34.
「あの夜。ツレとシオリを連れて夜中に街をぶらついていた時、鍵がかけっぱなしで路駐されているバイクを見つけたんだ。俺は、いいオモチャを見つけたくらいの気持ちで、何も考えずにそのバイクにまたがった。後ろに乗れよって、シオリを誘ってさ。
……少し走って遊んだら、すぐ適当なところに捨てるつもりだったんだ。でもシオリが、もっとスピードを上げようって、俺を煽ってきた」
ショウタの声が不安定に揺れていた。
「これ以上はヤバいってわかってたよ。でも俺は、女の前でダセェ恰好したくないっていう、そういうくだらないプライドが邪魔して、アクセルを緩めることができなかった」
僕の前で、いつも強く振舞っていたショウタが、はじめて、内にある弱さを吐露していた。
「意識が戻った時、俺は病院のベッドの上だった。近くにいたのは家族じゃなくて、見慣れない強面のオッサン、カオリたちの父親だった。あいつは淡々と言ったよ。今回の事故でシオリは死んだことにする。バイクに乗っていたわけではなく、被害者の方だったことにする。このことを決して口外してはいけない。口止め料は出す。このことを誰かに言ったら、医療器具メーカーであるお前の父親の会社の発注を、差し止める――って。
正直、わけわかんなかったよ。シオリを死んだことにするとか、このオッサン、何言ってんだろうって。俺がぽかんとしている間に、シオリの父親はすぐに部屋を出て行った。代わりに入ってきた親父が、いの一番に俺に向かって頭を下げた。
驚いたよ。俺の前で弱気なんて一切見せず、俺が何をしても怒鳴りつけるような父親だったからさ。息子の俺に頭を下げるなんて信じられなかった。須永医院とのパイプがなくなったら、会社は潰れる。社員が路頭に迷う。だから、言う通りにしてくれって、親父、マジな顔で言うんだ」
ハハッと空笑いを漏らして。
「俺、何も言えなくてさ、急に、自分の存在がひどくちっぽけで弱っちいように思えたんだ。今まで、この世に敵はいねぇみたいなツラしてた癖に、自分がただの世間知らずのクソガキだってことに、気づいた」
ショウタが僕を見る。すがるような目つきだった。
「ダイスケ、ごめんな」
体の奥底から搾り出したような声音。
「俺はお前に協力する振りして、その実ずっと騙してた。途中で諦めてくれねぇかなって、何度も思ったよ。俺は、自分がバカだったせいで、シオリの人生を台無しにした。だから、今度こそアイツを守らなきゃって、必死だったんだ」
――何かできたはずなのに、何もできなかったなって、あとで後悔するのが嫌なんだよ。
あの言葉の本当の意味は、そういう。
「……謝らないでよ」
ショウタの顔を見ていられなかった。
「カオリもショウタも、シオリのことを考えつづけているじゃないか。カオリたちの父親とは違う。自分の利益や立場のためじゃなく、人のために、吐きたくもない嘘を吐いたんだ。僕は騙されたなんて、思ってない」
「そんな、恰好いいもんじゃねぇよ」
へらっと笑って、ショウタが漏らす。
「俺は、ずっと耐えられなかった。あの時、くだらないプライドにこだわってアクセルを緩められなかったこと。ずっと後悔してた。だから、シオリのためじゃない。自分のためなんだ、俺は、罪悪感から逃れるために、カオリに協力してお前を騙していた。そうしている方が楽だったから」
「それは、私もです」
それまで押し黙っていたカオリが、口を開いて。
「贖罪といえば聞こえはいいですが、私も、結局は自分が救われたいだけ。『シオリのため』という免罪符を盾に、後悔に苦しむ時間から逃げたかった。シオリのことも、父のことも、家のこともすべて忘れて、誰も私のことを知らない世界に行けたらどんなに楽なんだろうと、何度そう思ったのかわかりません」
なんだ、そうなんだ。
みんな夜中の世界を求めている。
夜中は、僕だけのものじゃなかった。
みんながそれぞれ、自分だけの夜中を、心の中にこっそりと有している。見えないところで、時折その場所に身を潜めて、帳尻を合わせているんだ。
どうしようもなくやってきてしまう朝に備えて、自然と笑えるように、心をチューニングしている。
シオリのお母さんは、それを僕に教えてくれたんだ。
シオリ、シオリは。
「あのさ」
気づけば声をあげていた。二人が僕の方を見る。
「なんとかして、シオリを助けられないかな。地下室から彼女を解放する方法、ないかな」
「はっ?」
ショウタが、信じられないといった顔で返す。
「お前、さっきのカオリの話、聞いてたのか? 夜中にシオリを家から連れ出したところで、カオリたち父親が黙ってるわけねぇだろ。すぐに見つかって連れ戻されるばかりか、お前がシオリの存在を知ってることが耳に入ったら、シオリの命が危ないんだぞ」
「わかってる。わかってる、けど」
――ダイスケは、水族館の魚たちを、羨ましいと思う?
