第2話
わたしの意識は途端発生した。見えるともなく目の前の情景がわかった。女が胸元を血に濡らしながら、生首を抱きしめて泣いている。さては命の危機かと思ったのち、女の抱えるあれはわたしなのだと気がついた。にわかに身体をあずけている地面の冷たさが感覚された。
女は泣き続ける。わたしはあの女と付き合っていたのだと直感したが、どうにも腑に落ちないというか、愛情めいたものは微塵も感じられなかった。わたしはここを去らねばなるまい。そう思い、足音を潜めてその場を去った。
暗い街を歩きながら、そういえばわたしだって血まみれの首なしであり、とうてい普通に生活はできようもないと思い当たる。人気のない寂れた夜の街でよかった。しばらく仕事には行けまいと、上司に母親が倒れたのでとてきとうな連絡を入れて着拒する。最新型のスマートフォンに買い換える金と熱量がないことに救われた。とっくにパスコードは覚えておらず、顔認証しかつかえない型のものだったら、これは無用の金属板に成り下がるところだった。働けなくなるというのは、つまり金がなくなるので、部屋を引き払うしかないのだが、手続きをすることも難しいだろう。
そんなことを思案しながら、とりあえず家路を辿っていると、曲がり角で女に鉢合わせた。わたしよりすこし歳上だろう、太り肉の女だ。買い物袋を提げてぶらぶらと歩いているから、近くに住んでいるとみえる。わたしを見るや否や、目を丸くして、
「……大丈夫ですか。」
と言った。大丈夫なわけはあるまいと自分でも思うのだが、不思議となにの痛みも苦しみもなかった。肯くように首を動かしてみせる。スマートフォンを取り出して、メモアプリをひらく。文字を打ち込んで女に画面を向けた。
『事故でこうなってしまったんですが、家がなくて、泊めてもらえませんか』
女はゆっくりと瞬きをする。表情の変わりかたが幼なげで、かわいらしい人なのだろうと思った。
「ああ……それは大変でしたね。うん、狭いけど、よければ。」
わたしは女の後をついて、彼女の自宅へと向かう。ほどなくして着く。
室内は狭いが整っており、小ぢんまりとしたミニチュアの家のようだった。彼女は茶を出そうとして、おろおろと茶器をしまった。あっ、のめないか、と呟く。独り言をいう癖があるようで、一人暮らしが長いのだと思った。
わたしは彼女にシャワーを借りて、汚れた身体を洗い流す。恐る恐る首元も流してみると、そこは切り口などうかがえない、なめらかな新しい皮膚で覆われていた。もともと頭を欠いたいきものであったみたいだ。浴室を出ると、身体を拭って女に借りた服を着た。髪やら顔やらをいじる手間がないと思うと、頭がないのも楽なものである。
居室に戻ると、彼女は室の主とは思えない、所在なさげなようすでぽつねんと座り込んでいた。いかにもやわらかそうな、とろけ落ちそうなほど脂がのった身体が畳み込まれ、窮屈そうである。
「ベッドはひとつしかないんだけど、大丈夫?」
申し訳ございませんと言わんばかりに眉を下げるので、わたしはこくこくと、首を縦に振ってみせる。じっさいのところ彼女と一緒に眠るのはむしろ望むところだった。わたしは彼女に惹かれている自覚があったし、彼女はきっとわたしを好きになると思う。
「そうしたら、明日も早いから、寝ます。あなたは好きにしていて構わないけど、電気は消させてほしい、豆球ならつけていいから。」
そう言うが早いか彼女はベッドにすべり込んで、わたしもそれを追った。
ほどなくしてわたしたちは恋人になった。
触れるたびわたしの指のかたちにへこんでは、なめらかに元通りの形にもどる、しっとりと重たい、彼女の腿が好きだった。室温で放置されたバターみたいにやわらかく、いかにも清潔に白い肌をしている。彼女は風呂上がりに身体中にクリームをすり込むのを習慣にしており、なんともなしに眺めていたらわたしの身体もおなじに扱うようになった。静かに肌のうえを這う彼女の肉厚なてのひらは、たびたびわたしの官能をくすぐった。
彼女は時たま、わたしの首もとにマネキンの首を据えつけて、目深にフードを被せ、マスクをつけて、ふつうの恋人どうしのようにデートした。彼女がふざけてマネキンに化粧を施すと、感覚などあるはずもないのに、くすぐったいような心地がして、照れくさいほどうれしくなった。
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