twinkling 4|なぎさ★★★
*
「ひかりさんのお兄ちゃんは、生きています」
散歩の途中で、突如、けもの道へと消えたゆきこがジンジャーをつかまえて戻って来たかとおもうと、開口一番に言った言葉だ。
ぽかん。
人生で使うことはないだろうランキング、トップテンに入る言葉を、まさか、人生の前半戦で使うことになろうとは。想定外。もはや奇跡。隣りにいるひかりさんをみたら、どうみても、ぽかん、の顔だった。わたしは、人生の前半戦で、はやくもふたつめの奇跡に遭遇した。神さま、奇跡配分を間違えていません?こういうときも、アーメンでいいのだろうか。
日は暮れ、あたりは闇に包まれている。森の中だから、一層と暗い。わたしは、いまでも、夜の闇が怖くて仕方ない。GHへ来て一年以上経つのに、わたしの心と身体は、まだ、薄暗く、かび臭く、じめじめとしたあの牢屋に囚われたままだ。ここが安全な場所だとしても、頭の中の警報器が鳴り続けている。誤作動だと分かっていても、感じる恐怖は、生々しい。
震え出す足を、わたしは懸命に制止させようとする。しかし、意に反して、震えは振幅を広げて行く。やばい、と感覚的に理解したとき、ジンジャーがゆきこの腕からするりと降りる。とととととと、わたしの足下に来ると、わたしの震える足に顔を摺り寄せる。なにやら、ジンジャーの喉元が、ほわんと光っているように見える。いや、実際に、光っている。スマホのライトが首輪の金具に反射でもしているのだろうか。暗くてよく分からない。ジンジャーは、ぐるぐるぐると喉を鳴らす。その音は、わたしの鼓膜をやさしくゆらす。耳心地がいい。ジンジャーのつるりとした毛並みの感触が、足を通してわたしの心へと伝わる。よしよしと撫でられているみたい。いや、実際に撫でられていたのだろう。おかげで足の震えはすっかり治まったのだから。
ぽかんから我に返ったひかりさんに促され、三人と一匹はホームへと帰宅した。
*
「これは、案件じゃないですよねぇ」
ひかりさんは泣きそうな声で、森下さんに確認している。
「うう〜ん、案件……ではないねえ〜ぃ」
森下さんは、意味ありげな一間の後、答える。なんだか、案件にならなくて残念そうな言い方に聞こえるのは、気の所為だろうか。
「でも、報告は、しといて、一応!」
と森下さんは言いながら、したり顔をしている。
「うぅ………はい」
ひかりさんは、「いいえ」を無理矢理「はい」に変換したようだ。ユーザー辞書にあらかじめ登録してあるのだろう。大人の世界は厳しい。
その後、わたしはひかりさんと応接間兼面接室で話をすることになった。ことの顛末を確認するためだ。ゆきこが話せることは限られている。おまけに、何を質問しても、言葉を覚えたオウムのように同じフレーズを繰り返している。やれやれ。わたしは、散歩に出掛けたところから、ひかりさんに電話をして合流するまでのことを、思い出せるかぎり詳しく話した。
「うん、分かった、ありがとう」
何か思い出したらまた教えてと、ひかりさんは言った。この件以外で何か聞いて欲しいことはあるかと聞かれたが、わたしは、ふるふるふるとかぶりを振った。なければ今日は終わりにしようとひかりさんが席を立とうとしたとき、わたしの口がひとりでに開いた。
「あの、一個、聞いてもいいですか?」
「うん?なに?」
と、ひかりさんは、上げかけた腰を下ろした。
「えっと、ひかりさんって、お兄さんがいるんですか?」
「ああ、そのことか」
ほんの少しだけど、ひかりさんの顔が曇った。晴れてるんだけど、すじ雲が広がる感じ。
「あ、別に、どうしてもって訳じゃないです。ゆきこの言葉が気になっただけだから」
「うん、そうだね、あれね、わたしも気になってるんだよ。あのね、いるっていうかね、いたの、お兄ちゃん。だけどね、わたしが小さいときに亡くなってるんだよ。だから、ゆきこが知るはずないんだけどね。うーん、どうして知ってるんだろう。しかも、生きてるなんて言うからさ、わたしもびっくりしてるところ」
