第一話 再会(後)
「あ、起きた?」
娘が突然体を起こしたのを見て、カイトはのんきに声をかける。
何が何だかわからない、と言った風情で周りを見渡す娘を見て、カイトはウォーターサーバーからグラスに水を満たし、それを持ってソファに並んで座る。
「どうぞ」
娘は小さく頭を下げると、グラスを両手で受け取り、一口水を飲んだ。
「ねぇ、名前は?」
「……さな」
「さな、か。漢字は?」
「糸へんに少ない、に奈良の奈、で紗奈」
「じゃ、紗奈ちゃん。昨日の夜のこと覚えてる?」
「きのう……」
カイトの言葉をオウム返しをした紗奈は、はっと胸元に手をやり、バスローブの布地をつかむ。
「これは?」
「俺は当事者じゃないんだけどさ。この家の主が、橋のたもとで落ちてたって言って君を拾って帰ってきたんだよ。そいつが、濡れた服を脱がせて、ふろに入れたの。で、このバスローブ」
面白そうにカイトは話すと、紗奈の手に握られたままのグラスを取り上げ、センターテーブルに置いた。
「安心して。そいつは男だけど女に興味はないから」
興味はないと言われても、見知らぬ異性に服を脱がされた、と言うことはやはり大きな動揺を紗奈に与える。
「あ、安心して、ってそんな」
無理、と言おうとしたが、聞いてないふりでカイトが話題を変えた。
「ところで紗奈ちゃん。きみはなんで、北仲橋なんかに落ちていたんだい?」
「北仲橋、ってどこですか?落ちてるってどういう?」
紗奈は必死になって、昨日の記憶を取り戻そうとする。親父と食事をしろと言われてレストランに行き、だまし討ちするようにその場を逃げ出して、それで――
「覚えてないかー」
あまり困ってなさそうな声色でカイトは言うと、ぽすん、とソファの背もたれに体を預けると天井を仰いだ。
その整った横顔は、どこかで見たことある、と紗奈は思った。
「じゃぁ質問変えようかな。紗奈ちゃん何やってる人?」
「えっと、大学生……あっ!」
急に叫び声をあげた紗奈に、カイトは驚く。
「な、なに?」
「今日実験だった!今何時?」
「ん?8時」
「間に合わない……」
昨夜実験がある、と言ったのは逃げ出すための方便だけではなかった。実際、実験があったのだ。
うなだれる紗奈を、カイトがポンポン、と慰めるように肩をたたく。
「大丈夫。一日ぐらい、何とかなるって。俺、昨年ほとんど大学行けなかったけど、留年しなかったよ?」
「あなた、文系?」
「そうだけど?」
能天気な声色のカイトに、紗奈はさらにうなだれる。
「じゃぁ、一緒にしないで……実験ありの理系は学校に通って実験データとって、それではじめて単位になるんだから」
「そういうもんなの?」
カイトの言葉にうなずくと、紗奈は思わずあたりを見回す。
「探してるの、これ?」
さっそく紗奈の意図に気が付いたカイトが、スマホを渡す。
「ごめんね、困るだろうと思ってバッグから抜いて充電しておいた。別にバッグの中身は見てないよ」
「あっ、あの、ありがとう」
律義に両手で受け取ると、LINEを立ち上げ、実験グループのチャットを開く。
昨夜の大雨に打たれて、熱が出て今日はいけない、と事務的に書いて送信ボタンを押す。あたらずといえども遠からずだ。もう今日は嘘も方便で行くしかない。
さっそく、「気にしないで」「お大事に」のスタンプがメンバーから続々届く。
普段からまじめにやっておいてよかった、と胸をなでおろす。この分だったら、明日から挽回すれば実験も追いつくだろう。
安心したら、急にめまいを感じ、体育座りをしていた膝頭に額を押し付ける。
「解決した?」
顔を伏せたまま、紗奈はこくこくと首を縦に振った。
「じゃ、パンケーキ焼いてあげるよ。……焼いている間に、着替えてきたら?」
遠慮がちに付け加えられたカイトの言葉に、自分の姿を改めて見下ろして、紗奈は飛びあがる。
バスローブ一枚じゃん!