彼女は僕にそれを訊いた。
自分では自覚していないかもしれない。でも、彼女の身体は、すべてをはぎとった後に残るシオリの核はきっと、『生きる』ことを求めている。
「僕は彼女に、誰よりも自由であって欲しい」
夜中の世界を飛び出して、太陽の下を自由に泳いで。
「同情心や正義感じゃない。自分の罪に対する罪悪感でもない。ただ僕は、彼女にそうあって欲しい」
彼女に、生きて欲しい。
「これは僕のエゴで、わがままみたいなものだ」
それは、命があってただ存在するという意味ではない。
五感を感じて、今その時にあるものを目いっぱい味わって。
シオリにそういう人生を、生きて欲しい。
「シオリもきっと、そう望んでいるはず」
僕は、彼女のそんな姿を近くて見ていたい。
自由奔放に、踊るように笑う彼女を。
「勝手なこと言わないでください」
そう言ったカオリの表情はいつになく険しく、怒りに満ちていた。
「シオリが、どんな思いで地下室に閉じ込められることを受け入れたのか、わかってるんですか。彼女は、自分の犯した罪を深く後悔し、自分自身をずっと責めつづけています。だからこそ自由を手放すことを決意したんです。その葛藤は、誰かが勝手に想像していいものではありません」
「その通りだよ」
本当に、その通りだ。
「シオリが何を思ってるのかなんて、僕にはわからない」
僕はシオリと、まだ対話をしていないから。
「だったら、シオリが今何を考えているのか、彼女が本当は何を望んでいるのか。勝手に想像するのも、僕の自由だろう」
僕は、他人が僕のことを勝手に想像し、詮索されるのが嫌いだった。ノイズに感じていた。
けど、まわりからしてみれば、そうする他なかったんだ。
僕が、自分から何も発信しなかったから。夜中の世界に閉じこもったままだったから。
「なんですか、それ」
呆れたようにカオリが漏らす。
「まるで、シオリが言いそうな台詞」
でも同時に、口元が少し緩んでいた。ふいに空を見上げて。
「私もはじめから、そんな風に、考えられたらよかったのでしょうか」
憑き物の取れたような顔で、カオリが眩しそうに目を細める。
「自分で勝手に自己完結するのではなく、シオリと最初から、ぶつかっていれば」
普段の、他者を寄せ付けない冷たさは感じられない。少女然とした快活さが、カオリに芽吹いていた。
「まだ、間に合いますか」
カオリが言う。
「シオリを本当の意味で救うことが、できますか」
「そういうの、考える前にやっちゃった方が、案外うまくいくんじゃないかな」
自分の言葉とは思えないほど楽観的な台詞に、自分で驚く。
意外そうに目を丸くしたカオリが、くすっとこぼした。
「そういう、ものなのかもしれませんね」
一つ結びにしていた髪をほどくと、幾千の糸が乱暴に乱れた。うねりをあげ、一つ一つに生命が宿っているように、躍動する。
きっと彼女は今、仮面を投げ捨てたんだろう。カオリは、自分が須永香織であることを、はじめて認識したんだ。
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