ひかりさんは、きっと、いま、亡くなったお兄さんのことを思い出しているんだろうと感じた。人には、大切な人を想い浮かべるときの表情がある。わたしはその表情をたくさん見てきたから分かる。GHでは、基本的に職員の個人的な話は避けることになっていた。GHで暮らしている子どもたちへの配慮として。
でも、わたしたちは、逆だ。
自分が話したければ、何でも、ひかりさんや心理の人や児相の人に話していい事になっている。というか、話すこと、話せるようになることが、傷を癒すために必要なことだと言われる。そういう圧を感じる。話せないことの方がずっと多いのに。矛盾している。だとしたら、話せない傷は癒せないことになる。話せない者は、癒せない傷という十字架を背負って、受難の道を歩きつづけるしかないのか。
「ねえ、ひかりさん」
「うん、なに?」
「あのね、わたしね、」
「うん」
「話せないことが、たくさんある」
「うん」
「施設の人たちは、話せるようになったら楽になるって言うけど……でも、このままずっと話せなかったらどうなるの?」
「なぎさ…」
「わたしは、治らない傷とずっと生きていかなきゃならないの?」
「そんなことない」
「でもね、そうなの。ここに来て、もう大丈夫って、何度も何度も言われた。自分でもここに居れば大丈夫なんだっておもった。おもえた。言い聞かせた。ここは安全だ、大丈夫、大丈夫って。でもね、怖いの。夜になるたびに、わたしのからだは震えるの。眠ろうとして、明かりを消して、布団に入るでしょ? でも、目を閉じることができない。大丈夫、大丈夫、大丈夫だからって何度も自分に言い聞かせる。ただ目を閉じるだけなのに、それだけの覚悟が要るの。だって、目を閉じると本当の闇が来るでしょう? 『
そこで息が切れて、わたしの肺は酸素を求めた。うまく息ができない。無理に吸おうとしても、冷蔵庫で凍らせたお肉みたいに、わたしの肺は動いてくれない。わたしの肺は酸素を求めてもがいている。ぎゅうと喉が鳴る。視界が白ばんでゆく。意識を失う寸前、わたしの手が握られる。
「たいじょうぶ」
ひかりさんの声が聞こえる。ひかりさんの手はあたたかい。その手が、わたしの背中に当てられる。
「だいじょうぶ」
ひかりさんは声もあたたかい。春の陽だまりのようだ。
「息を、すこし、吐こう。ゆっくりでいい」
わたしは、ひかりさんの言う通りにするが、すこししか息を吐けない。
「いいよ、だいじょうぶ。そしたら、すこし吸おう」
わたしは、すこしだけ息を吸う。すぅと空気が切れる音がする。もがいていた肺が目当てのものを見つけて、動きだす。
「うん、上手だよ。じゃあ、もう一回してみよう、だいじょうぶだよ」
ひかりさんの手がわたしの背中をゆっくりとさする。そのペースに合わせて、わたしは、はいて、すってを、繰り返す。そのたびに、肺がぐんぐん働いて、もとの役割を取り戻す。
その間も、ひかりさんは、だいじょうぶを繰り返してくれる。ひかりさんは、まるで、わたしの酸素ボンベだ。あっという間に、呼吸が楽になる。
「ねえ、なぎさ」
ひかりさんは、しずかに唇をひらく。
「わたしはここの職員だからね、なぎさに何があったかは、だいたい聞いている。」
ひかりさんは、わたしの手を握ったまま、言葉をひとつひとつ選び、ガラス細工の割れものを運ぶように、わたしの心へと届ける。
「わたしはなぎさにはなれないから、悔しいけれど、なぎさの抱える苦しさを体験することはできない。だから想像するしかないんだけどね、想像するんだ。精一杯、想像するんだ。もし、わたしがなぎさの立場だったらどうだろうかって。そうしたらね、とてもじゃないけど、わたしじゃ耐えられないっておもった。わたしがわたしじゃなくなって壊れてしまうって感じた。まして、それを話すなんて、とてもじゃないけどできないって、おもったんだ」
