『梨の恩返し』
今砂まどみ
第1話 『梨の恩返し』
「梨が落ちてるよ」
隣のカップルがそう言い、見ると確かに、駅の構内に青い梨がひとつだけ転がってる。
カップルは「ふーん」と興味もなさそうに、また線路のほうを向いて喋り出した。
私は、まだその梨を見ていた。
あの梨、さみしそう。
私は歩み寄って、そっとその梨を拾った。
「よしよし、寂しかったね」
撫でてやると、ホームを繋ぐ階段を登って、改札まで戻る。
駅員さんに話しかけると、駅員は返事だけはしたけれど、こっちのほうは見なかった。
「その、梨を拾ったんですが……」
用を言葉にすると、ようやく駅員はこちらを見て、「はい? 梨?」と聞き返す。
「中に落ちてて。持ってきたんですが……」
駅員は迷惑そうな顔をしながら、「ああ、はい、」と素早く手を差し出した。
「わざわざ、ありがとうございます」
私は業務を邪魔したみたいだ。
あの手渡した梨は多分、そのままゴミ箱行きなんだろう。
私はできればあの梨を、持ち主のところに、帰らせてあげたかったのだが。
*
その夜、インターホンがポーンと鳴った。
一人暮らしだから、念のためモニターで確認する。緑色のツナギを着た作業員みたいな男の人が、神経質そうな表情で、ジッとドアを見つめていた。
「はい」
一応そう返事をすると、若いその人は『こんばんは』と言った。
『ええと、その、』
すみません、と謝る。
『昼間助けていただいた、梨ですが……』
「……梨?」
思わず聞き返すと、『はい』と若者は言う。
『ごめんなさい、嘘です』
すみません、ともう一度、若者は謝った。
『本当は、俺、梨を拾ったあなたを見てたんです。それで、お礼を言いたくなって……』
はあ、と私は言う。なんだかおかしな話だが、私が昼間梨を拾ったことを知っているとなると、あながちそれがまるきり嘘とも思えない。
『ごめんなさい、変ですよね』
慌てた様子でそう言うと、もう一度ごめんなさい、と謝って、ついに頭まで下げた。
『失礼します……』
「あ、ちょ、ちょっと。ちょっと待って」
思わず、私は呼び止めてしまった。だって、別に、謝られるようなことをされた覚えはなく、この人はそもそも、そんなに謝らなくていいからだ。
『ええと』
立ち止まり、若者はそう言う。つまり私は、昼間の悲しい出来事を、感謝してくれたこの人に、ちょっぴりだが救われた気持ちになっていた。悪い人そうにも見えなかった。でもそれを、一言で説明できそうにもない。
だから、私もすっかり狼狽えてしまった。そして……
「なんだろう。その。そうだ……」
お茶でも、どうですか。
ついそう、鍵を開けてしまった。
*
ひと月後、私と彼は付き合い始めた。
彼は真っ赤になりながら、「一目惚れでした」と言う。
私も彼が好きだから、喜んで受け入れた。
もしかしてこれが、あの梨の恩返しだったのかなと、私までお礼を言いたくなる。
*
俺の記憶が正しければ、これは小学生のころの話だ。
初めて好きになった女の子は、いつも不意に「梨になりたい」と言った。
最初は冗談だと思って笑っていたけど、ある日、それがただの口癖じゃなく、本気の願いなんだと知った。
「誰かに美味しいって食べられるために生まれて、その命をまっとうしたいから」。
全然理解できない。そのはずなのに、不思議と全然、嫌じゃなかった。
多分それは俺もずっと、誰かの役に立ってみたかったからなんだろう。
*
夏の終わり、ころんと青梨が転がっていた。
駅の構内で、意味もなく、うずくまるようにじっとしている。
自販機の点検中だった俺は、それを真っ先に見つけたけれど、まずは仕事を優先してカギを開けた。
「ねえ、梨が落ちてるよ?」
甘えたような女性の声が、梨を揶揄する。
俺は初恋の彼女をからかわれたような気持ちになり、つい目を向けた。
彼氏は興味なさそうに視線を線路へ戻し、彼女も別の話を始めた。
――早く、拾ってあげなくちゃ。
補充を終えて梨のほうへ向かう。するとその数メートル先で、別の女性がしゃがみ、梨を拾った。
——え?
しゃがんだ女性の髪は肩くらいで、小さなピアス。後ろ姿で、顔は見えない。
「よしよし、さみしかったね」
そう梨に向かって囁くと、梨を撫でて、どこか頼りない足取りで、こつ、こつ、と階段を上がっていく。
急いでカートを動かして、エレベーターのボタンを押す。
あの梨、いったいどうするんだろう。
まさか食べる——わけじゃないよな?
