[2]

 都市を一直線に横断する中央通りは、車道三車線、自転車専用道路、歩道を上りと下りの両方に持つ、演算都市の幹線道路である。

 その両脇にはテナントビルが一枚の壁のように整然と立ち並んでおり、特に一階のテナントはファッションや飲食、娯楽など様々な顔で人々の目を楽しませている。

 その一方で、人や自転車、車の流れはその量にしては驚くほどよどみがなく、まさしく大動脈と言うにふさわしい様相だ。

 そんな通りの歩道を、エルデ達は、ゆったりとした足取りで歩いていた。

「で、居眠りしてた子が、いきなり『メロンパンが吹っ飛んだ!』って言って立ち上がったんですよ。あの時の教室の雰囲気と言ったら……。それで授業終わった後に、なんでそんな寝言言ったのかって聞いたんですね。そうしたら、お昼にメロンパンを買えなかったんですって。思わずみんなして笑っちゃいました」

 思い出し笑いを堪えて話す梓。エルデはほんの少しだけ考えてから、素直に話す事にした。

「そういうあなただって、以前、玉子焼きが逃げた、ってうなされてたわよ?」

「……え?」

「あなたの場合、それでも起きなかったけれど」

「え、えーっと……」

 笑顔で固定された表情のまま、梓はしばらく「えーっと」と繰り返してから、「ま、まぁ、それはともかくですね!」と大げさに声を張り上げた。

「今の所トラブルが起こる気配も無いですし、今日の見回りはすんなり終わりそうですね!」

 ぐるりと辺りを見回して、梓は自分の主張にうんうんと頷いている。

 あまりに露骨な話題転換に、エルデは思わず目尻を下げて「そうだといいわね」と答える。

 だが、他愛ない雑談の中でも、エルデは周囲への注意を怠っていない。それは梓も同様だ。二人にとってそれは使命感を伴った仕事であり、自然な姿勢である。

 つまるところ、エルデと梓は、単なる学生ではない。

 二人が籍を置くのは、演算振興管理委員会。演算の普及や管理の全般を担い、魔人と呼ばれる最高峰の演算手数人を始め、多くの優秀な演算手が所属する組織――通称、魔人館――だ。その中でも、都市の治安維持やトラブル解決を担当する都市賦活課に所属している。