何故だろう、ひかりさんの言葉は、まるで、わたし自身の言葉だったかのように、わたしの心へと届けられる。わたしは、届いた言葉に対して頷く。ぶじに届いたよと言う合図の代わりに。ひかりさんは、つづける。
「そんな状況を、なぎさは、これまでたったひとりで、ずっと、たったひとりでだよ、耐えて、耐えて、耐えて、耐えて、耐え抜いた。そうやって生き延びた。だから、ここにいる。たしかに、いる。わたしの目の前にいる。わたしには想像することしかできないけど、わかる。それは、凄いことだって。物凄いことだって。わたしには出来なかったとおもう。なぎさがして来たことは、人類が初めて月へ行くことよりも難しいことかもしれない。いや、きっと、ずっと難しいことなんだって。冗談じゃなくて、本気でそうおもうんだ」
わたしは、もう一度、頷く。
届いているを伝えたくて、こくと、頷く。
「わたしは心理さんじゃないから、なぎさの傷を専門的に癒すことはできないけどね、こうやってなぎさのそばに居て、辛かったねってなぎさの傷を一緒に抱えることはできる。痛いねってなぎさの痛みを想像することはできる。ここで、なぎさと一緒に生きることはできる。一緒にご飯を食べたり、お買い物したり、テレビを観たり、泣いたり、笑ったり、苦しんだりね、することはできる。痛みがぶり返したらその傷に手を当てることはできる。だから、なぎさはひとりじゃない。ひとりじゃないんよ。もうひとりじゃないんだ。わたしがいる。ほかの職員もいる。みんな同じ気持ち。みんながね、なぎさと一緒に、なぎさのそばで、なぎさの傷が良くなって欲しいって願いながら生きてる。どうか、なぎさの傷が癒えますように。なぎさの痛みが消えますように。なぎさがなぎさの人生を歩めますようにって、みんなが願っているの。わたしはね、そう願いながら、なぎさって呼んだり、ご飯を作ったり、おはよう、おやすみって声をかけたりしてるんだ。そして、それは、なぎさの心にね、心の奥の方にね、傷よりももっともっと奥の奥の命のところにね、届くようにしてる。いや、届いているはず。そうしてね、その奥の奥で、癒しの素みたいのが溶け出して、じわりじわりと効果を発揮するって、おもってるんだ。これね、根拠のないことじゃないの。わたしの抱えてた傷がそうやって癒えていったから実体験に基づいているの。だからね、なぎさの傷は、きっと、癒えるよ。たとえ、話せなくても、癒えない傷はないよ。それが一緒に生きているってことだよ。それは、なぎさのように傷を抱えた人にとっては、凄いことなんだ。なぎさの命は必死に生きてるんだ。話せなくても、なぎさの心のなかの免疫細胞とか白血球みたいなのが、傷を癒すために頑張ってるんだよ」
知らず知らずのうちに、わたしのからだは震えていた。でも、これは、怖くてじゃない。わたしのなかで長い年月をかけてできた大きな氷塊が、解け始めたからだ。たったいま、ひかりさんにあたためられて。解けた氷塊は、わたしの目と鼻の穴から、勢いよく噴き出した。噴き出した水は、濁ってなどいなかった。わたしのなかの水は、透明なままだったことに気がついた。そうか、そうだったのか。わたしのなかの奥の奥にある場所は、汚されてなどいなかったのか。わたしは、わたしを守り抜いていたのだ。『
その晩、わたしは、ひかりさんの腕に抱かれながら、泣いた。泣き続けた。人間って、こんなに泣けるのかというほど泣いた。どれだけ泣いたかというと、置いてあったボックス・ティシュが空になるほどだ。そんなに泣いたのは、生まれて初めてだった。
流れた涙と鼻水は、全部、透明のままだった。
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