《演算1》

[1]

 体育館の天井を仰ぎ見て、制服姿の少女――進上梓しんじょうあずさは簡潔に呟いた。

「あれは厳しいね」

 まるで獲物を狙う獣のように目を細める立ち姿は、姿勢が良くすらりと引き締まっている。

 高校生という年頃だがアクセサリーはつけておらず、化粧っ気もない。背中の中程まである黒髪を、うなじでまとめている太めの髪ゴムが唯一の飾りだ。

 それでも自然と目を惹く覇気がある。存在そのものが、生命力と躍動感を感じさせるのだ。

「そうなんですよ!」

 体操服姿の少女が、祈るように手を組んで、少し熱っぽい視線で梓を見上げている。その後ろには、数人の少女達――恐らくはクラスメートだろう――が同じように梓を見つめていた。

「先生が演算の練習になるから自分達で何とかしろって……ボールを当てて落とそうとしたんですけど、全然うまくいかなくて。もうすぐ休み時間も終わっちゃうし、それでもう、先輩に頼るしかないって……」

 少女の訴えに、周囲も熱心に頷く。

 梓は、再び視線を天井に向けた。

 天井を走る細い支柱が交差する部分に、三つのバレーボールが挟まっている。ボール同士の距離が少し離れているのは、本当に〝全然うまくいかなかった〟からだろう。

「大丈夫。任せて」

 自信にあふれたそのハスキーな声に、少女達が黄色い声を上げる。

「ボール、一個貸してくれる?」

 渡されたボールの感触を味わうように、梓は軽くボールを回し、タンと一回床を叩く。

 そして、ぴたりと動きを止めた。

「――〝解を設定アンサーセット〟」

 厳かな呟き。梓が首に着けた金属質のリングが、淡く光を放つ。

 梓の顔に揺れる陰影を刻む、無骨なリング。それは、梓の自然な――野性的とも言える躍動感を損なう不自然な付属品だ。

 だが、それを異様と見る者は、少なくとも静寂に包まれたこの場には、一人もいない。

 梓が膝をわずかに曲げる。衣擦れの音すらほとんど立てない、しなやかな動き。

 そして、制止。

 少女達は、梓に魅了されていた。呼吸さえ忘れたように、梓の一挙手一投足を追っている。

 梓の小さな呼気が静寂の合間に忍び込み――

「――〝式の完成フォーミュラ〟!」

 強い語気と共に、梓は両手で鋭くボールを打ち出した。

 バン、と甲高い音と共に、挟まっていたボールが一つ、弾き出される。

 あっ、と誰かが驚愕とも歓声ともつかない声を上げた。

 衝撃音が後に続く。梓が放ったボールが、二つ目のボールに当たったのだ。

 その直後、一番最初に弾かれたボールが、バスケットゴールのリングに当たり、吸い寄せられるように梓の手の中に収まった。

 タン、と一つリズムを刻み、梓はそのボールを最初と同じように鋭く放つ。

 狙いは、最初に放ち、まだ空中を泳いでいるボール。

 空中で衝突した二つのボールはお互いに正反対へ飛んでいく。その一方――梓が二番目に放ったボールは、天井に取り残された最後のボールへと向かっていた。

 誰かが息を呑む。全員の視線がボールを追っている。

 それが必然のように、最後のボールが宙へ投げ出された。

 ――ダン。

 床を叩く音が、静寂の中に響く。

 まるでそれを待っていたかのように、二つ目、三つ目、四つ目と音が続いた。

 ――すごい。

 誰かが吐息のように漏らした瞬間、歓声が爆発した。

 すごい、信じられないと黄色く叫ぶ後輩達に、梓は「これくらい、大した事ないよ」と涼やかに応える。

「そんな事ありませんよ! 進上先輩じゃなきゃ、こんな演算はできません!」

 瞳に純粋な光を宿し、少女は言う。それは梓を囲む全員が同じだった。

(そんなに特別な演算じゃないんだけどな……)

 梓は、内心で呟く。

 ――演算レーティング

 それは、多くの人々の知識と経験を共有し、願いを叶える方法を導く技術だ。

 深層共応意識領域――いわゆる集合的無意識――を通して無数の脳を精神的に繋ぎ、《演算領域》を構築する事によって、超常現象的事象すら計算し実現を可能とする。

 つまりは、無数の脳を同時に使用し、あらゆる願いを叶える方法を導くのだ。

 とはいえ、梓がやった事は、複雑ではあるが、単なる軌道計算である。

 『すべてのボールを、最も手数少なく落とす』という〝解答〟を導くための動き、つまり式を計算・構築し、その通りに体を動かしただけだ。誰にでも、とは少々言い過ぎだが、努力すれば十分に到達できる領域である。

(そもそも本当に〝すごい人〟は――あの人は、こんな派手な事はしない……)

