第2話

 夜が明ける前に、アリスは行動を開始した。

 人の目が届かぬ時間帯。侍女たちはまだ眠っている。

 ドレスに着替えるのも後回し。袖のない軽装を羽織り、部屋を抜け出す。


 行き先は、王宮の北翼、古文書の保管庫。


 (もしもこの世界が同じなら、今日の朝、私は花の髪飾りを壊して落ち込んでいた!)


 (そのあと、侍女長のカレンが慰めてくれて……)


 思い返すと、どうでもいいことばかりが思い出される。

 もう二度と戻らないと思っていた日々の、くだらない、でも愛おしい時間たち。


 廊下の先、角を曲がると、静かな足音がひとつ。


 (来る⋯⋯)


 寸分の迷いもなく、壁際に身を寄せた。

 やがて現れたのは、見覚えのある青年。


 騎士、レオンだった。


 「……おはようございます、姫……あっ、あれ?」


 レオンの目が驚きに見開かれる。


 無理もない。彼はアリスがここを通るとは、思っていなかったのだ。


 (確か、彼は無害だった。最後まで。死ぬ直前、私を庇って傷を……)


 わずかに記憶の中で疼く感覚。

 だがそれを顔に出さず、アリスは微笑んだ。


 「おはよう、レオン。少し、散歩に出たくて」


 「まだ朝も早いですし、城の中も危険が……」


 「ありがとう。でも、危険を避けるためには、まず誰が危険か知らなければならないわ」


 「……はい?」


 レオンは困惑した顔をしたが、すぐに真面目な顔に戻った。


 「……それでは、私がご案内を。古文書庫ですね?」


 「……なぜ、そこへ向かうと?」


 「姫が『今の王国のどこにほころびがあるか』を確かめに行くのなら、記録を読むのが最善かと。違いますか?」


 アリスは目を細めた。


 (……この男、賢い)


 記憶ではただの騎士。剣の腕は確かだが、政治には無関心だったはず。

 けれど、こうして目の前にいる彼は、まるで違う人のようだった。


 (いいわ。使えるなら、使わせてもらう)


 「ええ。案内をお願い」


 足音を殺しながら、二人で北翼へと進む。

 城内の空気は静かで、まるで時間までもが眠っているかのようだった。


 文書庫は冷たく、ひっそりとしていた。

 棚には年代ごとに分けられた巻物や帳簿が整然と並んでいる。


 「このあたりは……三年前の記録ですね」


 レオンが指差した棚をアリスが引き寄せる。

 指先が震えた。そこにあるのは、亡き父が残した政務日誌だった。


 (父上……)


 革表紙を開く。整った筆跡。冷静な判断。

 そして、その中に、奇妙な記述があった。


『ガロス将軍に王都防衛の裁量を一部委任。議会は一部反対あり』


 (……ここから、始まっていたのね)


 裏切り者。父に仕えた将軍。王国を裏から崩した男ガロス・マクヴェイル。


 この日誌の時点では、父はまだ彼を信じていた。

 信じすぎていたのだ。家族も、臣下も、そしてアリス自身も。


 「姫……?」


 「ごめんなさい。大丈夫よ。ただ、懐かしくなっただけ」


 優しさの裏にあるものを、まだ信じていいのかは分からない。

 だが、今のアリスはひとりではない。


 文書庫を出ると、東の空が白んでいた。

 夜明け。最初の一日が始まろうとしている。


 かつては、何気ない朝だった。

 だが今は違う。これは、運命を変えるための一日だ。


 王国を救うか、あるいはもう一度、失うか。


 アリスは静かに目を閉じ、胸の奥にある小さな焔に触れた。


 (もう、あの頃の私じゃない)


 (この手で、選ぶ。誰を信じるか。誰を斬るか)


 少女は朝日に背を向け、静かに歩き出した。

 光に満ちた、決して戻れない過去に、別れを告げるように。

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