「服は洗面台の棚の上に置いてあるらしいよ。貴臣がソフト乾燥で乾かしておいたみたい」
言い終わるか終わらないかのうちに、紗奈は光の速さでリビングを飛び出して洗面所に向かった。
「恥ずかしがるようなことかねぇ、やっぱ」
そんな紗奈の背中を見つめ、カイトは軽く肩をすくめる。
モデルとして活動しているカイトは、人前でも着替えることが当たり前なので、今一つ紗奈の恥じらいを理解できなかった。
カイトは手際よくパンケーキを焼いていく。
そのうち、着替えて薄くメークした紗奈がリビングに再び入ってきた。
それだけで、思っていた以上の美女になっていることにカイトは目を見開いた。が、それ以上のリアクションは自制した。普段なら口笛ぐらい吹いてしまうカイトなのに、なぜ自制をしたのか、カイトは自分のことながら一瞬戸惑った。
が、あっという間にいつものちゃらんぽらんなカイトに戻る。
「ハイお姫様、どうぞ」
「お店みたい」
華やかな声ではなく、気後れしたような声を出す紗奈に、カイトは目を細める。
「紗奈ちゃんみたいな子が行くおしゃれカフェには、かなわないよ」
二の腕内側の根性焼きの痕。
それを思い出しながら、少し鎌をかけるような返答を投げてみる。
「そんなお店……いけません」
小さな声でポツリ、と紗奈がつぶやく。
やっぱり。カイトは想像通りの回答に内心眉をひそめるが、おくびにも出さない。
「そう?とりあえず味みてよ」
紗奈のつぶやきなど聞こえないそぶりで、さらに能天気な声を出して、紗奈にパンケーキを食べるよう、カイトは促した。
きれいな焼色がついたパンケーキには、ベリーとホイップクリームが添えられている。小さなココットに入ったメープルシロップもあり、ふんわりと甘い臭いを漂わせている。
紗奈はおずおずと手を出すと、メープルシロップをかけ、そのまま一切れ口にする。
パンケーキのふわふわな食感をかみしめると、メープルシロップがしみだして口中に甘みが広がる。
こんなパンケーキ、食べたのいつぶりだろう?
子供の頃、おばあちゃんに焼いてもらったのが最後か……あのときは、ホットケーキだったけど。
そんなことを思い出すと、鼻の奥がツンとして喉の奥に熱い塊がせりあがり、パンケーキをうまく呑み込めなくなる。胸を押さえて激情が去るのを待っていると、カイトがさりげなくアイスコーヒーのグラスを持ってきた。
「コーヒー、飲める人?」
ことり、と置かれたグラスを、紗奈は一つうなずくとコーヒーを一口飲む。
「おいしい……」
パンケーキを何とか飲み下すと、紗奈の口から思わず本音の感想がこぼれる。
「そ。よかった」
カイトは自分のアイスコーヒーをもって紗奈の斜め前の席に座る。
「あの……カイト、さん、は、食べないんですか?」
「あ、俺、節制が必要だから。気にしないで」
さらっと言うと、にこやかにコーヒーを一口飲む。
紗奈はそんなカイトの顔を始めてまともに正面近くから見て、その顔がとても整っていて、何より見たことのある顔だったことに衝撃を受ける。
「えっ、あの、海斗?」
「あ、漢字のほうで発音したね?ってことは、誰だかわかっちゃったか―」
海斗。
最近ブレイクしているモデル。これは一つ間違えたらもしや週刊誌ネタになるの?
紗奈の頭の中が様々な思考が駆け巡る。ひとつわかるのは、わたし、ここに居ちゃダメなんじゃないかしら?ということ。
紗奈の思考を読んだかのように、カイトが答える。
「ここにいて問題ないよ。だって、この部屋は僕の部屋じゃないからね」
「では、誰の?」
いやいや、会話に乗っている場合じゃない。一刻も早く立ち去らなければ。
そう思うのに、カイトの不思議な魅力でうっかり会話を重ねてしまう。
「昨日出会った、あの怖いお兄さんの部屋だよ」
「ご兄弟なんですね」
何気なくつぶやいた紗奈の言葉にカイトは反応し、視線を合わせるとカイトはにっこり微笑んでいった。
「違うよ。恋人」
チガウヨ、コイビト。
聞いた言葉は日本語のはずだが、紗奈は十秒ぐらいなにを言われたのか理解できず、フリーズする。
恋人って、もしそうなら自分がいるのはもっとまずいんじゃないか?いや、昨日からこっち、女性の影はない。しかもこの家は、昨日会った男性の家だって……
え、え、え?
