光の記憶 第6話 ・・・

 木崎湖の朝は、まだ霧に包まれていた。

 北アルプスから流れ込む冷たい水が湖面を静かに揺らし、空と水の境界を曖昧にしている。


 「なんでここだと思ったの?」

 澪が問いかける。


 「“光の底”って題なのに、今までの写真には底がない。最後は底が見える場所じゃないかと思った。湖なら……」

 湊は湖を見つめたまま答えた。


 少し間を置き、続ける。

 「それに“いつかあの場所で”。あの写真集は光と息、二つの構図で完成する。誠さんと理音さん、二人で撮って初めて一冊になる。思い出の場所といえば……」


 「あの写真館のあった湖、というわけね」

 「そう。あの写真館の人に誠さんと理音さんのことを聞いてみようか」


 古びた看板の下に「写真館」と墨書きされた木札が揺れている。

 引き戸を開けると、乾いた木の匂いと、現像液のかすかな残り香が鼻をかすめた。


 「いらっしゃい、おや……」

 白髪を後ろで束ねた館主が迎えてくれた。


 「お久しぶりです、久しぶりですね。誠さんとは会えましたか?」

 「それが……」


 湊が事情を説明すると、館主は目を伏せた。

 「そうですか……残念ですね。また彼の撮った写真をまた見たいと思っていたのですが……」


 「実は誠さんの遺品の作りかけの写真集を頂きまして、完成させようと写真を撮っていたんです」

 湊が写真集とこれまで撮った写真を差し出す。


 「これは素敵な写真集ですね……誠さんの写真だけじゃなくて、理音さんの写真もあるようですね」


 湊は澪の横顔を見つめ、静かに言った。

 「やっぱり、この写真集は二人のものなんだ」


 「すいません、誠さんと理音さんのことをお聞きしてもいいですか?」

 澪の問いに、館主は頷き、壁に掛けられた別の写真を指差した。


 「理音さんと誠さんは、よくこの湖を撮っていたよ。二人にとって特別な場所だったんだろうね」


 懐かしそうに微笑みながら続ける。

 「本当に仲の良い二人だったよ。理音さんがいなくなってからも、誠さんは何度か一人で写真展を開いた。でも、どこか満たされない様子でね。忘れようとしても、忘れられない……そんな顔をしていた」


 澪はその言葉を心に留め、写真集の最後のページを思い出した。

 ――“すべての息が還る場所”。



 写真館を出ると、湖畔の風は少し冷たくなっていた。

 湊は歩きながら、ページを指でなぞる。


 「一ページ目は“はじまり”。二ページ目は“根付き”。三ページ目は“成長と儚さ”。

 四ページ目は“流れと再生”。五ページ目は“光と影の対話”。そして六ページ目は――」


 言葉を切り、湖を見つめる。

 「……最後のページだけ、何度も消してあって、キャプションは書けていないんだ」


 澪は小さく息を吸い、湖面に目を落とした。

 「じゃあ、撮ってみようよ」



 霧の朝。

 湖面は鏡のように静まり、山並みも空もすべてを映し込んでいた。

 上下の境界が消え、世界が一つに溶け合う。


 湊は息を整え、シャッターを切った。


>霧のなか、

>光は沈み、

>世界とひとつになる。


 その日の夕方、空は低く垂れ込め、やがて雨が降り出した。

 夜には湖面を叩く音が部屋まで響き、窓の外は白い帳に覆われていた。


 宿の食堂には、信州サーモンの刺身や山菜の天ぷら、焼き立てのおやきが並んだ。

 湯気の立つ蕎麦をすすりながら、二人はしばらく言葉少なに箸を動かす。


 澪はふと、母とこの席に並んでいたらどんな会話をしただろうと想像した。

 「美味しいね」と笑い合っただろうか。

 その思いが胸を締めつけ、箸を止める。


 「どうした?」

 「……ううん、なんでもない」

 笑ってみせたが、声は少し震えていた。


 夕食が終わると雨脚はさらに強くなっていた。

 2人は湊の部屋に集まり、残りの一枚についてどう撮るかを話し合った。

 湊はベッドに腰を下ろし、写真集の最後のページを開いたまま、しばらく黙っていた。


 「最後は……終焉の中で、終わる呼吸を写すのかな」

 何度も消された文字と、館主の言葉が頭をよぎる。


 澪は窓の外の雨を見つめながら首を振った。

 「それも綺麗だけど……違うんじゃないかな」


 「……澪はどう思うの?」

 「私なら……」


 言葉を探すように口を閉ざす。雨音だけが部屋を満たし、二人の間に静かな間が落ちた。



 夜の雨は明け方には止み、湖畔には澄んだ空気が戻っていた。

 澪は何かを探しているかのように歩き続けた。

 葉に溜まった雫が光を受けてきらめき、風に揺れては水面へと落ちていく。


 澪はカメラを構え、その瞬間を待った。

 雫が落ち、水面に波紋が広がる。

 その波紋は遠くまで広がり、やがて始まりへと還っていく。


 「波紋は広がって消えていきそうだけど……そこに一筋の光が差している」

 「うん。きっと消えるだけじゃなく、底を照らす光からまた生まれることを望んでいたんじゃないかな」


 澪の目から涙がこぼれ落ちた。



 「この写真集は、母と誠さんの物語だ。

 出会い、愛、そして別れ……。

 それでも、もう一度出会いたかった――」


 日記の最後のページに刻まれた一文――

 「もう一度、あの場所で」


 その言葉が澪の心に静かに響く。

 彼女は確信する。

 誠は、自分の父だったのだと。


 湊は黙って、その横顔を優しく見守っていた。

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