30.
「それは、その、違くて」
カオリは、焦点が合わない目をさまよわせていた。無表情で落ち着いているいつもの面影はまるでない。
見ていられなかった。でも、ここで止めるわけにもいかない。僕はさらに追及しようとして、
「やめとけ」
馴染みのある声が差し込まれた。
声のした方に顔を向けた。すぐ斜め後ろに設置されている個室トイレの陰から、ショウタが姿を現す。
「何で、君がここに」
僕が問うと、ショウタはばつの悪そうに視線を落とし、頭に手をやった。嘆息を漏らして。
「今日が姫咲の学園祭だってことは、カオリから聞いていた。もしお前が来たら俺に連絡して、ダイスケにはこの公園に来るよう伝えろって、事前に言っておいたんだ」
カオリちゃん、ではなく、カオリ。
「ダイスケ、お前の言った通りだよ」
興が醒めたような顔をしていた。持ち前の快活さが、そこにはない。
「三文字の書き字の『果生莉』は、俺とカオリが作った架空の名前だ。カオリは最初から一人、今そこにいるカオリだけ。Facebookの偽造も、俺のダチに姫咲の生徒の振りをさせてたのも全部、お前が見立て通りだ」
「ショウタ、さん」
カオリがおずおずとショウタに顔を向けた。彼もまたカオリを見て、「もう、いいだろ?」と諭すように言った。
ショウタが僕に近づく。ポケットから一枚の写真を取り出し、僕に手渡した。僕は何も言わずその写真を見やる。
夜の街で若者がはしゃぎ、カメラに向かってファックサインを決めていた。真ん中にいる赤髪の少年はショウタだろうか。今より少し若いけど、メンチの切り方に覚えがある。端っこには紅一点、見慣れたスカジャンを纏った女の子が一人。遠慮がちな表情で仲間たちと同じポーズをとっていた。
「三年前の、俺とカオリだよ」
僕の手から写真を取り上げたショウタが、懐かしそうにそれを眺めた。
「俺さ」
ふいに言って。
「一回目の高校生、うまくいかなかったんだよ。頭悪いくせに身の丈の合わないとこ、受かっちゃってさ。学校の連中と気、全然合わなくて。サボる日が段々と増えていった。当然、出席日数が足りなくなるわな。留年する気にもなれなくて、一年も立たずに退学だ」
へらっと笑う。
「同じような奴、地元のツレに何人かいてよ。そいつらと夜遊びばっかするようになった。家に居づらくてさ。金もねーから、ぶらぶら街歩くだけだったけどな」
弱さをあえて曝け出すような表情に、嘘は感じられない。
「カオリを見つけたのはそんな頃だ。日をまたぐくらいの時間だったかな。コンビニの前で一人ポツンと女の子がいるもんだから。まぁ声かけるわな。ナンパみたいな軽いノリでよ。まさか病院長のお嬢様だなんて、そんときは知らずにさ」
僕はカオリに目をやった。顔を伏せたまま、彼女がちらとこちらに視線を寄越す。それまで押し黙っていた彼女が、ぽつぽつと言った。
「以前にも話したように、須永家に産まれた人間は、相応の教育と振る舞いを要求されます。そこに、本人の意志の介入は許されません。一切の疑問を抱かず従順に令嬢を演じるのが正しさであり、すべてなんです」
諦めたような口調。
「幼いころは、それが当たり前だと思っていました。でも、年齢を重ね、外の世界を知り、他人と自分を比較することが増えてきて、私はだんだん、家のしきたりに息苦しさを覚えるようになったんです」
少し、言葉に熱がこもっていた。押さえ込もうとしている感情が、わずかに溢れ出ているような。
「その気持ちが爆発したのが、中学二年生の時。ある日の夜中、親や使用人の方々が寝静まったのを確認してから、ネットで購入した不良っぽい服に変装し、家を飛び出しました。一晩だけでいい、私は、私ではない誰かになって、自由を味わってみたかったんです」
それまで陰鬱そうに顔を伏せていたカオリが、目を輝かせ、宝物を自慢する子どものような表情を作る。
「飛び出したはいいものの、夜の外出に鳴れていない私は、どこに行っていいのかてんでわかりませんでした。人気のないところは怖いので、結局、車道沿いのコンビニの前でうずくまるのが関の山。そんな私を見つけたのが、ショウタさんです。