「わかった?僕と貴臣が恋人。だから言ったじゃない、貴臣は女に興味がないって」
じゃぁ、ここにいてもプライベートな関係の方では、特に問題になることはないのかしら?
そう思った紗奈の心を見透かすように、カイトが意味深に笑う。
「でも、僕はバイセクシュアルだから、女の子も大好きだよ?」
とんでもない発言に、紗奈は飛び上がるほど驚く。
先ほどからの衝撃発言の連鎖に、紗奈の脳内の処理がついていかない。
しかも、改めてみるカイトは、モデルなだけにイケメンで、あえてなのか色気を漂わせて見つめてくる。
交友関係がもともと狭い紗奈にとってみれば、リアクションの返し方すらわからなかった。
固まる紗奈をみて、カイトはくすくす笑い出す。
「ごめんごめん、嘘じゃないんだけど、困らせることはしないから、安心して?まずはパンケーキ食べなよ」
突然緩んだ色気に少し安堵しながら、紗奈は言われた通りまずは目の前のパンケーキに向かい合う。
「あの、ごちそうさまでした」
立ち上がってお皿を下げようとしたが、その前にカイトがすっとお皿を持って行ってしまう。
イケメンなうえに気配り上手って、どんな恋愛強者なのよ。
内心つぶやくと、膝の上で組み合わせた手を握り締めた。
流されるままに、大学に休みの連絡を入れて、着替えて当たり前のように朝食をごちそうになってしまったが……
昨日のことを思い返すと、これからの身の振り方をきちんと考えないといけない。
昨日の親父との会食を台無しにしたのだ。母は怒り心頭で紗奈を見つけ出して、また叩き売ろうと躍起になっているはずだ。しばらく帰るのは危険だ。
かといって、ホテルに泊まり続けるようなお金はどこにもない。銀行にまとまったお金はあるが、それは大事な学費だ。
逃げることに夢中になってしまって、逃げたあとをどうするか、まったく考えてなかったことに、紗奈は今更気が付き、自分の迂闊さを呪った。
「ねぇ。違ってたらごめんね、君、家に帰れない状態でしょ?」
とつぜんカイトに図星をさされて、紗奈は飛び上がるほど驚く。
「ど、どうしてそれを?」
取り繕う、ということさえ忘れた。あっと気が付いて唇をかんでも遅かった。
「うーん。ごめんね。君の二の腕の内側。見れば、まあわかっちゃうよ」
思わず、紗奈は二の腕をおさえる。
知られたくない過去。いや、現在か。紗奈はどう説明すればよいのかわからなくなる。
「詮索はしないよ。こういう仕事しているとさ、仕事仲間の女の子、多いよ、君みたいな子」
思わぬ話に、紗奈は目を丸くする。華やかな世界の人たちには、悩みなどないと思っていた――。
「コンプレックスがあって、自分を見て見て~ってアピールできる子がのし上がるよ、実際。そういう子はたいてい、傷持ってるよね。おうちからのさ」
淡々と話すカイトの口ぶりに過剰な気遣いがなく、紗奈は少しだけ警戒を解く。
善良な人は、必ず言うのだ。「子供を愛さない親なんていないよ、あなたがお母さんのことを誤解しているだけだよ」と。
誤解であればどんなによかったか。
すくなくとも、紗奈は昨夜、50万円という金額で、母に処女を見知らぬ親父に売られた。これは覆せない事実だ。
「とりあえず、貴臣が帰ってくるまで待ってなよ。あいつ、今夜考えるって言ってたから。言ったことは守るやつだから」
紗奈はあやふやな表情で、ひとまず首を縦に振った。
怪しいといえば、かなり怪しい。
が、昨夜あの状態の紗奈。何かしようと思えば昨夜が絶好なチャンスだったはずなのに、紗奈を丁重に扱った事実を考えると、夜まで待っても大丈夫だろう。そう紗奈は考えた。
実際、拾ってくれた貴臣と言う人に、一言お礼も言った方がよい。
お礼を言う、というもっともらしい言い訳を思いつき、紗奈は無理やり自分を納得させる。
そしてなにより。
この二人なら守ってくれる、という本能に近い自信が紗奈の中にあった。
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