夢の岸辺で、君を選ぶ
三木さくら
本編
第一話 再会
第一話 再会(前)
ついてないときって、本当についていない。
雨脚が強まるなか、紗奈は壊れたビニール傘を地面に叩きつけた。
ビル風に煽られて、安物の傘はあっという間に壊れてしまったのだ。
安物、とは言っても、紗奈にとってはこれ一本もあれば立派に一食分の食事代になる。それだけの大枚をはたいて買ったのに、数時間しか持たずに壊れてしまったのかと思うと、よけいに腹ただしさが募った。
ひときわ雨脚が強まり、アスファルトにたたきつける雨音も強くなる。その雨音に負けじと、スマホが震える音が鳴り響く。
――お母さんからのスタ連だ。
見なくてもわかる。こんなに連打をしてくるのは、もう紗奈には母しかいない。
まるで、母の苛立ちを代弁するかのように、スマホはそのバイブレーション音を響かせ、存在を主張する。
期待したって意味はない。するだけ無駄。分かっているのに、スマホを見ることを止められない。
スマホの画面に浮かび上がったのは、怒りを表すキャラの連打、ずっと遡ると、金の無心の言葉だけが並んでいた。
カネ、カネ、カネ。
そんなにお金が欲しいなら、自分が体を売ればいいのに。
あんたまだ処女だよね?
と、気持ち悪い笑顔で聞いてきた母親のことを思い出す。
「カレシの友達がさあ、19歳の処女なら50万で買ってくれるって言うんだよ。アタシ、借金30万あるしさ、助けてよ。残りはアンタにあげるからさあ」
語尾を甘ったるく伸ばす、媚を売るような気持ちの悪い話し方が耳につく。
「食事だけで30万。寝るのはなしだよ。その代わり、あたしの取り分いらないから!」
まとわりつく母親を振り払って叩きつけるように宣言する。食事だけでは法外な価格に、殴られるかと身構えたのに、母親は満面の笑みで承諾した。
「わかった、わかった、あんたほどの美人なら、ディナーだけだって、30万いけるよ!持つべきものは美人の娘だよ。お店はあとで送るからね」
金が入るとわかった時だけの愛想の良さで、母親が紗奈にまとわりつく。
気持ち悪い。
母親を振りほどくと、紗奈はさっさと家を出た。母から逃げたいのもあるが、次のバイトに行かないといけないからだ。
稼がないと大学を続けられない。奨学金はフルで借りたが、理系の学部ではまだ足りない。授業以外は、脇目もふらず稼ぐしかないのだ。親は搾取するだけ。高校を卒業すれば成人だ、成人している子に教育費をかけるのはアホだと、母は常々豪語している。
けれど、大学を諦めれば、待っているのは母のような底辺の生活だ、と紗奈は思う。
こんな生活するくらいだったら、今無理が効く間にどうにか、人生立て直さなきゃ。普通の人生に這い上がって、母とは、縁を切るんだ。
なのに。
母親の存在は、障壁になるだけでなく、いつまでも地獄に誘い込む鎖のように紗奈に絡みつく。
この一回、この一回と金をくすねられる度に許してきてしまったが、もう本当にこれを最後にしなければ。
娘の処女を売るなんて、母親のすることか。
数日後、本当に母から、相手が待つというレストラン情報が送られてきた。
本気で、娘の処女を売るつもりなんだ……。
紗奈は唇をかみしめると、母の言うことを聞くのはこれが最後と決意して、「それらしい」装いをすると、指定されたレストランに向かった。
**
みなとみらいの、海が一望できるフレンチレストラン。情報だけでも高そうな雰囲気だったが、実際入り口にたってみたら、場違い感がすごかった。
急な夕立であわてて買ったコンビニのビニール傘が、急に異物感を主張する。
なるべく体に隠すようにビニール傘を持ち直し、待ち合わせで来たことと相手の名前をレセプションに告げる。
一瞥された視線、意味はないだろうとは思いつつも、みすぼらしさを見透かされたようで紗奈は身をすくませた。
しかしレセプションは優秀で、紗奈をお嬢様のように扱い、相手が待つ個室に案内してくれる。
