《エピローグ》

 月が変わって初めての祝日。この日は、ひとみとの約束通り、映画に行く日だった。

 梓達は、午前九時の中央広場という待ち合わせ通りに集合していた。――肝心のひとみを除いて。十分程度で来るとの事だったので、梓達は、朝のすがすがしい空気に身を浸していた。

 一連の事件から半月。涼人の制圧をきっかけとして、実行犯はすべて制圧された。それにより事件そのものは一応の解決を見た。

「結局、聖人って何だったんでしょうね……」

 空を見上げながら、梓はずっと抱いていた疑問を口にした。

 涼人を含めた実行犯も、今までの才能には頼らない新しい演算だと聞かされただけらしい。無光むこう演算(と呼ばれる事になった)を提供した技術者も捕まったが、その供述や技術は、あれほどの事件を起こせるほどではない、という結論だった。結局、核心は闇の中だ。

「私達が考えて答えが出るものじゃないわ。もっと詳しく調査すれば、いずれ分かるはずよ」

「そう……ですね」

 梓の声は、意図せずに少しだけ沈んでいた。

(ほんの少しだけ、期待してたんだけどな……)

 もし聖人の正体が演算なら、涼人の絶望を少しでも払えるのではないかと。演算は涼人を見放さなかったと言えるのではないかと。

「あの、エルデ先輩……」

「なに?」

「エルデ先輩は……その……演算の事……」

 梓が、躊躇いを振り切れないでいると、子供の「あーっ」という悲鳴じみた声が響いた。

「ふうせんがーっ」

 そう叫ぶ子供の視線を追っていくと、赤い風船が優雅に空を昇っているのが見えた。

 梓は咄嗟に演算を組み立てようとする。だが、木や電灯を足場にしても式が成立しない。

「――〝抜錨スタンドアップ〟」

 梓が視線を向けた時には、すでにエルデは演算体となって地面に立っていた。

 その姿がかき消える。木を足場に空高く舞ったエルデが、風船の糸を握っていた。

 深くしゃがみ込むように着地したエルデは、子供と同じ目線で風船を手渡した。ゆったりとした歩調で戻ってくる途中で、透けて溶けるようにその姿が消えた。

 視線を横に落とすと、車いすの上でエルデがゆっくりと目を開くところだった。

「……私はね」

 エルデが前を向いたまま、そっと息を吐くように言葉を発した。

演算体わたしでしかないし、そうあり続ける事しかできない。もう私と演算体わたしは一つなのよ。今更、演算を肯定的に見る事はできない。私は魔人。それ以外の生き方はない」

「そんな風に決めつけなくてもいいじゃないですか!」

 怒鳴りつけるような自分の声に驚きながらも、梓の言葉は止まらない。

「魔人だから何でもかんでも背負わないといけないとか、そんなの絶対に違います! なんで見つけようとしないんですか! それだけの演算が使えて、何で諦めるんですか! いいじゃないですか、お嫁さんでもケーキ屋さんでも本屋さんでも何でも夢見たって! それすら許されないんですか、魔人っていうのは!?」

 エルデの理不尽な思い込みに、梓は拳を握り、ありったけの思いを込めて反論する。

 そんな梓をまっすぐに見つめていたエルデの口が、小さく開いた直後、

「すみませーーーーーーーん!!」

 そんな騒がしい声が、二人の間にあった緊張感を根こそぎ吹き飛ばした。

「す、すみません! 遅くなりました!」

 駆け寄ってきたひとみが、膝に手をついて荒い息で謝罪の言葉を述べてくる。

 梓はうまく気持ちの切り替えができなかったが――エルデが、話は終わりとばかりに視線をひとみに向けてしまっていたので、小さく息を吐いて強引に気持ちを切り替えた。

「ひとみ! 遅いよ!」

 そう梓が咎めると、もう一度「すみません」と謝った後、ひとみは、勢いよく顔をあげて、真っ赤な顔をして反論を始めた。

「でもでも、仕方が無いんですよ! もう寝癖がひどいわあるはずの服がないわ鞄を出したら他のものが崩れてくるわ! ものすごい大騒ぎだったんですよ!?」

「完全に自業自得じゃない。事前に準備しておかないから」

「うわ、聞きましたか、エルデ先輩! これだからおしゃれに無頓着な人は……!」

「ちょっとひとみ! そういう話じゃないでしょ!?」

「いーえ、そういう話です! なんなんですか、その明らかに手抜きーな普段着は! こういう時は、きちんとおしゃれするのが、女の子のたしなみってものです」

 胸を張って自らの服装を示すひとみは、確かにデートかと思うほど気合いが入っている。対して梓は、ほとんど普段着と変わらない服装だ。

「エルデ先輩からも何とか言ってやってくださいよ!」

「そうね。こういう事って、普段から気をつけておかないと、いざという時に失敗するものかもしれないわね」

「ほらほら! 何気にエルデ先輩だって、少しだけいつもと違うんですよ!?」

「え……」

 思わず驚きの声が漏れてしまった。はっとなって口元を押さえるが、後の祭りだった。これみよがしなため息が、ひとみの口から漏れる。

「これだから梓先輩は。別におしゃれって、女の子女の子する事じゃないんですからね」

 ぐうの音も出ない。それでもせめてもの意地とばかりにひとみを睨みつけてみるが、むしろ「ふふん」と鼻で笑われてしまう始末だった。

 どうやって息の根を止めてやろうか、などと物騒な思考に飛び始めたところで、「皆様」とネイがやんわりと声を発した。

「そろそろ向かいませんと、間に合わなくなってしまいますが」

「そうね……そろそろ行きましょうか」

 エルデの声で、移動を始める。よほど気分がいいのか、ひとみは、はしゃいで駆け出してしまった。早く早くと手を振っている姿は、まるで子供だ。

「梓。勘違いしているみたいだから言っておくけれど」

「え?」

「私はね、これでも感謝しているのよ、演算に」

 一瞬、言葉の意味を計りかねたが、先ほどのやりとりの続きだと思い至った。その聞きたいと思っていながらも意外な言葉に、梓は驚きを隠せない。

「そ、そうなんですか?」

 ええ、とエルデはゆっくり頷く。その表情を見て、梓ははっと息を呑んだ。

「演算があったお陰で、私は両親の思いを知る事ができたんだもの」

 そっと、片手で胸元を押さえるエルデの顔に浮かぶのは、穏やかで明るい、安らかな微笑。

 まるで野に咲く花のような――何よりもエルデらしいと思えるような、そんな笑顔だった。

「だから、私は……罪と赦しを抱いて、魔人であり続ける。あなたが抱く覚悟のように、ね」

 エルデのその言葉が、梓の内に染みこんでくる。

 人の笑顔を守る。

 今、この瞬間――梓は、本当にそれができたのだと、心の底から、思った。

FIN

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はたらく乙女の「解」の公式 片城 小次郎 @hiraki-kojiro

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