 梓は、自分の未熟さに拳を握る。

 だが、胸の中にわだかまるモヤモヤとした気持ちを吐き出すように、そっと手を開いた。

(まぁ、この子達の気持ちも分かるんだけど、ね)

 梓自身が、遙かな高みを、憧れと共に見続けているのだから。

 梓は、後輩達が送ってくる賞賛の隙間を見つけて、「用事があるから」とその場を辞した。

 早足で昇降口へ行き、演算による自動認証を受けて下駄箱から靴を取り、上履きを戻す。

 校舎の外に出た梓は、校門へ向けて駆け足。

 待ち合わせの相手を見つけて、梓は、「すみません、遅くなりました」と声をかけた。

 校門の脇に止まっていた車いすが、グリップを握るメイドの手で、ゆっくりと振り返る。

 車いすに悠然と腰掛けているのは、梓と同じ制服に身を包んだ、長い銀髪の小柄な少女。

「あなたの遅刻は、今に始まった事じゃないでしょう」

 凜、と鈴が鳴った。呆れを含んでいても、思わず聞き惚れてしまいそうな高く澄んだ声。

「また誰かを助けていたんでしょう?」

 小さく首を傾げながら、少女はすらりとした人差し指で、自らの首に――そこにはめられた金属質のリングに触れた。

 その仕草に合わせて、降り注ぐ陽光に照らされた銀糸のような髪が、さらりと揺れた。

 涼やかな鼻梁と透き通るような肌がその銀色をより映えさせ、鋭い刃を思わせる翡翠色の瞳と合わさって、丁寧な手細工の人形にも似た美しさを描き出している。

「本当に梓はお人好しね」

「すみません……」

 梓が小さくなって謝罪を口にすると、少女は、「まぁ、それが梓だものね」と軽く笑う。

 彼女の名は、エルデ・ウトーピア。

 幼少の頃に黎明期の演算都市へ移住し、以来、演算を支えてきた演算の使い手――演算手レーターの第一世代だ。事故で両足の自由を失ったが、保有する特異な演算で都市の平和に貢献し続けている。

 学生としても演算手としても、梓が最も尊敬する先輩だ。

「あなたからお人好しを取ったら、長身しか残らないし」

「ちょ、それひどくないですか!?」

 梓が思わず悲鳴をあげると、エルデは口元を覆って、くすくすと楽しそうに笑みをこぼす。

「相変わらず、お嬢様は甘いですね」

 ため息のように、エルデの背後に控えるメイドがぽつりと漏らした。

 栗色の髪を後頭部でまとめ、ヘッドドレスをつけた、大学生くらいの女性。髪と同じ色の瞳が、じっと梓を見ている。

 一分の隙もなく背筋を伸ばし立つ姿は、ともすればエルデ以上に人目を引く存在感がある。それは確固たる意思が――エルデを支え、その側を自らの場所と定めて誰にも譲らない強い思いが、全身からあふれているからだ。

「進上様のような運動神経先行型は、調子に乗りすぎぬよう、きちんと教育しませんと」

「いつもの事だけど、ネイは梓に厳しいわね」

「お嬢様の指導を受けている以上は、せめて一般常識程度は身につけていただかねば、お嬢様の名誉が損なわれます。それは進上様も望むところではないと、解釈しておりますが?」

「す、すみません、以後は気をつけます……」

 梓は、ちぢこまってそう言うのが精一杯だった。

 エルデは、「本当にあなた達は相性が悪いわね」と困ったようにため息をつく。

「そろそろ行きましょうか」

 エルデの言葉を受けて、ネイが車いすを押し始める。梓はその横について歩く。

「今日は……東街区の見回りでしたよね」

 梓は、視線をやや上に向ける。

 演算領域に設定された専用の領域に意識の一部を繋げ、記録された業務内容を確認する。

「中央通りから入って……ルートは普段通りですね。午前中にちょっとした言い争いがあったみたいですけど、それ以外は目立った問題はないようです。特別な指示も無しですね」

「そう。でも気は抜かないようにしなさい。今は、何が起こるか分からない時期よ」

 校門を出た瞬間、エルデの声と表情から一切の緩みが消える。

 梓もまた、学生としての立場を抑え込み、「了解です」と上司であるエルデに返答した。


◆       ◆       ◆


 関東圏のとある場所に、二十三区の三分の一ほどの面積を持つ都市が存在する。

 演算都市。

 かわはし市という正式名称以上に、そう呼ばれる事が多い都市だ。

 一つの小さな研究所から始まった演算の研究が伝播し、今では特別研究政定都市という区分で、都市の運営を実地研究するに至った。

 市の境界線に壁を築き、物や人、情報の出入りを徹底的に管理された特殊な都市。

 ここでは、演算は都市住人の生活に浸透し、最重要インフラの立ち位置を確立している。

 演算の可能性と人間の適応を計る箱庭――それが、演算都市という場所である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る