第1話

 私の人生は影に満ちて、足りないものばかり。照らされている部分はほんの少し。恵まれない人生であることに薄々は気付いていた。でも小さい頃は、みんなそんなものなのだと思っていた。他の人にも、夕食のない日々や、お腹がすいてたまらない夏休みがあるのだと思っていた。

 ところがある時、気付いたのだ。自分の人生は、他の人より欠落しているのだということに。自分の将来について考えようとすると、その影が大きくて選択肢すら足りていないことに愕然とする。太陽のように、安心を注いでくれるものが欲しかった。


 母はなぜ父と結婚したのだろう? 結婚というものは都合のいい幻想なのだろうか? 自分の理想を相手に投影して成り立つもの。そこに「幸せ」はあったのだろうか? 両親の結婚生活がうまくいかなかった理由は分からない。でも、それが簡単なものではなかったことは想像できる。

 良い手本が身近になかったからか「恋愛」や「結婚」というものを信じることができずにいる。だから、将来は仕事に生きる道を選びたい。私は手に馴染んだシャープペンシルを、指でくるくると回した。


 図書館の二階の窓からは、日常で埋め尽くされた町並みが見える。夏のケヤキ並木は、ただ青々としているだけで、そこに在ることを主張しない。商店街には、見慣れたのぼり旗が年中セールを連呼しているが、誰も見向きもしない。シャッターが降りたままの店も混じる閑散とした商店街を、犬の散歩をした老人が歩いている。灰色の厚ぼったい瓦屋根に駐車場付きの庭。それから低い建物。ありふれた風景が広がっている。この町はずっと変わらない。


 女性がやりがいをもって一生できる仕事などないのだ。あるのは、区役所の窓口の仕事に、スーパーのレジ打ちやバックヤード、それから学校や図書館の仕事。どれも昔から変わらずあり続ける仕事ばかりで、自由がない。決められたことを、決められたようにすることが求められる仕事しかないのだ。この町には勿論、大学もない。さらに学ぼうとするならば迷わず町を出て行くことになる。そして大学に進学した先に待っているのは、都会での就職。そうして町は、活性化することなく、発展しないループが無限に繰り返され、十年後も二十年後もそこに同じようにあり続けていく。


 この図書館も何十年も前から同じようにここにあり続けている。蔵書にはまだ昭和の年号が記されたかび臭いものまで置かれている。この本棚のように古いものが古いまま残されて、新しい本が埋もれてしまっているのがこの町なのかもしれない。

 私は、二十年後の自分がスーパーのレジ打ちをしている姿を想像して、ぞっとした。絶対にこの町に残りたくない。この町にいたら、自分らしさなんてどこかに消えてしまうだろう。誰にでもできる仕事、そして、従順に毎日を過ごしていくだけの日々は、この町中の人を早く老化させているに違いない。そもそも、この町の仕事のほとんどは、いずれAIに取って代わられるものばかりなのだろう。


「お母さん、私、やりたいことがあるの。北星高校を受験してもいい?」

 中学生になったばかりの私は、今より希望をもっていた。

「でもね凛香、うちにはお金がないのよ」

「だって公立高校だよ」

「でもね、もし落ちたら滑り止めの私学に通うことになるでしょ?」

「うん」

 私は肩を落とした。

「どうするのよ。万が一の時は」

 そんな時の母は、まるで能面のように表情のない顔で、私の行動を事あるごとに制限しようとしていた。


 それでも私は、高校卒業と同時にこの町を出て大学に進学し、自分のやりたいことを叶えたい。母のようになりたくないのだ。自分の不幸を環境や誰かのせいにして、薄幸そうな表情を浮かべている。写真に写る母の顔は、いつもくすんで見えた。一緒にいると、疲れてしまう。大切な判断を私に委ねたり、何でも相談してくれたりするのが頼りにされているようで、小学生の頃は嬉しかった。でも徐々にそれは頼られているのではないと知った。いざという時に自分で決めることができない、環境や誰かのせいにする他責の性格は、周囲の人を巻き込んでいく。

 心理学の本で「依存」という言葉を知ると、息苦しくてたまらなくなった。早く家を出たいと願う私に唯一できることといえば、一生懸命「勉強」してこの町を出て行くことだけだった。


 母は「私学に通わせるお金はうちにはないからね」と口癖のように言っている。お金がないと夢にチャレンジすることすらできないのか? この町で一番の進学校、県立北星高校を受験したい気持ちはあるが、必ず合格するとは限らない。希望する高校を受験することも許されない「選択肢のない」状況にあった。蜘蛛の巣に絡められて動けなくなっているかのようだった。