 魔人館は演算の意欲的な使用を推奨しており、トラブルも含めて演算の発展を促すと考えているため、見回りは賦活課の業務の中でも非常に重要だ。

 特に今は、『演算振興博覧会』という年に一度の、演算を使った都市住人参加型の行事を控えているため、様々な原因でトラブルが起きやすい。

「当日はまた目の回るような忙しさでしょうし、今は体力を温存しておきたいところね」

 去年までの博覧会を思い出し、エルデは少しだけ憂鬱な気分になった。

 いさかいやケンカの仲裁を始め、迷子の対処や道案内、発表内容のトラブル対処など、賦活課が担う当日の業務は膨大だ。

「でも、今年は、わたし、もっと頑張りますから。エルデ先輩だけに無理はさせません」

「意気込みは大変よろしいかと思いますが、進上様、くれぐれも猪突猛進はお控え下さい。かえってお嬢様のご迷惑になります」

 ネイに睨むように釘を刺された梓が、「き、気をつけます」と強ばった顔で頷いた。

 その直後、梓の背後から、忍び寄るようににゅっと二本の手が現れた。

 くいっと邪念を感じさせる動きですべての指が同時に曲がり――

「だぁーれだっ」

 軽やかに弾んだ少女の声と同時に、制服を押し上げている梓の胸が、ぐわしと掴まれた。

「ぬあひゃぁっ!?」

 びくんと跳ねた梓が、引き抜いた肘を欠片の容赦もなく振り下ろす。

 しかし、そんな梓の一撃を、不埒な少女はするりとかわした――その両目を閉じたまま。

「いやぁ、あいっかわらずいい胸してますよね、梓先輩って」

 指をにぎにぎと動かすのは、どこかやんちゃな子猫を思わせる、小柄なショートカットの少女。

「そのいかがわしい動きをやめなさい! そもそもだーれだとか言ってどこ掴んでんのよ!?」

「それは梓先輩のせいですね。あたしの背だと、背中越しじゃ顔まで届かないんですよ」

 少女――樫見屋ひとみが耳たぶに触れようと伸ばしてきた手から、梓は飛び退いて逃げた。

 ちぇーと唇を尖らせて手を引いたひとみは、エルデの方へ顔を向けて、小さく頭を下げる。

「お疲れ様です、エルデ先輩」

「ええ、お疲れ様、ひとみ」

「梓先輩も、お疲れ様です」

「……お疲れ」

 にこりと日だまりのような笑みを向けられた梓が、ぶすっとした表情で返す。その反応にクスクスと笑うひとみは――一度たりとも、まぶたを開いていない。

 だが、その首にある輪が光を発している限り、演算都市では不思議な事ではない。

 ひとみは、常に視界拡張の演算を行使している。周囲の映像を取り込む事で視界を確保しているのだ。考え方によっては、むしろ人並み外れた目を持っていると言えるだろう。

 ネイとも挨拶を交わしたひとみは、「今日はこの辺りなんですね」と梓に声をかけた。

 しかし、梓はまだ機嫌が直っていないのか、小さく頷くだけだ。

「梓……大人げないわよ」

「じゃあ、エルデ先輩が胸揉まれてみますか?」

「あら。私にだったら、ひとみはきちんと『だーれだ』をやってくれるわよね?」

「はい、それはもちろん」

「ちょ、何でよ!?」

「手が届くから」

 ひとみがさらりと返すと、梓は悔しそうにうめく。それから、苦し紛れに「そんなに人をからかって面白いの?」と責めるように言う。

「……ひょっとして、やりすぎちゃいました? ごめんなさい」

 いきなりしゅんとなったひとみが、ぺこりと頭を下げる。途端に梓が視線を彷徨わせ始めたので、エルデは「あなたの負けね」と助け船を出した。

「ここしばらく忙しさにかまけて構ってあげてなかったでしょう? ダメな先輩ね」

「うっ……それは……でも、エルデ先輩だって……」

 梓の恨めしげな視線に、エルデはため息で返した。

「本当に鈍いわね」

「まぁ、梓先輩ですから」

 ひとみの言葉に、エルデは「それもそうね」と頷く。梓だけが怪訝そうに眉を寄せている。

「そういえば、ひとみは確か、友達と遊びに行くと言っていたわよね?」

「はい。ちょっと用事があったんで、先に行っててもらったんです。これから合流します」

「そう……これから忙しくなるし、今日はしっかり遊んできなさい」

「はい。じゃ、あたしはこれで失礼しますね。梓先輩、サボっちゃダメですよ」

「あんたじゃないんだから、サボったりするわけないでしょ!」

 ムキになった梓の反応に、ひとみは「あはは」と楽しそうに笑ってから、ぺこりと頭を下げて人の流れの中へするりと身を滑り込ませていった。

「まったく、ひとみったら……失礼にもほどがある」

「あれも愛情表現よ、かわいいものじゃない」

 露骨に顔をしかめる梓に、エルデは思わず笑みを漏らす。

 それを合図にしたように、ネイが車いすを押し始めた。不機嫌そうな表情の梓が隣に並ぶ。

 しばらく進むと、三人は中央通りに面した憩いの場、中央広場へと入っていった。

 機能美を優先した通りとは違い、レンガを敷き、緑を多く配置した空間だ。演算による計算で配置された樹木が通りの喧噪を適度に遮り、木々の囁きと水の跳ねる音が聞こえてくる。入口からは見えないが、広場のほぼ中心には、噴水が設置されているのだ。

