光の記憶 第2話 たゆたう大地

 宿で撮った写真を整理していた湊の目に、小さな通知が浮かんだ。

 ――《この写真、どこか懐かしい感じがします》


 澪の名前を見た瞬間、胸の奥がざわついた。

 ためらいながらも、湊は返信の文字を打ち込む。


 「誠さんから作ろうとしていた写真集の構想の手帳と写真が届いたんです。今度、手帳と写真のコピーを見てくれませんか」


 送信してしまったあと、指先が少し震えていた。



 数日後、カフェのテーブルに広げられた手帳と写真のコピーを前に、澪は息を呑んだ。

 「……これ、母の撮っていた写真に似てます」


 湊は顔を上げた。

 「お母さんの?」

 「ええ。光の入り方とか、余白の取り方とか……なんだか懐かしい感じがするんです」


 しばし沈黙が流れたあと、澪は写真を指さした。

 「……これ、稲ですよね。新潟じゃないですか?」


 「確かに米といえば新潟だけど……そんな簡単に分かるものかな」湊は苦笑する。

 「じゃあ、ちょっと調べてみます」


 澪はスマートフォンを操作し、画面を湊に差し出した。

 そこには棚田の写真。朝靄の中、稲を植える前の田んぼに光が差し込んでいる。

 「ほら、似てません?」


 湊は言葉を失った。確かに、手帳のキャプションと重なりそうな景色がそこにあった。



 朝一番の新幹線。

 まだ眠気の残る車内で、湊は手帳を開き、澪にキャプションを見せた。


 > 大地は光を抱きしめ、

 > しずかに息を返す。

 > 根の底まで届く微かな輝き。


 「始発に乗ってきたから、ちょっと忙しくしてごめん。でも、この写真は朝じゃないと撮れないんだ」

 「大丈夫です。むしろ楽しみです」澪は微笑んだ。


 「ところで、その荷物は?」湊が尋ねる。

 「実は……前の一件があってから、カメラを買ったんです。母の写真が好きで。自分でも撮ってみたくなって」


 湊は少し驚き、そして頷いた。

 「よかったら、教えてあげようか」

 「是非!」


 澪の声は、どこか弾んでいた。



 新潟駅に着くと、二人はタクシーに乗り込んだ。

 湊が写真を差し出す。

 「この辺りだと思うんですが、朝の光が残っているうちに着けますか?」

 運転手は写真を覗き込み、頷いた。

 「十日町の棚田ですね。少し急げば、まだ間に合いますよ」


 車は雪解け水の残る山道を抜け、やがて視界が開けた。



 春先の棚田はまだ水を張る前で、土の表面に朝の斜光が点々と反射していた。

 静かなリズムを刻むその光景に、湊はカメラを構える。


 シャッターを切る。

 画面には光が眠るように大地に抱かれていた。

 ――一枚目は、すんなりと撮れた。


 「私も撮ってみたい」澪が言った。


 「構図はね、まず水平を意識して……」

 湊は澪に基本を教えながら、自分自身も光の呼吸を確かめるように撮り続けた。



 次の場面を探して歩いていると、澪が「あそこ、気になる」と指さした。

 畦道に置かれた農具の跡、風に揺れる稲の苗箱、遠くに小さく映る人影。

 生命の循環を感じさせるモチーフがそこにあった。


 > 土の匂い、風の手ざわり。

 > それらすべてが、

 > 見えない呼吸を織りあげている。


 湊はシャッターを切ったが、どうにも納得できなかった。

 「……何かが足りない」


 「私なら、ここから撮るかも」

 澪は少し位置を変え、カメラを構えた。

 シャッター音。

 画面には、封筒に入っていた写真とは異なるが、キャプションにぴたりと寄り添う光景が映っていた。



 澪が撮った写真を見せる。

 「なかなかうまく撮れてるよ」

 湊はそう言いながら、胸の奥に小さなざわめきが残った。



 撮影を終えた二人は、駅前の食堂に入った。

 板の上に整然と並べられたへぎそばは、布海苔をつなぎに使っているせいか、つややかに光っていた。

 箸で一口すすると、喉ごしは驚くほど滑らかで、噛むたびに淡い香りが広がる。


 「これ、すごく食べやすいですね」澪が目を丸くする。

 「新潟の定番だよ。撮影で冷えた体にちょうどいい」湊は笑った。


 「手帳と写真をコピーさせてもらってもいいですか?」

 澪は改めて言った。

 「その写真、好きなんです」


 湊は頷いた。

 理由はうまく言えない。ただ、澪の視線に映る景色を見ていると、自分の中に言葉にならないざわめきが残った。



 「次はどこかな」湊が手帳をめくる。

 桜の写真が目に留まった。

 「桜なんて、どこにでもあるけど……ここはどこだろう」


 澪は少し考えてから言った。

 「母の遺品の中に、桜の写真があったと思います。探してみますね」


 桜――その言葉が、湊の胸に新しいざわめきを残した。

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