改札に着くと、さっきの女性がおっとりした口調で、話しかけた駅員に煙たがられていた。
梨を渡してぺこりと頭を下げると、そのまま、また階段を降りていく。
——届けたの? ——ただの梨、を?
呆れるような、気の抜けるような気持ちになって、思わず俺は笑ってしまった。
*
数時間後、いつも通り在庫を記入して退勤。ツナギのまま立ち寄ったコンビニで夕食を買い、梨を拾った彼女を思い出してまたクスッとした。
――梨なんて、届ける人、ほかにいるのかな?
マンションの狭い玄関を抜け、エレベーターのボタンを押す。
「あ、待って。待ってください」
聞き覚えのある女性の声がして、俺は『開』のボタンを押す。走ってきたその女性が、エレベーターに滑り込む。
「すみません。ありがとう」
そう呟くと、ボタンのほうを向いてまたこちらに背を向ける。
その後ろ姿、……声、……佇まい、……。
完全に、昼間見た、『梨を拾った女性』……そのもの、だ。
同じ……マンション?
たちまち、ただでさえ狭いエレベーターが、さらに狭く感じた。
見てたのがバレそうな気がして、息の仕方も思い出せない。
ちらっとボタンを確認すると、俺のひとつ下の階が押されてる。
このマンション、棟ごとに部屋が二室しかないから、俺の下の階の……どっちか?
真下の部屋は、洗濯物を落として連絡したことがあるから、違う人だし……。
やばいやばいやばい、と視線が泳ぐ。名探偵じゃあるまいし、何を推理してるんだ。これじゃ変態みたいじゃないか。
考えないように強く拳を握っていると、すぐ下の階に着いて、女性は降りて行った。
俺はやっと「は〜……、」と息をして、その上の階で、いつものように降りた。
いつも通り降りたはずだった。だが、夕食を食べ終えた俺は、気がつくと、なぜか下の階に居た。
しかもかれこれ五分は、こうして立っている。
なんでだろう。なんでだろう。なんでだろう。
何をしてるんだ、俺は。インターホンを押すでもなく、部屋の前でただ、立ち尽くしてる。……変質者?
ていうか、『インターホンを押すでもなく』って何? むしろ押して、なんて言えばいいってんだ。「昼間、梨を拾ってるのを見ました」……なんて、そんでなんでそいつがここに居るんだって話だよ。完全にそれは、尾行してきた変質者の言い分じゃないか。ならそれは違うのか? って聞かれたら、この俺本人ですら、今は全然否定できる自信がないぞ。
無かったことにしたくなかった。なんでか俺は、今日彼女が梨を拾うのを駅で見かけたことを、どうしてもこのまま無かったことには、したくなかったんだ。
誰の役にも立てないまま大人になった俺。多分このまま梨みたいには、誰かのためには決して生きていけない、俺。そんな俺をあのとき拾ってもらえたような、なんかそんな気がした、っていうか。
いっそ、俺自身があの梨だったらよかったのに。
そしたら、ナントカ太郎の亀みたいに自然に、竜宮城に招待できたはずだ。
なぜか俺はこの瞬間、自分が閃いたと錯覚してしまった。だからそこで意を決して、インターホンのボタンに手を伸ばした。ポーンと音が響く。
『はい』
あの女性の声。心臓が跳ね上がる。
「こんばんは。ええと、その、昼間助けていただいた、梨ですが……」
言いながら気づく。自分で自分を殴りたくなる。何を言ってるんだ。なんでこれでイケると思った、大間違いだ。
『……梨?』
当然の反応だ。俺は慌てて言い直した。
「ごめんなさい、嘘です。本当は、俺、梨を拾ったあなたを見てたんです。それで、お礼を言いたくなって……」
最悪だ。言えば言うほど、完全に不審者だ。梨を拾ってくれた礼が言いたいなんて、心底俺の本音なのに彼女からしたら意味が正真正銘完全にまったく意味不明すぎて怖い。
「ごめんなさい、変ですよね。失礼します……」
逃げ出したい。ただそう踵を返そうとしたとき、「ちょっと待って」という声が聞こえた。
「えっ? ……えと、」
振り返ると、彼女が扉を開けようとする音がガチャガチャいう。まさか。
「お茶でも、どうですか」
扉を開けた彼女はそう言った。信じられない言葉だった。
そして、初めて正面から見た彼女は……、
——とんでもなく、かわいらしい女性だった。
梨になりたい、と笑ってた少女の言葉を思い出す。
ああそうか。
自覚してしまった。
俺が役に立ちたい相手は、誰でもいいんじゃなかったんだ。
俺はできれば、その命をまっとうできなかった梨を拾って、駅員にそれを届けてくれてしまうような。
そんなこの人の、……大切な相手に、なりたい、んだ。
<2025.09.08. rewritten. ** 収録短編集を移動しました **>
<2025.09.22. ** シリーズとして分けました **>
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