「あの……お待たせ、しました」
『脂ぎった親父』と言えば、誰もが思い浮かべること間違いなしの容貌の50歳過ぎの男性が、すでにワインを嗜みながらそこにいた。
鷹揚に振る舞う相手の男性の言われるがままに、着席してワインを飲み、運ばれてきた食事に手をつける。
しかし紗奈には、すべてが砂を噛んでいるようにしか感じられなかった。
母には食事だけ、の約束で来てはいるが、まさか今目の前にいる相手がそれで同意したと信じるほど紗奈も
そもそも、食事だけで30万など、相場的にもありえないのだ。
なんなら、母は当初の約束通りに50万で処女献上のままにしていて、紗奈が放棄した取り分もがめつくいただくつもりさえ、あるだろう。
逃げないといけない。
デザートが運ばれてきてすぐ、コーヒーに機嫌よく、男性が口をつけた瞬間。
「あ、明日実験があるんでした!朝早いんで、もう帰らないと!」
と叫ぶと立ち上がり、バッグと傘を掴み、脱兎のごとく逃げ出す。
目論見通り、熱いコーヒーに口をつけた瞬間の男性は紗奈を制止する手を出せず、紗奈はその場から逃げ出すことに成功した。
このあとは、会計のやりとりなどがあるだろうから、その隙に少しでも離れておかないといけない。駅に行けば帰宅の男性と鉢合わせる可能性があるだろう。タクシーの中から見つけられても厄介だ。
雨のなか、駅の方向ではなく車も通らなさそうな道を探して走る。
風の吹く向きも気にせず走っていたら、傘が風にあおられ、簡単に壊れた。
なんなの。安物かもしれないけど、私には高かったのに。
腹立ち紛れに傘を地面に叩きつける。
もう親父も撒けただろう。どこかの駅に出るべく、ずぶ濡れのまま大通りの道を目指して歩く。
気が付くと、みなとみらいを抜けたらしく、街灯の光が少なくなっている。河口にかかる橋の上にいるらしかった。遠くに、観覧車のイルミネーションがにじんでいる。
そんなところに、母の怒りを示すかのように、LINEの通知のバイブレーションが鳴り響く。
スマホを手に取り通知窓を見ていると、怒りの表情のキャラがずっと続いていく。
親父から逃げ出したことが、早々に伝わっているのだろう。これはしばらく、母と暮らすアパートには帰れない。捕まえて、なんとか親父にもう一度献上しようと、母が手ぐすね引いて待っているに違いない。
紗奈はふと、周りを見渡す。
この場所、今の自分みたいだ。
左手側にはみなとみらいのまばゆいイルミネーション。右手側にはおそらく馬車道側にある明るい街灯。
でもここは、落ち込んだように暗い。
現実世界もそうだ。大学で一緒のみんなは、ほとんど裕福な家庭だ。彼女たちは裕福ではない、とは言うが、バイトが死活問題になる紗奈とは明らかに違う。衣食住に困らず、自分の楽しみだけに働く彼女たちに必死に合わせているが、紗奈の裏のこの苦境は誰もしらない。その部分は暗闇だからだ。
初夏だけど雨のせいで平年よりは低い気温が、濡れた紗奈の体から容赦なく体温を奪う。
寒い。痛い。
震え続けるスマホの電源を切ってバッグに入れると、かわりにバッグの底に忍ばせている薬のシートと、小さな水のペットボトルを一つ取り出す。
薬のシートは、どうしようもない時に逃避するための市販の咳止め薬だ。市販薬とはいえ、オーバードーズすると軽くトリップできる。ぎりぎりまで費用を切り詰めているから、何の娯楽も手にすることのできない紗奈の、唯一の逃避先だ。
逃避先とはいっても、最近は購入も難しいし、価格だって馬鹿にならない。本当にどうにもならないときだけに限っているが、さすがに今日のこの処女を親に売られた日は、使うにふさわしいわ、と自嘲気味に紗奈は思った。
錠剤をシートから取り出し、手の中の薬をすべて口に入れるとペットボトルの水で飲み下す。
空になった銀のシートを握り締めると、橋の欄干にもたれかかった。
意識が混濁する中、紗奈は自分の名前を呼びながら手を差し伸べる二人の人物を見た気がした。
……誰?
