光の記憶 第5話 光の綾

「今度、長期休暇取るんだってね?」

同僚が声をかけてきた。


澪は手を止めて笑う。

「うん、ちょっと北海道に」


「え、彼氏?」

「だから違うって」

慌てて否定する澪を見て、同僚は肩をすくめる。

「でも、前と違って楽しそうだよ」


「……そんなことないよ」

そう答えながらも、澪の頬には自分でも気づかない柔らかさが浮かんでいた。



JR美瑛駅を出ると、澄んだ空気と広がる丘陵が迎えてくれた。

二人はレンタサイクルを借り、「パッチワークの路」へとペダルを踏み出す。


最初に立ち寄ったのは「クリスマスツリーの木」。

丘の上に一本だけ立つトウヒが、青空を背景にすっと伸びていた。

「ほんとにツリーみたいだね」澪が笑う。

「冬に来たら、もっと名前にぴったりかもな」湊も頷いた。

二人はしばらく黙って眺め、カメラを構えた。


さらに進むと、遠くの丘に「赤い屋根の家」が見えた。

緑と黄金色の畑の中に、小さな赤い屋根がぽつんと浮かんでいる。

「絵本みたい……」澪が思わず呟く。

湊はカメラを構えながら、「こういう風景が“美瑛らしさ”なんだろうな」と静かに言った。


その後、「親子の木」にも立ち寄った。三本の木が寄り添う姿に、澪は少し足を止める。

「なんだか、守られてるみたい」

湊は返事をせず、ただ同じ方向を見つめていた。


北西の丘展望公園に着くと、広がるパノラマに観光客の歓声が上がる。

売店でソフトクリームを買い、二人はベンチに腰を下ろした。

「観光っぽいことしてるな」湊が笑う。

「たまにはいいでしょ」澪も笑い返す。



丘を下る風の中で、澪はふとハンドルを緩めた。

小道の先に広がる風景に目を奪われ、ペダルを踏む足が止まりかける。

指先がブレーキに触れたが、押し込めずに離した。

視線だけをそちらに残し、身体は風に押されるように前へ進む。

振り返りたい衝動を押し殺すように、澪は前を向いた。



午後の丘を自転車で進んでいると、湊がふと足を止めた。

「あっ、ちょっとあそこ寄ってみたい」


視線の先には、傾いた光が麦畑を斜めに走り、丘の半分を影が覆っている。


「ねえ、ここ……。一枚目のキャプションに合いそうじゃない?」

澪は手帳を開き、書き残された言葉を指でなぞった。


> 傾く午後、

> 光は丘の影をなぞりながら

> 時の形を探している。


湊も立ち止まり、写真を取り出して光にかざし、しばらく黙った。

やがて小さく息を吐き、「……ほんとだ。確かに、ここかもしれない」と呟いた。


湊はカメラを構え、シャッターを切った。

画面には、丘のカーブが時間の流れを刻むように映り込んでいた。



夜、ホテルのレストラン。

窓の外には、まだ薄明かりの残る丘の稜線が見えていた。

テーブルに運ばれてきたのは、びえい和牛のステーキと、彩り豊かな地元野菜のグリル。


「……やっぱり、北海道の野菜って甘いね」

澪がフォークを口に運びながら、思わず声を漏らす。


湊はグラスを傾け、少し笑った。

「肉も悪くないだろ。びえい和牛ってブランドらしい」

「へえ、知らなかった」

澪は驚いたように目を丸くし、また一口。


食後には、ホテルの石窯で焼いたパンが籠に盛られて運ばれてきた。

小麦の香ばしい匂いが立ちのぼり、バターをのせるとすぐに溶けていく。

澪はパンをちぎりながら、ふと母と来ていたらどんな会話をしただろうと想像した。

胸の奥が少しだけ温かく、そして切なくなる。


「……これ、美瑛の小麦かな」

「そうだな。地元のパン屋でも人気らしい」

二人はちぎったパンを頬張り、顔を見合わせて笑った。



夕食後、二人は並んで今日の写真を見返していた。


「次はどこで撮る?」と湊。

澪は少し迷いながら口を開いた。

「……午前に通った道で、ちょっと気になる場所があった」


「じゃあ明日行こう」

即答する湊に、澪は戸惑う。

「でも、そこで合っているか……」


湊は真っ直ぐに言った。

「いいんだ。君の感覚は本物だから」


澪は思わず頬を赤らめる。

湊も自分の言葉に気づき、少し気まずそうに視線を逸らした。



翌日、撮影に最適な時間まで、二人は丘の上で風を感じながら待った。

澪は集中してカメラを構える。湊は黙って見守る。


一本の道を歩く人影。遠くに消えていくトラクター。

風が通り抜けるような構図が浮かび上がる。


シャッターを切る。


> 風が過ぎる。

> その道を歩く人の影が、

> やがて光の粒へと還っていく。


澪は写真を見返しながら湊に差し出した。

「これ、どうかな」


湊はしばらく黙ってから問う。

「……本当にこれでいいのか?」


澪は静かに頷いた。

「うん。母なら、こう撮る」


湊は澪の横顔を見つめ、もう彼女が自分の視点を持ち始めていることを悟った。



 帰りの機内。

 窓の外には、夕陽が雲の海を朱に染めていた。

 澪と湊は並んで座り、これまで撮った写真とキャプションを一枚ずつ見返していた。


 「最後は――すべての息が還る場所、か」

 湊が小さく読み上げる。


 「どこだろうね?」

 澪は問いかけるように笑った。


 アルバムには「光の底」「いつか、あの場所で」と並んだ文字。

 ページをめくる指先に、旅の記憶が重なっていく。


 湊はしばらく黙って窓の外を見つめていた。

 やがて、沈みゆく光に向かってぽつりと呟く。

 「……底か。最後は、あそこかもしれない」


 「えっ、どこ?」

 澪は思わず聞き返した。


 けれど湊は答えず、ただ夕陽を見つめ続けた。

 澪は言葉を飲み込み、彼の横顔を盗み見る。

 その表情は、何かを思い出そうとしているようで、同時に遠い未来を見ているようでもあった。


 窓の外、赤く沈む光だけが答えを知っているかのように、静かに雲の彼方へ落ちていった。

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