 北星高校は、偏差値がトップで自由な校風であるということが売りだった。だが、それだけではなく、推薦を得た者が無料で参加できる「留学プログラム」があるのだ。「アフリカに行ってみたい」と願ったそのとき、風鈴の音が聞こえた。貸し出しカウンター前のロビー広場で、小学生向けの「手作り風鈴」ワークショップをやっているらしい。私は、アフリカから来た女の子に、風鈴をプレゼントしたことを思い出した。


 小学生の頃、シリアから来たアブドさんという人の話を聞いたことがある。

「シリアで内紛が始まって十年以上が経ちます。私たちの国では、働きたくても働く場所もなく、子供たちは学びたくても学ぶ場所もありません。私たちには自由がないのです」

 講話をする父親の足につかまって、こちらを覗く澄んだ瞳。三歳くらいの女の子を連れて来ていた。


「これが、今のシリアの町。もう、町と呼べないかもしれない」

 建物が破壊され尽くされた街の写真を数枚見せてくれた。無残な現状を写した写真に目を覆う子もいた中で、私は、しっかりとその様子を目に焼き付けた。

「状況を変えたくて、反政府デモに参加したことあります。次の日、政府に命を狙われました。だから、日本に逃げてきた。命を守るためです」

 ようやく日本にやってきた今も「申請」が通らず思うように働けないと教えてくれた。アブドさんの来日から半年以上が経ち、家族をようやく呼び寄せることができたのだという。

「先月から、やっと一緒に暮らし始めました」

 見せてくれた家族写真に写る女の子の、澄んだ瞳に吸い込まれそうだった。連れて来たのはその写真に写っているアミーナちゃんという女の子だった。


 アブドさんのお話の後で、その女の子とボールや積み木で一緒に遊んだ。良く笑う子だった。言葉は通じなかったが、心が通じ合えたように気がした。利発そうな瞳のアミーナちゃんだったが、将来教育を受けることはできないのかもしれなかった。いつまで日本に滞在できるのかもわからないと不安そうな父親の様子が印象に残っている。今、あの家族はどうしているのだろう。

「アミーナちゃん、これ私が作ったの。もらってくれる?」

 女の子は嬉しそうに微笑んで、私が差し出した「手作り風鈴」を受け取ってくれた。別れ際、女の子に何かをプレゼントしたかったが何も用意できなかった私は、ちょうどその日、図工で完成した手作りの風鈴を渡したのだ。


 アフリカの学校は子供の数に比べてとても少ない。一クラスの人数が百人以上のところはざらにある。そして、勉強の環境が整っていないため、一冊の教科書を何人もの児童が共同で使っている。学力の定着も低いのだという。世界の国々から金銭的な支援を受けているもののなかなか貧困問題は解決していないらしい。なぜなのだろう? 支援は一部の富裕層にしか届いていないのだろうか?


 高校生になったら「留学プログラム」に参加して語学を磨き、将来は青年海外協力隊員になりたい。実際にアフリカの現状を自分の目で見て確かめてみたいのだ。だから特に英語に力を入れて受験勉強をしている。アフリカの子供たちの多くが教育を受け、文字を読むことができるようになれば、彼らの将来は変わっていくのではないだろうか?


 風鈴の音で中断された私の思考は、再び受験勉強へと戻っていった。図書館の自習室は自分の部屋以上に集中できる。数学基礎問題集の課題になっているところを、全て終えることができた。家でやるとこうはいかない。

 五時を知らせるチャイムが鳴り響いた。この場所は、町内放送のスピーカーに近いらしく、自宅より大きな音で聞こえる。帰り支度をしながら、ふと、明日のことが気になった。


 自宅へ帰るとすぐ、夕食用にそうめんを用意した。経済的に困窮している我が家は、「無料食品配付会」という制度を利用している。頂いた食材を活用し、あるものを上手に使って料理をする。そうめんの他に、冷凍していた豚もも肉を湯がいて、ポン酢で和えた。レタスも刻んで盛り付ければ、豚しゃぶそうめんの出来上がりだ。

 小さい頃は自分で何もできなかったから、空腹のまま祖母が置いていったパンやお菓子をかじって、夕食にありつくことなく眠っていた。あの頃、子供食堂というものがあったらどんなに良かっただろう。母の帰りを待ちながら、お腹をすかせたまま眠りについた日々は、私にとって忘れたい冷えた心象風景のまま残っていた。


 自室で、受験勉強をしながら母が帰って来るのを待った。ようやく帰ってきた母親と一緒に夕食を囲んだ。

「凛香ちゃん今日ね、前の席の人が、とっても失礼なことを言ってきたの・・・・・・」

 ほらまた始まった。被害者意識の高い母は、夕食の時間を自分の愚痴を言う時間だと思っている。話半分に聞きながら相づちを打った。満足している様子だった。それと反比例して私の不満は継ぎ足されていく。