しかし、人影を捕まえることができないまま、やがて紗奈の体はずるずると崩れ始め、地べたに座り込んでいた。体の力が抜け、銀のシートたちが紗奈の手から滑り落ちる。
やがてまぶたも重くなってきた。遠のいていく世界が揺れ、雨のせいか、遠くのイルミネーションが滲んでいく――
**
大雨のせいか、みなとみらい線が止まったらしいぜ。
飲み会でにぎわうワインバーの中、一人の客が素っ頓狂な声を上げた。
本当か?というざわめきは広がるものの、そこまで大きな動揺にはならない。
みなとみらい線がとまったなら、ほとんどの人にとってはJRに回れば十分どうにでもなる土地柄だからだ。
だが、貴臣は違った。
貴臣の家はこのみなとみらいの隣の駅の馬車道。
この非常に近い関係性ゆえに、代替となる交通手段はほかにはない。歩いて帰る以外になくなるのだ。
だが――この大雨だ。徒歩十分ほどの距離だが、歩けばずぶ濡れになることは火を見るより明らかだろう。
なぜ大学時代のサークルの飲み会の日に、大雨になって電車事故が起こるのか。
考えても仕方のないことだが、こういう雨の日に苦労しないようわざわざ駅直結の物件を選んだことがあだとなり、貴臣は内心面白くなくなった。
もう少し店にいて様子を見ようにも、もう閉店時間だ。
腹をくくって、貴臣はJRに向かう一団と別れ、建物の外に出た。雨は、予想よりも激しく降っていた。
タクシーでも呼ぶか。
そう思ってタクシー配車アプリを立ち上げてみたものの、この短距離の客を歓迎するタクシードライバーもそうはいない。大雨ということも考えると、配車も時間かかるだろう。
靴も取り換え時だし、スーツもクリーニングに出せばよいか。
そう割り切ると、貴臣は傘を差し、みなとみらい大通りをまっすぐ北仲方面に歩き出した。しばらく歩くとみなとみらいを超え、川にかかる北仲橋に差し掛かる。ここまでくるとにぎやかさが消え、一瞬暗がりに落ちるが、そのころには視線の先に、住処であるタワーマンションが見えてくる。
人通りが減った暗がりの北仲橋を、雨から逃れるように足早に歩いていると、落とした視線の先に何か光るものが見えた。みなとみらい大通りを走る車のヘッドライトを受け、きらきらと不規則に反射している。
薬のシートだ。
すべての錠剤が取り出され、ところどころがちぎれ、くしゃくしゃになった銀のシート。薬を取り出して飲んだ後、一度強く握りしめたのだろうか?
そこから視線を先に移すと、欄干に背中を預けて座り込んだ娘が見えた。雨に打たれて、もうずぶ濡れだ。ノースリーブの腕の白さがやけに目についた。
オーバードーズして、キマったところ、か。
しかしなぜこんなところで。普通トーヨコでやることなんじゃないのか。
不審に思いながらも、一言、声をかけた。
「こんなところで座り込むのは、危険だぞ」
そして、そんな声をかけた自分を、貴臣は不思議に思った。普通なら見て見ぬふりをして通り過ぎるところだ。なぜ、声をかけたのか――
だが、考える間もなく、娘が顔を上げた。瞳の焦点が合っていない。こちらを認識しているのか、怪しいものだ、とそう思った瞬間、娘が震える手を差し出してきた。
「助けて、お願い……」
それは、聞こえたかどうかわからないほどの、震える細い声。
だが、貴臣の耳には不思議なほどはっきり届いた。
貴臣は、震える娘の手を取る。雨に体温を奪われ、ひんやりと冷たい。
「少しは、歩けるか?」
娘はかすかにうなずく。その顔に、誰かの顔がダブった気がした。
一瞬のことで、貴臣はすぐに首を横に振って自分に喝を入れる。
貴臣は娘の脇に自分の肩を入れて立たせると、腰に手を回して体を支える。
空いている片手で、落ちている娘の物と思われるバッグを持って傘を持ち直し、北仲タワーへ向かって歩き出す。
意識がもうろうとしていそうな割には、娘はそれなりに歩いてくれ、北仲タワーまで歩き切ることができた。
エレベータで上階に上がり、何とか自分の家にたどり着く。
玄関のドアを開けた時、奥からカイトがひょっこり顔を出した。
「おかえりー」
「お前は何でサークルの集まりにこないんだ」
「えーだってダルいじゃん。って、誰それ」
「北仲橋に落ちてた。ちょっと手伝え」
「はぁ?」
それでもカイトは律義に紗奈に近づき、靴を脱がせる。
