[4]
大通りから一本外れた細い道。
人通りも少ない路地を入ったところで、梓は全身に緊張を張り巡らせていた。
厳しい視線が見据えるのは、六階建てテナントビルの外階段。その五階と六階を結ぶ踊り場の柵から、男の子が身を乗り出していた。
左手で柵を掴み、右手を懸命に伸ばしている。その手の中いる小鳥を、ひさしの脇にある巣に戻そうとしているのだ。
迷子を捜すという支援要請だったが、蓋を開けてみれば、とんでもない事になっていた。
(これは――間に合わない)
階段を上がりきる前に、この均衡は崩れる――そんな予感が、梓の意識に鋭く刺さった。
「――〝
梓はすぐさま演算を起動するが、
(くっ、〝
その〝解〟と〝式〟は――落ちる前に抱き留めようとする梓の手は、男の子に届かなかった。
理論として成立するルート、そして動きは存在する。しかし、梓の経験が、梓自身が、限界を示してしまう。
内心の焦りを抑えて新たな道を探そうとした次の瞬間、男の子の左手が滑った。
「――〝
梓は、咄嗟に棄却しかけた解で演算を起動、地面を蹴った。
踊り場につま先を引っかけ、ひさしの側面を蹴り飛ばし、跳ねるように高みへ向かう。
だが、三階のひさしに足をかけたところで、限界が訪れた。その身は、慣性と重力に従って一瞬の均衡を保つが、すぐにぐらりと後方へ傾いた。
逡巡――梓は新たな演算を起動。身体操作能力を最大限に向上させ、体をひねるようにしてひさしの上に両足をつき、強引に体勢を立て直した。
「〝
片膝を着いたまま、〝男の子を受け止めて着地する〟解で演算を起動。
(体重と落下速度を取得。適切な受け止めの角度と姿勢を取得。受け止め後の軌道変化を取得。着地点と侵入角度との成立を確認。タイミング取得)
梓は、瞬き一つの間で膨大な知識と計算式と計算結果をかき集め、それらを結びつける。
空白による男の子の落下をも演算に織り込み――
「〝
最適な状況へ我が身を飛び込ませた。
梓の手は、ぴたりと男の子を受け止める位置へ伸ばされている。
梓が成功を確信した直後、男の子の体が跳ねた。
(なっ――!?)
ほぼ同時に、四階のひさしから何かが――植木鉢が滑り落ちてきた。
梓の体に戦慄が走る。一縷の望みに意識を伸ばすが、揺れる〝解〟は〝式〟に繋がらない。
絶望が胸の中を黒く染めていく。
だが、梓はそれでも無我夢中で男の子へ手を伸ばす。
「――〝
凜とした声。直後、背中に添えられる優しい感触。
射貫くような迷いのない翡翠色の瞳が、さらりとなびく銀糸とともに梓の目に映った。
絶望が、一瞬にして光に変わる。
ふいと翡翠色の瞳が逸らされ、背中を支えていた温もりが離れた。
銀色の背中は、すり抜けるように植木鉢を避けて男の子を抱き留め、踊り場を蹴り上げる。
(ああ、遠いなぁ……)
梓は、落ちていく自分と、昇っていく背中とを比べて、そう思った。
今、下には、車いすに座ったエルデの体があるはずだ。
エルデが持つ特異な演算――それは
その格付けは、演算の最高峰である
六階まで一度の跳躍で跳んだエルデは、壁に手を当て、まるで重力の楔から解き放たれたように宙に留まった。ほんのかすかな壁の凹凸に手をかけ、二人分の体重を支えているのだ。
それをなすのに、どれほどの計算が必要なのか……梓には想像もできない。それが自らの限界を定める事だと理屈では分かっても、到底、たどり着ける自分を想像できないのだ。
演度七の演算手が別格と言われるのは、単なる演算能力の違いによるものではない。
その絶対性は、たった一つの演算にたどり着いている事。
人の限界を超え、想像の領域へと足を踏み入れた者。
故に、魔人。
彼女の名は、〝
それは、演算都市にたった数人しか存在しない、遙かな高みに刻まれた名だった。
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