雪
約束の時間、公園に着くと、聡はすでにベンチに腰掛けていた。
冬の夕暮れ、空は灰色に沈みかけていて、街灯がまだ灯るには早すぎる。
彼の傍らには、なぜか部長が立っていた。コートの襟を立て、寒さに耐えるように腕を組んでいる。
「遅れた?」
聡が顔を上げる。声は穏やかだった。
「いや、時間通りだ」
僕は息を整えながら答える。冷たい空気が肺に刺さる。
「部長は、どうかしたんですか?」
「……あたしがいちゃダメなの?」
部長は少し唇を尖らせて言った。
「いいえ」
特にダメではない。けれど、どう説明すればいいのか、言葉を探す。
部長に、聡はすでに死んだ人間なのだと告げることが、僕にできるのだろうか。
その事実を、どうやってこの場に馴染ませればいいのか。
空気は静かすぎて、言葉が浮いてしまいそうだった。
「無駄よ、お姉さん。死者は生きていてはいけないの。例外なく」
背後から涼子の声がする。
振り返ると、彼女は木立の影から現れた。マフラーの端が風に揺れている。
「涼子?」
「このお姉さんは、あの人が死人だって知ってるわ」
「そう、なんですか?」
部長が眉をひそめる。
「なに言ってんの。有川は、ここに生きてるじゃない」
その言葉は強く、まるで祈りのようだった。
頷きたい気持ちが胸の奥でうずく。
僕だって、そうですねと笑って返したい。
でも、現実はそれを許してくれない。
「聡」
黙っている彼の名を呼ぶ。
聡は部長の肩に手を置き、なだめるように言葉をかけると、僕の方へ歩いてきた。
そのまま、二人で公園の奥へと歩き出す。
涼子はその場に残り、部長の手を握っていた。
サクサクと靴が落ち葉を踏む音が響く。
冬の地面は乾いていて、音だけがやけに鮮明だった。
「なぁ、恭介。写真撮れよ」
「は?」
「俺、お前の写真好きなんだ。変なものが映るとかさ、気にせず撮れよ」
聡は笑っている。けれど、その笑顔はどこか遠い。
「なに言ってるんだ?」
「言いに来たんだろ。俺に」
彼はすでに、僕が告げようとしている言葉を知っているのかもしれない。
その表情は、静かで、受け入れる準備ができているようだった。
僕にはわからなかった。
死んでいるのだと告げられる人が、どうしてここまで穏やかな心でいられるのか。
僕なら、きっともっと取り乱す。叫んで、否定して、泣き崩れる。
聡は僕の前を歩く。
背中はまっすぐで、どこか誇らしげにさえ見えた。
「俺、香奈枝先輩に告白されたんだ。好きだって。信じられるか?」
僕は答えない。
でも聡は話をやめない。
「お前とも約束したよな、写真展覧会行こうって」
それは河川敷での出来事。
夕焼けの中、並んで歩いたあの日。確かに交わした約束だった。
「比奈ちゃんの紅茶だって、まだ飲みたいしさ……」
声が揺れる。
聡がこちらを向き直る。
その顔を見て、僕は自分を殴りたい衝動に駆られた。
平気なわけがない。
自分が死んでしまったなんて、わかったところで納得できる人なんていない。
聡は、笑いながら、泣きそうだった。
「なんで、なんで俺、死んじまってんだよっ!」
雪は静かに降り続けていた。
街灯の光が白く滲み、地面に落ちる影がぼんやりと揺れる。
聡の叫びは、怒りでも悲しみでもなく、ただ純粋な困惑だった。
どうして自分がいなくなってしまうのか――その理不尽さに、彼は答えを求めていた。
僕は言葉を失っていた。
どう言えばいいんだろう。
目の前で泣いている親友に、僕は何もしてやれない。
慰めの言葉すら持たない、ちっぽけな存在だった。
聡は傍にあった花壇に腰を下ろし、顔を覆った。
肩が震えている。
その背中が、あまりにも人間らしくて、僕は胸が痛くなった。
「聡」
小さく呼びかける。
返事はない。
風が吹き抜け、落ち葉が足元を転がる。
「聡、お前はもう死んでるんだ」
どうしてそんなひどい言葉を、僕は平然と言えるんだろう。
でも、今の僕が彼に告げられる言葉は、それしかなかった。
愛おしさ。
彼に対しての純粋な憧れ。
それらを瓶詰にできるのなら、いくらでも詰め込んでみせる。
どこにいても、僕たちが――彼が生きた証を、その瓶に詰め込んで。
思い出だって、写真だって、どんな記憶だって、残しているのはつらい。
だけど、いつか。
このつらい思い出を、笑いながら話せる日が来るのだろうか。