急に声をかけられて、最初は怖くて逃げだそうと思いましたが、足が震えてそれすら無理でした。けど、ショウタさんはしゃがみこんで、優しくゆっくり、会話のペースを合わせてくれました。次第に緊張がやわらぎ、気づけば私は、家で感じている窮屈さや、自由になりたい気持ちを、洗いざらいすべて話していました」
ショウタが、視線を外してこぼす。
「不憫に思ってよ。金持ちの家に産まれたってだけで自由に生きられないなんて、かわいそうだなって。だから、せめて夜中の間だけは、この子にバカをやる楽しさを味わってもらいたい。俺はそう考え、カオリを仲間に入れたんだ」
夜中。
その言葉だけが色濃く、頭に響いた。
「一晩だけでいい。最初はそう思っていましたが、その一晩の冒険は、あまりにも開放感に満ちていて、人生の見方が変わってしまうほど刺激的な体験となりました。結局私は次の日も、また次の日も、夜中に家を抜け出してショウタさんたちと落ち合うようになりました。
深夜のファミレスでのおしゃべり。大人たちに混じって繁華街を歩く高揚感。声をかけられた警官の方から逃げるスリル――口にしてしまえば他愛ないことばかりですが、それまで、家の外を知らなかった私にとって、それらの時間は普段の窮屈さを忘れられるくらい愉しい時でした。……けれど」
カオリの表情が陰る。
押し黙った彼女に代わって、ショウタが言う。
「ある時、駅前をぶらつくカオリの姿を、彼女の父親の部下に、見られちまった。その日以来、カオリはより厳しく監視されるようになり、家を抜け出すチャンスが与えられなくなった。スマホの中身もチェックされ、俺の連絡先は消された」
「それだけじゃありません」
面を上げたカオリの表情は毅然としていて、静かな怒りが表れている。
「父はショウタさんに対して、脅迫まがいな圧力をかけたんです」
「……圧力?」
物騒な言葉に思わず訊き返すと、ショウタが苦々しい表情でつづけた。
「俺の親父、医療器具メーカーの社長やっててさ。社長といっても社員十人程度の小さい会社だけどな。須永医院はお得意様なんだ。俺のことを調べ上げたカオリの父親は、これ以上娘につきまとうようなら受注を差し止めるって、そういう脅しをかけてきやがった。須永医院から切られたら会社は潰れちまうって、親に泣きつかれてさ、俺は、従う他がなかった」
――何かできたはずなのに、何もできなかったなって、あとで後悔するのが嫌なんだよ。
ショウタの言葉を、ふいに思い出した。
「その件があって以来、当然、父の監視は以前よりもいっそう厳しくなりました」
カオリが再び、口を開いて。
「学校やお稽古事を除き、父との同伴なく外出することを一切禁じられました。スマホのGPSで、私がいる場所を常に家政婦の方にチェックされ、学校帰りの寄り道一つできなくなりました。閉鎖的で変化のない毎日を強いられ、私は孤独を、日増しに感じるようになった。ショウタさんたちと過ごした楽しい日々を思い出しては、同時に、それがもう敵わぬことに虚しさを覚える。独りぼっちの部屋で、何をするでもなく漫然と過ごす日が増えました。……そんな折」
ふいに彼女が、何かを見つけたように顔を上げる。
「私は思い出しました。数年前に亡くした、母の言葉を」
僕は想起する。あの人の顔を。
「もしあなたが辛くなった時、幼い頃によく通っていた、あの公園に夜中訪れてみて」
そして重なる。カオリの声が。
水族館で彼女が言っていた、あの人の言葉が。
「頬に、大きなアザのある男の子がいたら、その子はきっと、あなたのことを助けてくれる」
気づけばカオリは、僕の顔をじっと見ていた。
そこにいつもの無表情はなかった。目を潤ませ、泣き出しそうな子どもみたいな顔をしていた。彼女はものを言わず、でも僕に何かを求めている。
「私はじっと耐え忍び、父の監視が緩まるのを待ちました。そして、高校に上がってからしばらく経ったある日、出張で父が不在なのをチャンスとばかりに、夜中、私は久しぶりに家を飛び出しました。当時購入した不良っぽい服に、袖を通して」
淡々とした口調。でもその声は震えていた。
