君の瞳に映る世界は……

塚原蒔絵

写真店

 薄汚れた路地裏を歩く僕の足元に、一匹の猫が佇んでいた。

 彼か彼女か。どちらにしても、その子を見下ろすと目が合った。

 黒猫が横切ると不吉だという噂があるけれど、並走したらどうなるんだろう。

 まあ、その話も結局は西洋の迷信が伝わったものだと聞いている。黒や、夜に怪しく光る眼などが古くから伝わる怪異を想起させ、身の内の恐怖を呼び起こす。

 昼間に見る黒猫はかわいくても、夜に出会うと少し怖く感じるのもそのせいだろう。

 今日は曇り空で気分が上がらない。だから余計にこんなことを考えるんだ。

「どこに行くんだ?」

「にゃー」

「にゃーか」

 下らない言葉を投げかけたら逃げられてしまった。

 ふと視線を斜めに向けると、石壁に囲まれた細い路地の奥に、小さな看板がぽつんと立っているのが目に留まる。

「こんなところに個展? 『ギャラリー、千葉ちば』。写真の展示かな」

 コルクボードには愛らしい文字で『無料です!』と書かれている。

 見上げると、古びた建物の片隅にぽつんと設置されたエレベーターがひとつ。

 随分と時を経ているらしく、錆びついた金属の質感が伝わってくる。

 上階へのボタンを押すと控えめな「チン」という音とともに扉が静かに開いた。

 腕時計をちらりと確認する。

「まだ時間大丈夫だし、ちょっと見てみるか」

 ジャケットの前をそっと掻き合わせ、エレベーターに乗り込む。

 扉はゆっくりと閉まり、緩やかな動きで上へと昇りはじめた。ホラー映画にありそうな薄暗い照明に汚れた壁。その一角には、コインで削りつけたのか落書きがあった。

「あ、い、た、い?」

 恋人へのメッセージだろうか。エレベーターが静かに止まる。

 正面の扉が開くので出ると、目の前には木造の扉が一つだけ、静かに迎えてくれた。

 非常階段も消火器も、窓も見当たらない。

 わずかな恐怖心を抱えながら扉を開き、軋みの響く室内へ足を踏み入れると、鼻をつく古びた匂いが漂ってくる。

 部屋は全体に薄暗く、間接照明のやわらかな灯りだけが空間を照らしていた。

 三つの窓のうち、一つだけはカーテンでそっと閉ざされている。

「いらっしゃい。珍しいね、お客さん?」

 カウンター越しに工具用エプロンを身にまとった女性が声をかけてきた。

「いま、やってますか?」

「やってるよ。好きに見てね、他にお客さんもいないから」

 オーナーなのだろうか。

 だとすれば、コルクボードに名前が書かれていた「千葉」という人物なのかもしれない。

 千葉さんが肩をすくめるとセミロングの髪が揺れ、少したれた瞳が柔らかな印象を与える。

 でも足元を見ると、猫のかたちを模したスリッパを履いていた。案外、お茶目な一面を持っているのかもしれない。

 展示されている写真を見渡すと、色がない。

「モノクロ写真、ですか」

「若い子はあまり好きじゃないかな?」

「いいえ、見せてもらいます」

 音もなく、色もない。

 白と黒のコントラストが鮮烈に際立つ写真が、壁に静かに並んでいる。

 さえぎるもののない静寂のなかで呼吸音さえも邪魔に感じ、僕はそっと息を止めた。

 写真の中で、太陽が輝く場所は眩いばかりの白に染まり、建物はその存在を隠すかのように深い黒に包まれている。

 あるべき場所から消えた色。その矛盾に僕は強く惹きつけられていた。

 強烈な陰影から目をそらせず、もっと近くで見たいと思い、一歩踏み出すと、女性がカウンターから身を乗り出してきた。

「なにもないところだけど。お茶くらいなら出せるけど、どう?」

「いいえ、お構いなく」

 会話が挟まったことで呼吸ができた。

 無意識に止めていた息を吐きだして首を振る。

「写真、撮る人?」

「ええ、風景画を。と言っても部活動の一環で、下手の横好きのようなものですが」

「私もだよ」

「え?」

「下手の横好き。それでも写真撮るのやめれなくて。ああ、ごめんね。お客さん久しぶりだから喋りかけちゃって」

「いえ、いいんですけど」

 無料なのに客が来ないのは、個展を開いている場所のせいだと思う。

 せめて人通りのある一つ向こうの通りなら、商店街に行く人や喫茶店の帰りなどに目にとまる可能性がある。でも、その賑やかさの中に、モノクロで支配された個展があるのには違和感を覚えた。

「人は撮る?」

「人は……うまく撮れないので」

 そう言ってぎこちなく笑えば、女性も控えめに笑みを返してくれた。

「そっか。私もね、カラーはうまく撮れないの。色があると駄目みたい」

「……そうですか」

 彼女がカラー写真をうまく撮れないのには、何か理由があるのだろうか。

 けれど、それを尋ねたところで、どうにもならないと口をつぐんだ。

 僕が人物写真をうまく撮れない理由——いや、撮った人物写真をどうしても好きになれない理由も、結局のところ漠然としたものだし。

 再び視線を写真に戻すと、色のない鮮やかな世界が広がっていた。

「綺麗ですね」

「ん?」

「写真。モノクロ写真を撮ったことはないんですけど、なんというか綺麗だなって」

「ありがとう」

 葉から零れ落ちる雫。

 本来なら色に満ちて瑞々しいはずの景色が、白と黒の世界に閉じ込められると、どこか背徳的な輝きを放っている。

「これは――」

 ゆっくりと視線を動かすと、部屋の一角だけ妙に黒い写真が集まっている場所があった。

「ああ、これは……あはは、ごめんね、見てて気分いいものじゃないね。外そうか」

「いえ、大丈夫です」

 あの黒は――

 おそらく先日の地震の爪痕だろう。

 崩壊した建物、力なく垂れた手首、その指を握り締めて祈るように泣く人。

 静かな白黒の世界なのに、当時の色も、音も、脳内に再現されていく。

 その写真の奥深さにのめり込みかけた僕を現実に引き戻したのは、ポケットの携帯電話だった。

 バイブレーションが激しく震え、「出ろ」とせかしている。

「携帯? いいよ、出ても」

「すみません。はい、久住くずみ――え? でも先輩、まだ時間は……分かりました、今から行きます」

 通話相手は用件だけを伝えると、返事も聞かずに電話を切った。毎度のことだけど、もう少しこちらの言い分も聞いてもらいたいものだ。

 ふと女性と目が合うと、彼女は携帯電話を指差した。

「呼び出し?」

「すみません、待ち合わせ時間はまだなんですが、早く来いって」

 まだ全部見ていないし、僕自身、もう少し見ていたい気持ちがある。

「ううん、いいよ。ありがとうね、こんな小さな個展を覗いてくれて」

「いいえ。……また、来てもいいですか」

 僕の言葉に女性は驚いた様子だったが、やがて嬉しそうに頷いてくれた。

「木曜日と土日以外は開けてるよ」

「はい」

 年季の入った木製の扉をくぐり抜け、狭いエレベーターに乗り込む。

「チン」という小さな音とともに扉が開く。

 古くて汚れた空間は、来るときと変わらない。

 けれど——

「あれ? 落書き、——消えてる」

 来るときにはあった落書きが、跡形もなく消えていた。



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