2話:危険地帯での出会い

春の午後、街の空気はまだ温かさを残していた。桜の花びらが風に舞い、歩道にうっすらとピンクの絨毯を作っている。でも、そんな平和な景色も私の心には届かない。

「もう、受験勉強なんてやってられるか…!」


教科書を投げ捨て、ため息混じりに歩いていた私は、ふと目の前の交差点で立ち止まった。ここは――誰もが一目置く、危険地帯。黒人の若者たちがたむろし、路地からは軽く威嚇の声が聞こえてくる。普通なら絶対に近づかない場所だ。


でも、その危険地帯の向こうを、まるで空気のように歩く一人の女の子がいた。


――からす。


黒いジャケットにジーンズ、背筋をピンと伸ばして、歩くたびに風を切る音が聞こえそうな堂々とした姿。周りの男たちがチラチラ見ても、彼女は一切気にせず、視線を前だけに向けている。


「え…なに、この人……?」


私は息を潜め、角の影に隠れた。心臓が跳ねる。危険地帯、しかも黒人の若者たちに囲まれる中、普通の人間なら足がすくむ。なのに彼女――からす――はまるで観光客のように堂々としている。


「あ、あれ? まさか、私、今すごいもの見ちゃった?」


頭の中で自分を慰める声が響く。現実逃避のつもりで立ち寄った街で、現実がいきなり迫ってきた気分だ。でも同時に、胸が高鳴る。あの大胆さ、あの自信――私、何かに惹かれている。


思わず後をつけてしまう自分。慎重に、でも好奇心に駆られながら、一歩一歩距離を詰めていく。


「いや、やめろよ私。こんなところで変なことになったら、受験どころじゃなくなる…!」


心の中で自己ツッコミを入れる。けれど、目の前のからすは、そんな私の理性を簡単に飛び越えてしまう存在だった。


角を曲がると、からすは急に立ち止まり、私に気づいた。黒い瞳が私をじっと見つめる。


「……お前、何してるの?」


その声は低く、でも不思議なほど落ち着いていて、威圧感はあるのに威嚇される感じは全くない。


「え、えっと……いや、その、勉強の息抜きで……」


口ごもる私に、からすは片方の眉を軽く上げ、にやりと笑った。


「へぇ。勉強の息抜きで危険地帯を歩くのか。面白いやつだな」


――面白いやつだって? いやいや、私、今死ぬかと思ったんですけど……!


心の中でツッコミを入れながらも、私は妙な安心感を覚えた。危険地帯に立つからすは、ただの強気な女の子じゃない。背中に、何か信念のようなものを背負っている気がした。


「……あの、あなた、からすっていうんですか?」


思わず名前を聞いてしまう。


「……ああ、まあ、そうだ」


からすはあっさり答え、また歩き出す。その後ろ姿は、まるで風そのもののように軽やかで、追いかけたくなる衝動を抑えきれない。


「……やばい、完全に心を掴まれてる……」


自分でも驚くほど、胸がざわついた。現実逃避したい私が、また新しい現実――からす――に引き込まれていく。危険だと思いながらも、その存在に抗えない。


その日、私は帰宅してからも、からすのことを考え続けた。危険地帯で堂々と歩くあの姿、低い声の響き、そして何より、自分が知らなかった感情――憧れと興奮の混ざった、胸のざわめき。


「私、何やってるんだろ……」


ギャグめいた自己ツッコミを入れつつも、心の奥底では、初めての“誰かを強く意識する感覚”が芽生えつつあった。18歳の春、私はまた一つ、現実逃避の扉を開けてしまったのかもしれない。


そして、次の日からも、私は無意識にあの危険地帯に目を向けてしまうのだった――からすが、また歩いているかもしれないと思うと、胸が勝手に高鳴る。


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