「ここはいつ来ても平和ですね」

 梓が大きく息を吸って顔をほころばせる。エルデも同意して、背もたれに深く体を預けた。

 そのまましばらく、自然の音が作り出す静寂の中を進んでいく。

 すると、エルデ達の耳に、明かな人工の音が飛び込んできた。

 ハイテンポでたたみかけるような旋律だが、人を楽しませ、心のギアを上げていくような、気分を高揚させる音楽だ。

「誰かが博覧会の発表の練習でもしてるんですかね……?」

 興味ありげに呟いた梓の足は、すでに旋律に誘われつつあった。

 エルデは小さく息をついて、「そうね」と同意する。ネイが車いすの進行方向を変えた。

 エルデ達が向かったのは、通りから完全に陰になる、ベンチが設置された空間だった。

 いくつかのベンチを、それぞれ植え込みが囲うようになっており、その頭上を木の枝が傘のように覆っている。隣を気にせず、ゆっくりと自然を満喫できるよう作られているのだ。

 その一つに三人の少女がいた。ベンチに置かれたオーディオプレイヤーと向き合い体を動かしている。シンプルな指輪を通したおそろいのネックレスが、きらりと首もとで跳ねていた。

「ダンス……とは、ちょっと違うみたい、ですね……?」

 一見すると踊っているだけに見えるが、全員の動きが一つの図形を描くように、ぴたりと一致していた。その上、図形は単体ではなく、まるで動画のように場面として流れている。

「演劇とダンスを組み合わせたようなもの……かしらね。面白い演算の使い方をするわね」

「これ、結構難しいですよね」

「そうね。どんな演算が使われているか分かる?」

 エルデが問うと、梓は、食い入るように前のめりになって少女達を見据えた。

「えっと、これだけぴったりと動いてるって事は、イメージの共有はやってますよね。それから、計画通りに動くっていう事だから、お互いの位置情報を確認しあってて……あとは……」

 そこで言葉に詰まる梓。エルデは続けてネイに問いかけた。

「身体操作能力の向上と時間進行の共有、それに中央の少女を中心に、意思伝達のネットワークも構築されているようです。時折、彼女に合わせて、他の二人が動きを修正しています」

「梓は、少し観察が甘かったわね」

 エルデの評価に、梓は「むぅ……」と唇を尖らせた。

「でも、無理もないかもしれないわね。あの三人、なかなか面白い発想で演算を組み立てているもの。けど、ちょっと構築が甘いわね。苦肉の策と言ったところかしら」

「え? どういう事ですか?」

「たぶん、中央の子が、一番演度レートが高いのね。そのアンバランス自体は仕方のない事だけれど……完全にシンクロできていないから、彼女が逐一、修正していかなければならない。少しずつ綻びが生まれている。もう少ししたら崩れるわよ」

 梓が疑わしそうに眉根を寄せている。エルデは、「見ていれば分かるわ」と静かに言った。

 約一分後、突然、左側の少女が足をもつれさせた。精密に描かれていた絵に乱れが生じる。

「ストップ!」

 中央の少女がそう声を張り上げ、動きを止めた。同時に、指輪の発光が完全に止まった。

 荒い息の合間を縫うように、ごめん、と左側に立つ少女が言うと、他の二人が異口同音に「気にしないでいい」と慰める。

 そんな少女達に、梓が「惜しかったね」と声をかけた。一瞬だけ驚いたように目を見開いた少女達だったが、すぐに「ありがとうございます」と照れ混じりの笑顔を覗かせる。

「博覧会の発表の練習?」

「あ、はい、枠をいただけたので……」

「うん、今の内容だったら、審査通るのも納得かな。すごく良かったよ」

「ありがとうございます。でも、やっぱりまだまで……」

「そんな事無いよ。そりゃ、ミスはしちゃったみたいだけど、でも、まだ博覧会までは二日あるんだし、十分に取り返せるって」

 梓は、あっという間に中央のリーダーらしき少女と雑談に入っていた。

(……こういうところは、本当に大したものね)

