第31話 VR
庭に緊張が張りつめたまま、真理は紅潮した女王の顔を見つめ、そっとアリスに囁いた。
「ねえ、あの女王にはモデルがいるのかしら? イギリスの女王といえば……ヴィクトリア女王とか?」
アリスは首をかしげ、少し考えてから頷く。
「直接のモデルって言い切れるわけじゃないけど、キャロルが生きていた時代の女王はヴィクトリアよ。
彼女は厳格な母みたいに国を統べていて、人々にとっては絶対の象徴だった。
だから、この不思議の国の女王も、ヴィクトリアの権威と怖さをナンセンスに誇張した姿だ、って考える人は多いの」
真理はさらに首を傾げる。
「でも……ヴィクトリア女王って名君で、下々にも慕われていたイメージがあるけど。やっぱり違うの?」
アリスは小さくため息をつき、声を潜めて答えた。
「偉大な女王として尊敬されたのは事実よ。
産業革命ののち、イギリスが世界の工場として繁栄した長い治世は安定の象徴だった。
でも同時に、ヴィクトリア朝の道徳が社会をきつく締めつけてもいた。
秩序と体面が最優先。
自由を抑える雰囲気も強かったの。
だから慕われる権威であると同時に、怖れられる権威でもあったのよ」
真理はふと何かを思い出し、口元に手を当てる。
「そういえば……ホームズさんがベーカー街の自室で、拳銃で壁にヴィクトリア女王のイニシャル……VRを弾痕で描いてたよね」
背後から乾いた声が落ちてきた。
「その通りだ。君はよく覚えているな」
振り向けば、いつものパイプをくわえたシャーロック・ホームズ。
帽子をとって一礼し、女王の城をひとわたり見渡す。
「あれはただの悪ふざけではない。
女王陛下はこの国の秩序の象徴だ。
その忠誠を、私は私なりの作法で示したまで。
拳銃でイニシャルを刻むのは奇矯に見えるかもしれんが――権威を敬意とともに、少し笑いに変えるのも、我々の流儀だよ」
真理は目を丸くして、ぽんと手を打つ。
「なるほど……怖がるだけじゃなくて、風刺やユーモアで距離を取っていたんだ」
アリスがにこっと笑った。
「そう。
イギリス人は権威を尊敬する一方で、そのおかしさも見抜いて皮肉を言う。
だからハートの女王みたいなナンセンスも生まれるの。
――ほら、あの『首をはねよ!』の一言だって、権威が空回りするとどう見えるか、鏡みたいに映してくれるでしょ」
女王の号令はまだ庭にこだましている。
だが真理の耳には、ホームズの静かな調子と、アリスのからりとした笑いが、権威と恐怖の間に小さな隙間を開けているように思えた。
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