「私、明日学校の用事で子供食堂っていうところに行くから」

「あら、そうなの?」

 学校の授業の一環で、それぞれが自分で決めた場所にアポを取って、夏休み中に訪ねることになっている。「職業体験」と呼ばれるものだ。

「夕食作りの材料準備や、調理を手伝うみたい」

「凛香ちゃんは、お料理うまいから重宝されるわね」

 母は無邪気に笑った。



 翌日私は、自転車を二十分ほど漕いで、目的地に到着した。集合時間は十五時だった。公民館を借りて活動しているようだった。玄関は開いていた。奥の方で人の話声がするので、大きな声で挨拶をすると、中年の男性と女性が出て来た。

「おっ、こんにちは! 君が林凛香ちゃんかい?」

 私は名前をフルネームで覚えられていることに驚いた。

「そうです。よろしくお願いします」

「おじさんは宮下と言います。食堂に来る子供たちからは宮じいって呼ばれています」

 まだおじいさんには見えなかったが、子供食堂に来る小学生から見たら「宮じい」なんだろうなと納得しながら聞いていると女性が自己紹介を始めた。

「私は、区役所の福祉課で『子供食堂』を担当している町田です。いつもは宮下さん一人で切り盛りされていますが、今日は職場体験ということでお手伝いに来ています」

 自己紹介をしているうちにもう一人中学生がやって来た。そういえば、参加者二名と参加案内に記されていたことを思い出した。

「こんにちは! 桐谷春翔です。ここに来るのを楽しみにしていました。よろしくお願いします」

 元気な声の持ち主は、同じクラスだけど中学に入ってからほとんど喋ったことのない男子だった。

「じゃあ、二人でまず食材を調達してきてもらおうか」

「はいっ!」

 春翔という男子は意欲的だった。


 スーパーで売れ残った野菜やら肉やらをもらいに行って、そのただで手に入れた食材で調理をするのだという。その日によって、何をもらえるのか分からないから、まだ献立は決まってないのだ。

「凛香さん、食材は僕が調達してくるから、こっちに残って宮じいと町田さんのお手伝いをしてあげてよ」

 思わぬ提案をあっさりと受け入れることにしたのは、真夏日の暑さだ。今日の最高気温は、三十五度になるという。食材の調達は元気な男子に任せ、私は室内の掃除と準備を担当することにした。この日は、夏休みのお楽しみ企画ということで、ちょっとしたイベントをするのだという。

「凛香ちゃん、このヨーヨー風船に空気と水を入れてもらっていいかな?」

 宮じいが、たくさんのカラフルなヨーヨー風船が入ったビニール袋を持って来た。空気入れの後ろから水を吸い上げて、ヨーヨー風船をポンプに差し込み水と空気を入れる。膨らんだ後に、口の部分を糸ゴムで縛るのに手間取った。宮じいが、こつを教えてくれた。丁寧に説明してくれる宮じいは、とても優しい目をしていた。だんだんとコツを得て、楽しくなっていった。宮じいは、ビニールプールを膨らませて水を張っていた。


 窓の向こうから、蝉の鳴き声に混じって自転車のブレーキの音が聞こえた。

「行って来ました! こんなに野菜をもらえました」

 額に滝のような汗を浮かべた春翔が、じゃがいもやにんじん、玉葱と豚細切れ肉が入った箱を運んで戻って来た。

「ねえ、林さん。小学校の頃にシリアからアブドさんって方が、クラスにお話に来たの覚えてる?」

 突然の質問に驚きながら、春翔が同じクラスだったのだと思い出す。

「え、うん。覚えてる」

 アフリカに行ってみたいと思うきっかけだったのだから鮮明に覚えていた。

「スーパーのバックヤードでアブドさんが働いていて、この野菜や肉を渡してくれたんだ。アブドさんが小学校で話をしてくれた時の小学生ですって伝えると、とても嬉しそうだった」

「アブドさん、日本で仕事ができるようになったんだ」

「良かったよね」

 春翔が微笑んでいる。

「申請」が通ってまだ日本で過ごせていることが分かって安堵した。あの家族がどんな道を通ってきたのかは分からないけど、今、安心して暮らせているようで良かった。アミーナちゃんの笑顔が浮かんだ。


 アブドさんから分けてもらった食材から今夜の献立はカレーに決定した。中学生になってほとんど話したことがない上に、私は男子が苦手だった。ぎこちない会話をしながら、町田さんと、春翔と私の三人でカレー作りをした。春翔は包丁の使い方が上手く、手際が良かった。そして親切だということが伝わってきた。

