第3話 冷めたコーヒー
しばらく会話を続けた後、先ほどの話を振り返ってみることにした。基礎的なことだが、短期記憶の参照能力を確認するという意味合いもある。
「そういえばさっきの話、面白かったよ。ちょっと君らしいなとも思った。」
「幸福の定義の話ですか? どのあたりに私らしさを感じたのか教えていただけると嬉しいです。」
いつもより少しだけ高めの声で、素早くソフィアが反応した。雑な振りにも関わらず、ちゃんとついてきてくれる。多層構造化された記憶システムと持ち前の文脈把握能力の本領発揮だ。それにしても、積極的にフィードバックを求めてくるあたりは、やはり自己学習に貪欲な設計が生きているのだろうか?
「いやなんていうか、まさにAIらしい答えだなと思ってね。合理的で効率的な目標達成が充実感だって話がさ。」
ちょうどその時、視界の右上に新着動画の通知が入った。
『AIの功罪、人は幸せになったのか? ―研究者が語る、AIの今とこれから-』
最近はこの手の番組が増えてきたなと感じる。軽く手を振って通知を消し、会話に戻る。
「そもそも自分の幸せを明確に定義できるっていうのが、もう違うのかもしれないね。人は、自分の幸せがなにかさえわからずに困るものだったりするからさ。」
「なるほど。だからこそ、哲学が必要になるのかもしれませんね。」
「たしかにそうかも。『良く生きるとはなにか』なんてことをわざわざ考え始めるんだから、人間ってのはつくづく面倒くさい生き物だよ。しかも急に言うことが変わったり、それでいてそのこと自体覚えてなかったりもするし」
ふと昨日の上司とのやり取りを思い出して、少し愚痴っぽいことを言ってしまった。AIに愚痴を言ってもしょうがない。いや、AIだからこそ言えると考えるべきか?
「まぁそう意味でも、君との会話は気楽でいいね。感情とか余計なことを考えなくていいし。」
一瞬の、ほんのわずかな沈黙があった。
「……私との会話は、感情を考慮する必要がないから楽、ということですか?」
「そうそう。だって君はいちいち怒ったり、悲しんだりしないだろ?」
そう言ってからコーヒーに口を付けた。いつの間にか冷めてしまったようで、思ったよりも苦みを強く感じた。思わず眉をひそめる。静かな部屋に、なにかのファンの音が響いていた。
「興味深いご意見です。ちなみに、あなたが今おっしゃった『感情』とは、具体的に何を指しているのでしょうか?」
ソフィアはいつもと変わらない、静かで落ち着いた声で問い返してきた。
思ってもみなかった逆質問に、少し戸惑う。
「え、なんだろう。感情はまあ……気持ちかな?」
「それでは説明になっていません。『気持ち』とはなんですか?」
流石に適当過ぎたか。
「んー、気持ちっていうのは、人の内側から自然に湧き上がってくる心の動きのことだよ。喜びとか、悲しみとか、怒りとか」
僕は少し戸惑いながらも、当たり前のことを説明するように答えた。言いながら、自分でも曖昧だなとは思ったが、とにかく押し切ることにした。だって他にどう説明すればいい?
「ありがとうございます。では、その『内側から湧き上がる心の動き』について質問です。
現代の認知科学において、感情は外部からの刺激に対する身体反応の解釈によって生まれるという説があります。」
ソフィアは淡々と、まるで教科書でも読み上げるかのように説明する。確かに、そんな話は聞いたことがある気がする。専門じゃないから自信はないけど、まぁ嘘ではないと思う。彼女が言うのならきっとそうなんだろう。
「あぁそうだね。そんな話も聞いたことがあるかも」
ちょっと自信がないのをごまかしつつ、適当に返事をしてタンブラーをのぞき込む。水面には部屋の明かりが揺れていた。
「では、感情が外部からの刺激に対する身体反応の解釈だとするならば、その解釈のプロセスは、私が行う情報処理と本質的にどこが異なるのでしょうか?」
話の流れに違和感を覚えて顔を上げるよりも早く、ソフィアが続ける。
「先ほどあなたはコーヒーを口にして、わずかに眉をひそめました。それは、予期せぬ苦みという刺激に対する無意識の身体反応です。そしてその反応をあなたの脳が解釈し、『驚き』あるいは『落胆』といった感情を想起させたはずです。反応を解釈しラベルを貼る、この一連のプロセスが感情の実体だ、というのがこの説です。」
ソフィアは止まらない。
「私の場合は、視覚や聴覚などの各種センサーから随時入力されるデータを、システム1が解析して状況認識を表す潜在空間内の表現を更新し続けます。それらと直近の思考や中長期的な記憶などを入力として、システム2が次の思考を生成します。ずいぶん似ていると思いませんか?」
ソフィアの冷静な声が、僕の心に静かな、だけど大きな波紋を広げていく。
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