貴臣は手にしたバッグを玄関の上り口すぐに置くと、そのままの体勢で紗奈を家に入れ、洗面所に向かう。
ひとまず娘を床に座らせると、貴臣はジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩める。
「体が冷えてる。熱いシャワーを浴びて体を温めろ。服は一人で脱げるか?」
まだ朦朧としているせいか、何を言われているのか認識していないような顔で娘は貴臣を見上げる。
貴臣は内心舌打ちをすると、娘の服のボタンに手をかけた。
娘は胸元を押さえると、反射的にか、後ずさりする。
「暴れるな。俺は女に興味はない。とりあえず俺を医者と思え」
焦点の合わない瞳でしばらく貴臣を凝視すると、一気に力を抜いたのか、両腕がぱたり、と下に落ちる。
なんとか服を脱がせ、娘を浴室に入れると、服を脱水し、そのあとソフト乾燥コースで乾燥にかける。
その間、浴室から水音が聞こえてきていたので、シャワーを浴びる程度には意識は保たれているのだろう。
それを確認すると、引き出しから新しいバスタオルとバスローブを取り出して棚に置く。
「おい」
一声、声をかけるとシャワーの水音が止まった。なるほど。聞き取れてはいるのだな、と妙に感心しながら貴臣は言葉をつなぐ。
「バスタオルとバスローブは置いてある。終わったら使え」
それだけ言うと、脱ぎ捨てたジャケットを拾い、自分用に新しいバスローブを取り出し、洗面所を後にした。
そのまま寝室に入り、濡れた衣類を全部脱いで素肌の上にバスローブを着ると、リビングにでる。
リビングでは、カイトがソファに寝転がってゲームをしている。
貴臣がリビングに入ってきた気配を感じたのか、カイトがイヤホンを取って顔を向けてきた。
「女の子を拾うなんてどういう風の吹き回し?」
「オーバードーズをしていたんだ。ひとまず、拾わないと目覚めが悪い」
「へー」
信じていません、と言う顔をしてカイトは片方の眉を上げる。
モデルをやっているだけに、そういう表情がいちいち決まる。貴臣にはそれが腹立たしい。
「風呂が空いたら、俺はシャワーを浴びてそのまま寝る。カイト、彼女の面倒見てやれ。得意だろ?」
かちゃり。ドアが開く音がして、リビング入り口のドアが開く。
貴臣とカイトが反射的にそちらを向くと、まだふらつくような足取りで娘が入ってきた。
「あの、ありがとうございます」
「いやいや、いいんだよ、まず座ったら?」
なんだかんだ言いながら、カイトが生来の如才のなさを発揮して娘に近づき、手を取るとさっきまで自分が寝転がっていたソファに娘を座らせる。
「どうしたの。あの怖い兄さんになんかされた?」
「いえ、あの……」
まだ、答えるほどには意識ははっきりしていないらしい娘を見て、貴臣は明後日の方向を見てため息をついた。
「俺が女に何かするわけないだろう。礼もいらないから、ひとまずそのソファで眠らせて、明日になったら帰らせろ」
そう言って、自分がシャワーを浴びようとリビングを出ようとしたその時。
「なぁ、貴臣」
普段はふざけ気味なカイトの真剣な声が響く。その響きにつられて、貴臣は思わずカイトを見る。リビングまで確かに一人で歩ける状態ではあったが、温まって安全な室内のソファに座った安心感に包まれたせいなのか、もう気を失ったかのように娘は眠りに入っていた。
「この娘、傷だらけだぜ」
そう言って、カイトは眠っている娘を起こさないよう、注意を払って左手首を貴臣にそっと示す。
「リストカットの痕、か……オーバードーズしてたんだ、想定の範囲内だろう」
「でもさ」
といって、さらにカイトはバスローブの袖をめくる。そこにある二の腕の内側には、無数のいわゆる『根性焼き』の丸い痕がついていた。さすがに貴臣も息をのむ。
「これは、自傷じゃないぜ。この
俺は、うっかり厄介なものを拾ってしまったのかもしれない。
内心、激しい後悔に襲われるが、口から出たのはまるで逆の発言だった。
「なら、明日の朝事情を聴いておけ。明日夜、帰ったら考える。それまでこの部屋に置けばよい。近いうちに、この
意外な返答にカイトは目を丸くしたが、貴臣自身がなぜそんなことを言ったのかがわからなかった。
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