聡がいないという事実に、真正面から向き合える日が来るのだろうか。
そんな日は来ない。
そんな気がした。
それでも、僕はもう一度告げる。
「聡、お前、もう死んでるんだよ」
聡が顔を上げる。
歯を食いしばり、目に涙をためている。
「バカやろう! こういう時は慰めの言葉とか、そういうのないのかよ!」
「むつかしいな」
「そういう時は嘘でも慰めるもんだぞ」
「お前に、嘘はつきたくないから。……ありがとう」
今まで生きていたことに。
僕の友達でいてくれたことに。
僕の傍にいてくれたことに。
そして、これからのことに。
「ありがとう、聡」
「バカ、やろう」
それが僕に向けられた言葉だったのか、自分自身への言葉だったのか、僕にはわからなかった。
僕は聡の隣に座り、彼を思いきり抱きしめる。
その力は、きっと痛いほどだった。
でも、手離せなかった。
「恭介?」
聡は驚いたように顔を上げる。
その目から、一滴だけ涙がこぼれた。
けれどそれ以上は動かず、彼は僕の肩に首を乗せる。
二人とも、なにも喋らなかった。
ただ、時間だけが静かに過ぎていった。
空から、まだ早いだろうと思える雪が降ってくる。
白い粒が、ゆっくりと世界を覆っていく。
「聡、雪だ」
「ああ」
吐き出す息が白い。
互いに握り合った掌が、あいつの分だけ冷たい。
「なぁ恭介、俺のこと、覚えてろよ」
「当たり前だろ」
「忘れんなよ、絶対だぞ」
「僕の傍にいて、お前みたいに煩いのは聡くらいだ」
「そっか。うん、そうだよな」
雪が掌に降りた。
冷たさを感じる間もなく、それはすぐに溶けて消えた。
その瞬間、肩に感じていた重さがふっと消える。
あまりにも自然で、まるで最初から何もなかったかのように。
僕は慌てて首を動かす。
聡の姿を探す。
けれど、そこには誰もいなかった。
ベンチの周りには、確かに足跡が残っている。
僕と聡が並んで歩いた痕跡。
でも、その先には何もない。
雪が降り積もる音だけが、静かに世界を覆っていた。
目の前には涼子と部長。
二人は手をつないでいる。
その姿が、現実の輪郭を取り戻すように、僕の視界にゆっくりと馴染んでいく。
「――っ、バカやろう! バカ、やろう!!」
部長が空に向かって叫ぶ。
その声は、雪に吸い込まれていく。
吠えるように、泣くように、誰にも届かない痛みを吐き出していた。
涼子は部長の手を放すと、僕の方へ歩いてきて、そっと頭を撫でてくれた。
その手の温もりが、今の僕にはあまりにも優しすぎて、胸が苦しくなる。
「泣かないで」
「泣いてないよ」
「そう?」
「うん」
雪が降っている。
写真展を見に行こうと約束したのに、もうあいつはどこにもいない。
不意に、哀しみがこみ上げる。
今まではなんともなかったのに、自然に涙があふれてくる。
「ごめんなさい」
涼子がそっと言う。
その声は、まるで雪のように柔らかく、触れれば溶けてしまいそうだった。
僕は首を振る。
これは誰のせいでもない。
誰も悪くない。
でも、あいつはもういない。
「バカやろう」
僕はもう一度、そうつぶやいた。
それが聡に向けた言葉なのか、自分自身への言葉なのか、わからなかった。
涼子は僕の頭に手を置いたまま、何も言わずに立っている。
その手の温もりが、今の僕には唯一の救いだった。
「写真展、行きたかったな」
僕はぽつりと呟く。
聡と並んで、あの河川敷で話した未来。
それはもう、叶わない。
「行きましょう」
涼子が言う。
「一緒に。聡の分も、見てこよう」
その言葉に、僕は顔を上げる。
彼女の瞳は、泣いていなかった。
でも、深い哀しみがそこにあった。
部長は少し離れた場所で、空を見上げていた。
雪に向かって叫んだ声は、もう届かない。
けれど、その背中は、誰よりも聡を想っていた。
「恭介」
涼子が僕の手を取る。
「行こう。あの人が残したものを、ちゃんと見届けよう」
僕は頷く。
歩き出す足は重かったけれど、確かに前へ進んでいた。
雪は止まない。
でも、僕たちは歩く。
聡がいた証を、見つけるために。
そして、いつか。
この痛みが、優しい記憶に変わる日が来ることを願って。
君の瞳に映る世界は…… 塚原蒔絵 @tukahara_makie
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