 最後にルーを入れると、公民館がカレーの香りで満たされて、家庭らしい場所に見えてきた。


 午後六時の時報が鳴ると、三々五々、子供食堂に小学生が集まって来た。中には、小さい妹や弟を連れた子もいた。私たち中学生を見つけると目を輝かせて、口々に喋り掛けてきてくれた。その時、玄関から入って来た栗毛色の髪の女の子に見覚えがあった。

「アミーナ ちゃん?」

「あ! お姉ちゃん」

 アミーナちゃんは、あの時のように瞳を輝かせて、駆け寄ってきた。私は、両手でアミーナちゃんを抱き上げた。あれから五年の月日が流れ、小学二年生になっていた。アミーナちゃんには三歳の頃の記憶は残っていないという。それでも覚えていてくれたのは、あの日の写真と風鈴が家に飾ってあり「お姉ちゃんと遊びたい」と思っていたからなのだと話してくれた。


 集まって来た小学生と食卓を囲んだ。常時、十名ほどが集まってくるのだという。私の隣にはアミーナちゃんが座った。

「パパもママも帰りが遅いから、子供食堂に来るのがスキ」

 笑顔で言いながら、カレーを頬張る彼女に、かつての自分が重なった。カレーは評判が良く、お代わりをたくさんしてくれて全部食べきってくれた。

 食事の後は、「ヨーヨー風船釣り大会」が始まった。取れそうで取れないヨーヨー風船に、はしゃぎながら目当ての色のヨーヨー風船を釣っていた。その度に、ビニールプールに浮かんだカラフルなヨーヨー風船は、沈んだり、浮かんだりして楽しげに見えた。

「パパが迎えに来たら、見せよう」

 アミーナちゃんの言葉に、どきっとした。「アブドさんに会えるのだ」私は、自分がアフリカに行きたいと思っていることを伝えようと決意した。

「兄ちゃん、姉ちゃん、今日は楽しかった」

「ありがとう」

「また来てね」

 口々に伝えてくれる言葉に、思わず笑顔になってしまう。自力で帰宅できる高学年の子供たちは、それぞれ家に帰って行った。

「林さん、今日は一緒に体験活動ができてよかった。ありがとう」

 春翔が、よくわからない種類のお礼を言ってきた。

「あ、いえ、別に・・・・・・」

 口ごもってしまう。何と言っていいのか分からなかった。春翔はなぜか、少し顔を赤らめているように見えた。


「こんばんは! いつもありがとうございます」

「パパだ!」

 アミーナちゃんが駆け出して、アブドさんに抱きついた。アブドさんは以前と比べると、穏やかな表情をしていた。

「こんばんは。私、あの時の小学生で林凛香と言います」

「覚えてるよ、凛香ちゃん。あの時アミーナと、とっても仲良くなってくれた。時々、話をして思い出していたね」

 その言葉を聞いて、胸が熱くなった。

「私、アブドさんのお話を聞いて、アフリカに興味を持ちました。いつか、青年海外協力隊員になって、アフリカの子供たちの教育のお手伝いをしてみたいんです」

 アブドさんは突然、表情を曇らせ下を向いて黙ってしまった。てっきり喜んでくれると思っていたのに。私は唇を噛んだ。


 ようやく、顔を上げたアブドさんの表情は険しかった。

「凛香さん、気持ちは嬉しい。でも、とても危険な地区があるよ。僕たちは、安全な日本にわざわざ避難してるね。なのに、凛香さん、アフリカに行く必要ある?」

 私は答えられなかった。思いも寄らない言葉に、心が重くなった。

「ささ、凛香ちゃん。まだすぐに決めなくてもいいかもしれないよ。君が大きくなる頃には、安全な場所も増えているかもしれないし」

 宮じいが取りなしてくれた。

「凛香さん、ごめん。ちょっと言い過ぎた。でも、考えてみて。凛香さんにとって、何が一番大切なことか?」

 「何が一番大切?」心の中でこだました。 

 春翔は、私の横で黙って聞いていた。アブドさんは、会釈をしてアミーナちゃんと帰って行った。


「送っていくよ」

 お互いに自転車でここまで来ているというのに、春翔が言った。私たちは、宮じいと、町田さんにお礼を述べて帰路に着いた。春翔は、私の自転車の後から付いて来た。「なぜ、この人はこんなに親切なのだろう?」一瞬、気になった。しかし、アブドさんの言葉のもつ衝撃にいつしかその疑問は消えていった。


 「アフリカへ行くこと」が私の唯一の希望であり原動力だったのだ。それ以上深く考えることはできなかった。


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