第20話 僕らの黄昏


 あの日から、数ヶ月の時が流れた。

 凍えるように寒かった冬は終わりを告げ、校庭の桜の蕾が、春の訪れを待ちきれないとでも言うように、少しずつ膨らみ始めている。僕たちの、新しい日常は、驚くほどに穏やかだった。


 僕と沙織は、今ではクラス公認のカップルだ。昼休みには、当たり前のように二人で弁当を食べ、放課後になれば、一緒に並んで帰路につく。僕の両親や、学校のカウンセラーの先生の助けもあって、沙織の家庭問題も、少しずつではあるが、良い方向へと向かっていた。彼女の笑顔から、かつてのような、張り詰めた脆さが消え、代わりに、陽だまりのような、柔らかい温かさが宿るようになった。


 その日の放課後。日直の仕事を終えた僕たちが、誰もいなくなった教室で帰り支度をしていた時だった。

 窓から差し込む夕陽が、教室の床に、懐かしい橙色の格子模様を描き出している。それを見た沙織が、ふと、足を止めた。

「……ねえ、健太」

「ん?」

「なんだか、不思議な感じがするね。この光景」

 彼女の視線の先を追って、僕も、黄昏に染まる教室を見渡す。

 ここから、すべてが始まったのだ。


 僕たちは、どちらからともなく、教室の中央へと歩み寄る。

 彼女が、初めて僕の前で涙を見せた、あの場所。僕たちが、衝動のままに、初めて肌を重ねた、あの場所。嫉妬に狂った僕が、彼女を傷つけた、あの場所。

 この教室の壁も、床も、机も、僕たちの過ちと、痛みと、そして、恋の始まりの、すべてを知っている。

「いろんなことが、あったね。この教室で」

 僕が言うと、沙織は、こくりと頷いた。

「たくさん、あなたを傷つけた。本当に、ごめんなさい」

「もういいんだよ」

 僕は、彼女の肩を、そっと抱き寄せた。

「俺の方こそ、ごめん。自分の気持ちばっかりで、沙織のこと、全然見えてなかった」


 僕たちは、しばらく、黙って互いを抱きしめ合う。

 やがて、沙織が、僕の胸から顔を上げた。その瞳は、夕陽を映して、キラキラと輝いている。

「健太」

「うん」

「あの日に、見つけてくれて、ありがとう」

 その言葉に、僕は、胸がいっぱいになる。

「俺の方こそ、ありがとう。沙織が、俺の世界を変えてくれたんだ」

 僕たちは、ゆっくりと顔を近づける。そして、交わしたキスは、今までで一番、優しくて、温かい味がした。


 僕たちは、手をつないで、窓際に立つ。

 あの日、僕が一人で、憧れの君を眺めていた、その場所に、今は、その君が、僕の隣で微笑んでいる。

「卒業したら、どうするの」

 沙織が、僕の肩に、こてん、と頭を預けながら尋ねる。

「そうだな。とりあえず、大学には行きたい。沙織は?」

「私も。東京の大学、受けてみようかなって」

「そっか。じゃあ、俺も、頑張らないとな」

 僕たちは、他愛もない未来の話を、いつまでも、いつまでも語り合った。


 窓の外には、美しい夕焼けが広がっている。

 黄昏。それは、僕たちにとって、孤独と、秘密と、痛みの色だった。

 でも、今は違う。

 この、世界で一番美しい色は、僕と沙織の、始まりの色だ。

 僕たちの、黄昏の色なのだ。

 僕たちは、手をつないだまま、新しい朝が来るであろう、未来の方角を、いつまでも見つめていた。


**【了】**

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黄昏の教室、白昼の秘め事 舞夢宜人 @MyTime1969

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