「母に言われたその公園を訪れ、しかしそこには誰もいませんでした。その時は、そこまで落胆しなかった。だってそんな都合の良いことが起きるわけないって、自分の心に保険をかけていたから。代わりに私は、地べたでのんびりしている二匹の猫を見つけ、しゃがみこみ、声をかけました。すると、その猫たちからではなく、背後ろから返事が返ってきたので、びっくりして振り返りました」
くしゃりと、いよいよ破顔したカオリが言う。
「ダイスケさん。……ううん、ダイスケ」
仮面がはがれ落ちたように、カオリの表情が一変する。
無邪気でくったくのない笑顔が、顔いっぱいに広がっていた。
「『夜中のカオリ』も、『夕方のカオリ』も、どこにもいないの。だって、そのどちらも、『私』だったんだから」
大粒の涙が、彼女の頬に流れる。彼女はそれを隠そうともせず、今ひとたび頬を引き伸ばして笑った。
「夜中の公園で、あなたの前で見せていた子どもみたいな私が、私の本当の姿。普段の私は名家のお嬢様という仮面をつけて、違う自分を無理やり演じている」
カオリは演技が得意だ。
舞台上で、忖度のない拍手喝采を浴びるくらいには。
「すぐに逃げてしまおうかって、最初は迷った。でも、私はそうしなかった」
両手を後ろに組んだカオリが、目を伏せながら言う。
「私のことを知らないあなたは、私を須永家のお嬢様ではなく、一人の女の子として接してくれた。私はそれが嬉しくて、この人にもう一度会いたいって、そう思っちゃったの」
夜は、私を放っておいてくれるから。
私のこと、知ろうとしないから、私に干渉しないから――
徐に口を開いたショウタが、声を継ぐ。
「ダイスケ、お前がバイト中に制服姿のカオリに会った時、近くに父親がいたろ。夜中にまた抜け出していることがバレたら、今度こそ家に縛り付けられる。だからカオリはあの時、お前を知らない振りをしたんだ」
カオリが目を伏せながら言う。
「私、すっごく悩んだ。このままダイスケに会いつづけたら、ショウタの時みたいに、あなたに迷惑をかけちゃうかもしれない。そうなるのはイヤだった。だから私、決めたんだ。もうダイスケに会うのは止めよう、その日を夜を最後にして、あなたの前から姿を消そうって。そうすれば、ダイスケ、私のことなんてすぐに忘れるだろうなって思ってた、でも」
寂しそうな、呆れたような、少し嬉しそうな。
ないまぜされの感情がカオリの表情にそのまま表われ、彼女は困ったように笑った。
「まさか、学校までやってくるなんて思わなかったよ。私、びっくりした。咄嗟に冷たくしちゃったけど、内心はドキドキしてたんだ。そこまでしてくれるなんて、嬉しかったけど、でもどうしようって、まいっちゃった。一人で途方に暮れていたとき、私の前にショウタが現れた」
「お前と一緒に姫咲に行った時、すぐにわかったよ。服装や雰囲気は違えど、あれはカオリだって。俺は、あの場からいなくなった振りして、実はお前とカオリがバス停で話してんの、離れて見てたんだ。その後カオリを捕まえて、ダイスケのことを訊いた。
……あとは、お前がさっき言った通りだ。ダイスケのこと、どうすればいいかカオリに相談を持ち掛けられて、俺たちは幽霊の話をでっちあげた。真実を隠したまま、お前に納得のいく結末を与えようとしたんだ。『夜中のカオリ』が死んでることにすりゃあ、さすがに諦めるだろうと思った。実際は、そうならなかったけどな」
ショウタが肩をすくめてつづける。
「前に、言っただろ? 真実を知ったところで、どうにもならないこともある。カオリの住む世界は、俺たちとは全然別の場所にあるんだ」
「ショウタの言う通り。私が須永家の人間である限り、自由を手にすることはない。ダイスケと一緒になることもできない」
決意めいた目を、僕に向ける。
「だから、だからね」
大舞台で一人、スポットライトを一身に受け、堂々と一人語りをするように。
「私は、須永家の人間であることをやめる」
その発声が、僕の脳をぐわんと揺らす。
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