 エルデには決してマネできない。もっとも、梓はそれで面倒も呼び込むので一長一短だが。

「あ、あの……」

 右側で踊っていた少女が、エルデに声をかけてきた。隣では、もう一人の少女も興味深そうにエルデを見ている。

「ひょっとして、エルデ・ウトーピアさん……ですか?」

「ええ」

 エルデの肯定に、少女達の瞳が輝いた。互いに顔を見合わせ、歓喜の悲鳴を上げる。

「ウソ、本物だ……!」

「すごいよ、こんな近くで見られるなんて!」

 飛び跳ねんばかりに喜ぶ少女達。その反応に、エルデは内心で苦笑を浮かべた。

「あのあの、その、いきなり失礼だっていうのは、よーく分かってるんですけど……その、ウトーピアさんの演算、見せてもらえませんか!?」

 興奮冷めやらぬ様子のまま、声をかけてきた少女が、勢い込んでそう言ってきた。もう一人の少女も、こくこくと首を縦に振っている。

「申し訳ないけれど、私の演算は、都市を守るためにあるの」

 エルデの柔らかい声音に含まれた拒絶に、少女達の顔に強い未練と不満が浮かぶ。

「二人とも、あんまり困らせるもんじゃないよ」

 リーダーの少女が、まるでつまむように二人の襟首を掴んで、エルデから引き離した。

「すみません、ウチの子達が無理を言って」

「いえ。こちらこそごめんなさいね」

「そんな、気にしないで下さい」

 リーダーの少女に続いて、エルデに詰め寄っていた少女達も、すみませんと謝ってきた。

「ほら、二人とも、撤収の準備して。きちんと汗拭くんだよ」

 少女達を押し出したリーダーの少女が、「それじゃ、これで」と小さく頭を下げると、梓が「え、終わりなの?」と驚きの声を上げた。

「あ、はい。このあと予備校なんで。模試も近いし、あんまり長く練習できないんですよ」

「でも、さっきの、もう少し身体操作能力の向上を練習すれば何とかなると思ったんだけど」

「あー……それは、プログラムを少し直します。もちろん、クオリティを落とさないように」

「え、でもそれは練習すればいいだけじゃ……」

「梓、止めなさい」

 エルデが断ち切るように言うと、梓がぐっと言葉を飲み込んだ。

「ごめんなさいね、引き留めて。本当にいい演目だと思うわ。約束はできないけれど、時間があったら見に行かせてもらうわね」

「あ、はい。是非来て下さい」

 人好きのする笑みを残して、リーダーの少女は、他の二人に駆け寄っていった。

「ネイ」

 エルデの声に応じて、ネイが車いすを押し始めた。慌てたように梓がついてくる。

「不満そうね?」

 エルデが問うと、梓は「はい」と隠す事もなく言った。

「だって、もう少し身体操作能力の向上に慣れれば……もっと完成度が高くなるのに」

「確かに、本番まであと二日……あの演目に限って言うなら、十分な時間ね」

「そうです。なのに、あんなプログラムの方を直して妥協するだなんて……」

 梓は、我が事のように悔しげに顔を歪めている。

 と、その時、空に抜けていくような、荘厳な鐘の音が辺りに響いた。

 音の源は、都市の中心に建ち、淡く光を放っている演算塔(レーティングタワー)の最上階。

 その鐘は、午後三時を告げると同時に、演算のエネルギーである演算光が、都市のあちこちに設置された、発光器と呼ばれる装置から発せられる事を教えている。

 都市全体をまんべんなく包み込むこの現象は五分間続き、その光は心を洗うような明るさと温かさで人々を照らす。

 この時間だけは、誰もが手を止め、足を止め、争いを止め、演算塔に心を向ける。

 都市でただ一つ、停電下でも光を放ち続ける演算塔は、都市の平和と演算の象徴だった。

 鐘の音が余韻まで空に溶けると、車いすが再び動き出した。

 エルデは、無言で横を歩く梓に、「ねぇ、梓」と柔らかく呼びかける。

「誰もが上を目指せるわけではないのよ。あの子達の踊っている時の顔、きちんと見ていた?」

「え?」

「すごく楽しそうだった。あれが自分達の一番だって、あの子は分かってる。だから失敗しても責めなかった。あの子達は一生懸命やっているし、楽しんでいる。そうでしょう?」

「そう……なんでしょうか」

 梓は悩むように眉間にしわを刻みながらも、不満は収めたようだった。

 そんな梓を見て、エルデはふと思う。

 もし、何にも縛られず、自由に動ける体だったなら、私も梓と同じように考えていたかもしれない、と。

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