第3話 夕焼けは境界線の色


 ​シスターズの襲来という嵐が過ぎ去った後、俺たちは驚異的な集中力で課題を終わらせた。

 達成感よりも、むしろ解放感の方が大きい。

 時刻は午後五時半を回り、窓の外はすでに深いオレンジ色に染まっていた。


 ​「んー、疲れたー。 ちょっと休憩しない?」


 ​ 大きく伸びをした恵が、部屋の隅にある小さなベランダへと続く窓を開けた。

 ひやりとした秋の空気が、暖房で少し火照った頬に心地よい。


 ​「達也もおいでよ。涼しいよ」


 ​手招きする恵に誘われ、俺もベランダに出る。

 二人も出ればいっぱいになってしまうような、本当に小さなスペースだ。

 手すりに並んで肘をつくと、眼下には家路につく人々や、夕飯の支度を知らせるかのように煙突から立ちのぼる煙が見えた。


 ありふれた、平和な町の風景。


 ​隣に立つ恵の髪が、風にふわりと揺れた。

 夕日がその一本一本を黄金色に透かし、いつもより少し大人びて見える横顔を鮮やかに照らし出している。

 長い睫毛まつげ、すっと通った鼻筋、少しだけ開かれた唇。


 どくん、とまた心臓が嫌な音を立てた。


 ​(綺麗だ……)


 ​そう思った瞬間、脳裏にあのイラストがフラッシュバックした。

 男同士が唇を寄せ合う、あの気味の悪いイラストが……美しいと感じている目の前の親友の横顔と、あのグロテスクな記憶が重なり、俺は激しい混乱と罪悪感に襲われた……吐き気すら覚える。


 ​(違う、そうじゃない。 これは、そういう感情じゃない)


 ​ 俺は奥歯を強く噛みしめた。

 男の親友に対してこんな風に胸を高鳴らせる自分は、普通じゃないのではないか。

 蘭さんの「今はね」という言葉が、呪いのように頭の中で反響する。


 昭和のスターは、こんな女々しい感情に振り回されたりしない。


 硬派な男は、もっとどっしりと構えているものだ。


 それなのに、今の俺はどうだ。

 恵の横顔ひとつで、こんなにも動揺している。


 自己嫌悪で胸がむかむかした。


 ​「……きれいだね、今日の夕焼け」


 ​俺の葛藤など露知らず、恵がぽつりと呟いた。

 その声は、秋の澄んだ空気に溶けていくように穏やかだった。


 ​「ああ……」


 ​俺はそれだけを返すのが精一杯だった。

 何かを話せば、この醜い感情が見透かされてしまいそうで怖かった。


 ​しばらく、俺たちの間を沈黙と、遠くで鳴り響くカラスの鳴き声だけが通り過ぎていった。

 気まずい沈黙ではない。

 昔から、俺たちの間には言葉がなくても成り立つ時間があった。


 だが、今日の沈黙は、少しだけ違う意味を持っているように感じられた。

 まるで、見えない境界線が俺たちの間に引かれてしまったような。

 ​その境界線を、いともあっさりと踏み越えてきたのは、やはり恵だった。


 ​「ねえ、達也はさ」


 ​恵は町並みを見下ろしたまま、問いかけてきた。


 ​「好きな人とか、いないの?」


 ​その質問は、無防備な矢のように俺の胸に突き刺さった。


 好きな人……その言葉の響きに、頭が真っ白になる。


 俺の脳裏に、ふと真由美の顔が浮かんだ。

 快活で、面倒見が良くて、誰にでも優しい、いい奴だ。


 そうだ、世間一般の「正解」は、きっと彼女のような女の子を好きになることなんだろう。


「新堂くんって逢田さんのこと好きなんでしょ?」とクラスの女子にからかわれたこともある。


 それが「普通」の形なのだ。


 ​だが、心が、腹の底から「違う」と叫んでいた。


 真由美は大切な幼馴染だ。

 だが、彼女に胸を高鳴らせることはない。

 彼女の笑顔を思い出しても、心臓は静かなままだ。


 俺が本当に……​そこまで考えたところで、俺は思考を無理やり断ち切った。

 これ以上は危険だ、認めてはいけない領域だ。


 ​「……別に、いねえよ」


 ​絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、硬かった。


 しかし、恵はそれで引き下がらなかった。


 純粋な好奇心なのか、それとも何か意図があるのか。

 恵は俺の方にくるりと向き直ると、その大きな瞳で、俺の心を覗き込むように続けた。


 ​「ふーん。じゃあさ、真由美のこととか、どう思ってるの? 昔から仲良いし、お似合いだと思うけどな」


 ​悪意のない、本当にただの疑問。

 それが分かるからこそ、俺は追い詰められた。

 恵の純粋さが、今はナイフのように鋭く俺を傷つける。


 お似合い?


 俺と真由美が?


 お前が、それを言うのか?


 お前が、俺の隣に真由美を置こうとするのか?


 ​ぐらり、と足元が揺らぐような感覚。


 嫉妬、焦り、怒り、悲しみ。

 ぐちゃぐちゃになった感情が、せきを切ったように喉元までせり上がってきた。


 ​「うるせえ!」


 ​気づいた時には、俺は叫んでいた。

 ベランダの狭い空間に、自分の怒声が不釣り合いに大きく響き渡る。


 ​「俺にそういうのねえって、言ってんだろ!!」


 ​必要以上に強い、拒絶の言葉。

 恵の肩が、びくりと震えた。

 大きく見開かれた瞳が、みるみるうちに悲しみの色に染まっていくのが分かった。

 彼は傷ついたように目を伏せると、か細い声で「……ごめん」とだけ呟いた。


 ​ しまった、と後悔した時にはもう遅い。


 燃えるようなオレンジ色だった空は、いつの間にか紫紺しこんの闇にその色を変え始めていた。

 俺と恵の間に気まずい沈黙が重く、冷たく落ちる。


 まただ……また、恵に優しくできなかった。

 本当は、こんなことを言いたいわけじゃないのに。


 硬派を気取るだけの、ただの意気地なしだ。


 俺は握りしめた拳の中で、自分の不甲斐なさをただただ呪うことしかできなかった。


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