13.
「僕はカオリと、夜中に毎日会っていて、明け方まで一緒にいた。けど、夕方、百貨店のレストランフロアで会った時に君は、僕を覚えていないと言った。君もまたカオリという名前で、夜中に会っていたカオリと、顔もそっくりなのに」
思考も吟味もないまま、声を垂れ流す。
「君は本当に、夜中に僕が会っていたカオリ……『夜中のカオリ』とは別人なのか? 本当は僕のことを覚えているのに、何か事情があって知らない振りをしているわけではないのか?」
虚ろな目で、すがるようにカオリを見ていた。カオリもまた、先ほどと変わらぬ細い目つきを僕に向けている。蔑むような瞳に、憐みの色が混じったような気がした。
「何度訊かれても同じです。私はあなたのことを知らない」
カオリがふいっと、僕から視線を外す。
「私の家は厳格で、夜の外出を禁じられているんです。夜中に家を抜け出し、公園に出かけるなんてことできません。ましてや、男の人と毎日会うなんて、もってのほか。……ありえないことです」
僕ではない場所に目をやったまま、カオリは口をつぐんだ。これ以上会話を重ねる必要はないと、迂遠に僕にそう伝えている。
「……そう」僕は脱力して、これ以上の追及を諦めた。
やっぱり、『夕方のカオリ』と『夜中のカオリ』は別の人物。そう結論づけるしかない。
カオリが僕に嘘を吐いていなかったことに安堵すればいいのか、『夜中のカオリ』に関する手がかりを失ってしまったことを憂えばいいのか。感情の置き所がよくわからなかった。
「同じことをしつこく訊いて、ごめん」
「いえ、私の方こそごめんなさい。力に、なれなくて」
僕に視線を戻したカオリが、萎れたように言う。
「そんなこと。それに、この間はありがとう」
「この間?」
「いきなり話しかけたりして、一緒にいた人にだいぶ怪しまれていたから。君の機転がなければ、あのまま警備員を呼ばれてもおかしくはなかった」
「ああ、いえ」思い出したような声で。
「あの場ではむしろ、父が失礼な態度をとってしまい、すみません」
カオリが殊勝に頭を下げる。
やっぱりあの男性は、カオリの父親だったのか。あの時のカオリの従順な姿勢を見るに、父娘の関係が絶対的なものであろうことは察しがつく。家が厳格という彼女の発言とも繋がった。
君が謝ることじゃない――それを言う前に、遠くから聞こえて来た車の駆動音に意識がいった。その音が徐々に近づき、僕たちの前にバスが止まる。
「話は、それだけですか?」
「えっ? ああ、うん」
「では私はこれで」
淡々と言ったカオリはそのままバスに乗り込み、自動扉が閉じられた。カオリを乗せたバスが、無機質な足取りで僕から離れていく。僕一人残されたその場所に、静寂が凪いでいた。
スマホを取り出し時間を確認する。急げば授業の開始にギリギリ間に合いそうだけど、今は座学に取り組む気にとてもなれなかった。遅刻を甘んじることにして、僕はのんべんだらりと、駅に向かって歩を進める。足は動かしているものの、意識は思考に支配されていた。
『夕方のカオリ』は僕のことを覚えていない。というか、彼女の言葉をそのままうのみにするなら、覚えてないのではなく、そもそも知らないってことになる。
少し、引っ掛かっていることがあった。僕は足を止める。
『夕方のカオリ』が僕を知らないということは、彼女の視点に立てば、見ず知らずの男に急に話しかけられ、覚えのない妄言を突然言われた形になる。相手からするとかなり気持ち悪いエピソードだ。実際、最初に会ったときの『夕方のカオリ』は、困惑した面持ちで、僕のことを宇宙人でも見るような目で見ていた。
でも、さっきはどうだろう。
再び目の前に現れた頭のおかしな男。一般的な女子高生にとって、その邂逅は恐怖体験以外の何物でもない。その割に、彼女の態度はいやに毅然としていた。
僕を警戒こそしていたものの、僕がこの場所にいることの不自然さをまず問いただし、自分が夜中に家を抜け出せない理由についても、得々と僕を諭して見せた。困惑している様子はなく、彼女は終始冷静だった。単純に、あまり物怖じしない性格ってだけなのかもしれないけど、それにしても、
――私の家は厳格で、夜の外出を禁じられているんです。夜中に家を抜け出して、公園に出かけるなんてことできません。
咄嗟に出た言葉とは思えないほど、彼女はスムーズに言った。
まるで、そう訊かれてることを事前にわかっていたみたいに。
「……あれ」
ある違和感が、閃光のように脳裏をかすった。
記憶にあるカオリの台詞を、何度も頭の中で想起させる。同時に、自分自身が放った言葉にも。
「……言ってない」
心音がドクドクと高鳴る。慎重に、記憶のピースをパズルのようにあてはめていく。
改めて考えても、やっぱり言ってない。
カオリとは夜中に毎日会っていて、明け方まで一緒にいた――僕は『夕方のカオリ』にそう言った。それしか言ってない。
公園で会っていたなんて、一言も言ってないんだ。
けど、『夕方のカオリ』は確かに言った。そのワードを口に出していた。公園という言葉を。
それってつまり、僕と『夜中のカオリ』しかしらない情報を、『夕方のカオリ』も知っていたということになる。
「……やっぱり、カオリは僕に何かを隠している?」
『夜中のカオリ』が消えたきっかけは、僕が『夕方のカオリ』と出会ってしまったから――昨日、ショウタと話した時に感じた直感が、その違和感とリンクする。二人には、何か関係があるのだろうか。それとも、本当はやっぱり同一人物?
……わからない。これ以上一人で考えても、頭がこんがらがるばかりだった。ショウタ、ショウタに相談したい。そういえば、どうして急にいなくなったんだろう。カオリを目にしたときの彼の態度は明らかに不審で、見てはいけないものを見てしまったような表情をしていた。
まるで彼女の存在自体が、信じられないとばかりに。
――私、本当は、いちゃダメなんだ。
かぶりを振る。
わからないことだらけでおかしくなりそうだ。僕はこれ以上何かを考えるのを止め、駅に向かって再び歩き出した。
結局、一時限目を丸々さぼり、僕は二時限目の開始前にのこのこ教室に入った。そういう生徒はちらほらいるので、周りが気に留める様子はない。先に着いていると思っていたショウタの姿はなく、彼は結局授業が終わっても、教室に現れなかった。
信頼と言う言葉が頭に浮かび、でもぐにゃぐにゃと、不定形に揺らいでいる。
「……何なんだよ」
誰にも聞こえない声量でこぼし、窓の外に目を向けた。
暗がりが街を覆っている。
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