河川敷
「さむいなー!」
「コートの前、全開にしてるからだ」
「おっと、こりゃ失礼」
バーガーを食べて、ある程度お腹も落ち着いた頃、僕らはそれぞれの帰路についた。
少し土色に濁った川を眼下に見ながら、河川敷の遊歩道を歩く。
夕方よりもすでに夜の温度で、吸い込む空気が頬に冷たく刺さる。
「あ、あそこらへんだよな。この間崩れたの」
「……そうだったな」
有川の言葉に顔を上げると、崩れた堤防の一部と、傾いたままの民家が見えた。
フェンスの一部は歪んだまま放置され、焼け焦げた自転車のフレームや、黒ずんだ家電の残骸が草むらに埋もれている。
土嚢が積まれたままの場所もあり、仮設の立ち入り禁止テープが風に揺れていた。
数か月前、僕らの市では大きな地震があり、いくつもの火災が発生した。
何人も亡くなったと聞いている。
幸い、僕の知り合いに犠牲者はいなかったが、それでも街は大きな被害を受けた。
僕の家でも、母が「怖いわね」とぼやいていたのを思い出す。
中心部では復興がほぼ終わっているけれど、こうした町のはずれでは、まだ地震の痕跡が色濃く残っている。
「お、祈りの像か。祈ってくか?」
道端にぽつんと立つ祈りの像は、風雨にさらされながらも、どこか凛とした佇まいを保っていた。
石肌は長い年月を経て柔らかく摩耗し、足元には誰が添えたのかわからない花が静かに飾られている。
枯れかけた花の隣には、純白の花束がそっと置かれていた。
定期的に手入れされているのだろう。像の周囲には落ち葉が掃かれた跡があり、小さな水皿には澄んだ水が張られていた。
たぶん、死者に向けての祈りだ。
僕は首を振る。
「いや」
祈ったところで、変わらない。
――いや、違う。僕は、祈っても叶わないことを知っている。
だって、神様は助けてくれなかったから。
その瞬間、空気がふっと揺らいだ。
風が吹いたわけでもないのに、景色の輪郭がわずかに滲んだ気がした。
像の前に立っているはずなのに、足元の感覚が遠のいていく。
地面が、ほんの少しだけ沈んだような錯覚。
空気に、妙な湿り気が混じっていた。
河川敷の近くとはいえ、こんなにも肌にまとわりつくような湿度は異常だ。
吸い込んだ空気は、舌の奥にぬるりとした膜を残し、喉の奥で重たく沈んだ。
どこかで、かすかに鈴の音が鳴っている。
風鈴のようでいて、風のない夜に揺れるはずもない。
耳の奥で、誰かが囁いているような気配さえする。ここの声は――あの少女のものだろうか。
視界の端で、何かが揺れた。
振り返っても、そこには何もない。
ただ、祈りの像の背後に立つ竹の影だけが、風もないのにざわりと揺れていた。
鼻をかすめたのは、焦げた木の匂いと、どこか懐かしい線香の香り。
それが現実のものなのか、記憶の底から立ちのぼってきたものなのか、判別がつかない。
温度も、匂いも、音の響きも、ほんの少しずつ、確かにずれている。
この場所だけ、世界の縫い目がほつれているような――そんな感覚があった。
――誰を?
誰を僕は神様に祈ったんだ。
地震での被害に、知人はいなかったはずなのに。
問いが胸の奥に沈んでいく。
地震の記憶が、現実の冷気に混ざりながら輪郭を曖昧にしていく。何か、大事なものを忘れているような。
その答えを深く考える前に、聡が腕をまわしてきた。
「冷たい奴だな。死者に失礼だぞ!」
そういって聡は像に祈るためにしゃがみ込み、手を合わせた。
僕は聡のつむじを見下ろしながら考える。
死者に縁もゆかりもない赤の他人が祈ったところで、果たして死者は喜ぶのだろうか。
手を合わせ、「悲しかったですね」「つらかったですね」と言葉をかけたところで、傷跡を慰撫することができるのか。
深い願いも込めず、ただ形だけ手を合わせるのなら誰にだってできる。
像に頭を下げて「お悔やみ申し上げます」と言えば、それで正解なのだろう。
わかってはいる。けれど、今の僕には、この像に祈る心がない。
何を告げればいいのかもわからないのだ。
死を悼む気持ちは、たしかにあるはずなのに、言葉が喉の奥で締め上げられ、つぶれてしまう。
――なんて、わびしい奴だ。
そう思うと、少しだけ笑えてくる。
「なあ聡、この前の地震で亡くなった人たちの墓碑とか、ないのかな」
「ないだろ。身元がわからない人も、まだいるって話だぞ」
「……そうか」
白いケープの少女が指していた《死者》が、地震で命を落とした人たちのことだとしたら――僕に、何ができる?
いや、どうすることもできない。
たとえば死者らが蘇って、今この場に立っていたとしても、一般人に何ができるというんだ。
「死者を生かしてはいけない」と言われたところで、じゃあどうすればいいのかと、問い返したくなる。
もう一度、殺せばいいのか?
そんなこと、できるわけがない。
それがもし顔見知りだったら? 名前を呼べる相手だったら?
そんなの、なおさら無理だ。
それをするのは、きっと僕じゃない。
死霊を祓う術を持つ者――そういう役目を背負った、専門の誰かの仕事だ。
僕はただの、写真を撮るだけの人間だ。
祈ることも、救うことも、ましてや殺すこともできない。
「どうした、恭介。深刻そうな顔して黙って」
「いや、寒いなって」
「そーだな。帰ってなにか食べるか」
「さっきバーガー食べただろ」
「あんなの、食べたうちに入らない」
得意げに言う聡に、僕は苦笑しながら道端の小石を蹴って歩き出す。
「なぁ、そういえばさ。あの写真展、いつまでだった? ほら、お前が行きたがってたやつ」
「十二月までだよ」
「ならまだ余裕だな。いつか行こうぜ」
「興味ないくせに」
聡は芸術になど興味がない。
それでも、古いよしみで付き合ってくれる。
そういうところは、けっこう感謝している。
「写真展で素敵な出会いがあるかもしれないだろ? スタイルのいい女性とお近づきに」
「どうせ相手にされないよ」
「言ってろ。絶対美女をゲットしてやる」
「期待してない」
そんな軽口を交わしているうちに、分かれ道にさしかかったころ、聡とは別れた。
一人になって歩く散歩道。
空を見上げると、雲はすっかり去っていて、よく晴れていた。
けれど、星は見えなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます