには、他のクラスにはない最強の武器、いや、最強のヒロインがいるのを忘れてないか? 」


 ​木村の芝居がかった口上に、クラス中の視線が一点に集まる。

 その視線の先にいたのは案の定、きょとんとした顔で自分のノートに落書きをしていた恵だった。


 ​「そう、我らが河野恵くんだ!」


 ​木村がビシッと恵を指さすと、主に女子生徒から「キャー!」という黄色い歓声が上がった。


 ​「というわけで、俺からの提案は演劇!

 演目は王道中の王道、『ロミオとジュリエット』だ!

 もちろん、ジュリエット役は恵、お前にしかいねえ!」


 ​その提案は、まるで爆弾だった。

 一瞬の静寂の後、教室は今日一番の興奮の渦に包まれた。


 ​「最高! 恵くんのジュリエット、絶対可愛いよ!」


「見たい!絶対見たい!」


「写真撮って売りさばこうぜ!」


 ​大盛り上がりのクラスメイトたち。

 恵は、自分の名前が連呼される状況についていけず、「え、ええ……?」と頬を赤らめて困惑している。

 その顔は、庇護欲をそそるというか、なんというか……とにかく、クラスの熱狂はさらに加速した。


 ​俺は、その光景をただ黙って見ていた。

 腹の底で、黒いマグマのような感情がぐつぐつと煮えたぎっていくのを感じながら。


 可愛い? 似合う? 分かったような口をきくんじゃない !


 お前らに、恵の何が分かる。

 こいつがどれだけ綺麗で、どれだけ繊細で、どれだけ……俺にとって特別か、お前らに分かってたまるか !

 こいつは見世物じゃない……俺だけの、誰にも渡したくない宝物なんだ !

 ​その感情が、思考の許容量を超えた瞬間だった。


 ​「ふざけるな!!」


 ​ガタンッと椅子を蹴立てる勢いで、俺は立ち上がっていた。

 俺の怒声に、教室の喧騒が水を打ったように静まり返る。

 すべての視線が、驚きと戸惑いの色を浮かべて俺に突き刺さった。


 ​「男に女役なんてやらせて、見世物にする気か! そんなの、恵が可哀想だろが!」


 ​俺が必死に絞り出したのは、建前だった。

「男のプライド」や「恵のため」。そう言えば、誰もが納得すると思った。


 だが、本音は違う。

 もっと醜く、独善的なものだ。

 恵の美しい姿を、俺以外の不特定多数の視線に晒したくない……ただそれだけ。

 この強烈な独占欲を、俺はまだ正しく名付けることができなかった。


 ​「な、なんだよ新堂、そんなに怒ることないだろ……」


「別にいじめてるわけじゃなくて、みんな恵なら似合うって……」


 ​木村もクラスメイトも、俺の剣幕に完全に引いている。

 隣の席の真由美が、心配そうに俺の制服の裾を引いた。

 そして、当の恵はといえば、泣き出しそうな顔で俺とクラスメイトを交互に見比べて、おろおろしているだけだった。


 ​「……とにかく、俺は反対だ」


 ​俺は腕を組んで椅子に深く座り直し、それ以上の言葉を拒絶した。

 しかし、一度火がついたクラスの熱狂は、俺一人の反対で消せるほど甘くはなかった。


 ​「えーっと……じゃ、じゃあ多数決を取ります!

 演劇『ロミオとジュリエット』に賛成の人!」


 ​学級委員長がおずおずと声を張り上げる。すると、俺以外のほぼ全員の手が、迷いなくすっと上がった。

 俺の必死の抵抗は、あっけなく無意味に終わった。


 ​「じ、じゃあ……ジュリエット役は、河野くんで……いいかな?」


 ​恵は、クラス全員の期待に満ちた視線に晒され、観念したように小さく、本当に小さく頷いた。

 その瞬間、俺の中で何かがプツリと切れる音がした。

 ​追い打ちをかけるように、話は進む。


「じゃあ、一番大事なロミオ役は誰がいいー ?」


 女子たちが満場一致で推薦したのは、サッカー部のエースで、爽やかイケメンの佐伯だった。

 佐伯は「えー、俺でいいの?」なんて言いながらも、まんざらでもない顔をしている。

 クラスからは再び歓声が湧き上がり、俺の敗北は決定的なものになった。


 ​ああ、そうか。


 俺の気持ちなんて、誰も分かってくれないのか。


 こいつも、こいつらも。俺がどんな思いで恵を守ってきたかなんて、知りもしないで。


 ​その後、他の配役や係が決まっていくのを、俺はどこか遠い世界の出来事のように聞いていた。

 気づけば、俺はただの大道具係に収まっていた。


 主役としてスポットライトを浴びる恵と佐伯とは、あまりにも対照的な舞台の隅の存在だ。


 ​ホームルームが終わり、騒がしい教室で恵がおずおずと俺の席にやってきた。


 ​「……達也。 ごめん」


「…………」


「でも、みんなが言うから……断れなくて」


 ​俯うつむきながら謝る恵に、俺は何も言えなかった。


 違う……お前に謝ってほしいんじゃない。

 ただ、「達也が嫌ならやらないよ」と、そう言ってほしかっただけなんだ。

 俺の味方でいてほしかっただけなんだ。


 ​「……別に。 お前が決めたことだろ」


 ​吐き捨てるようにそう言うと、俺は鞄を掴んで席を立った。

 傷ついたように目を見開く恵を振り返ることなく俺は一人、夕暮れの教室を後にした。


 ​自分の反対を押し切って、あいつは役を受けた。


 その事実が、裏切られたような冷たい孤独感を伴って、俺の胸にずしりと重くのしかかっていた。


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