練習相手

 平日の夕方。


 千里は太郎とビデオ通話をしていた。

「……これから、どう距離を詰めていけばいいんでしょう」


 仕事の話が一段落つくと会話の内容は雑談に変わり、話の流れで千里は唯衣と恋人になったことを太郎に話し、今に至る。

 怜は香折と遊びに行っているので、今日は家に千里1人だ。


『中高生かよ』

 太郎は鼻で笑った。


「君尾さんみたいに歴戦の猛者じゃないですから」

『一般の方様なら俺になんか相談しなくても何とかなるだろ』

「すぐに報告しなかったことは謝ったじゃないですか」


 ディスプレイにニヤリと笑う太郎が映る。別に唯衣と付き合い始めたことを黙っていたのが不満というわけでもなさそうだ。おそらく単純に千里をからかって遊んでいるだけなのだろう。


『まあ、仲を詰めたいなら行動するしかないだろうな。女の子の側からいつか――なんて思ってたら世良さんコースだ』

 太郎は千里に向かって指さした。


「それは分かってますけど、拒絶されたらどうするんですか?」

 世良に申し訳ないが、確かに嫌だ。しかし、だからといって唯衣を失うのも困る。


『そのときは諦めるしかないだろな』

 太郎はマグカップに入った飲み物を飲んだ。

「ダメじゃないですか!」


『そりゃそうだ。こればっかしは相性があるからな。ダメなときは次の女に行くしかない』

「そんなのムリですよ。ゆ……唯衣に代わりなんていないですから」


「おお、奥手の擬人化桐山が名前を呼び捨てか」

 よっぽど愉快だったのか、太郎は声を立てて笑った。

「こっちは真剣なんですよ」


『悪い悪い』太郎は目元の涙を指で拭った。『まあ、そもそも付き合ってるんだろ? だったら大事なのは何をするか、じゃなくていつするか……要はタイミングってことだ』

「なるほど」


 メモアプリを開いて太郎のアドバイスを打ち込んでいく。


『といっても、ビクビクオドオドしてたら千年の恋も冷めるだろうし、そこは他の女で慣れとけ』

「いや、そんな相手いないですから。というかそれ酷くないですか?」


 千里の常識からすると、好きでもない女の子を慣れるために踏み台にするなんて到底受け入れられるものではなかった。


『バカ言え。今のお前は野球未経験のおっさんがメジャーリーガーを目指すようなものだ』

「いや、もう少しマシじゃないですかね……」


 せめて野球未経験の高校生が甲子園目指すくらいじゃないだろうか。


『……桐山』

 太郎は居住まいを正し、声のトーンを低くした。

「はい」


『人気声優が彼女だろうとなんだろうと、一緒にいたいなら余計なことを考えるな。テクニックも大事だが、結局女は心の強さを見ているんだ。根拠のない自信を持て』

 太郎は親指を立て、自分の胸を指す。


 普段ふざけてばかりだがたまにはいいこと言ってるな、と思ったのもつかの間、

『俺に寝取られたくなきゃな』


 最後で台無しだった。


   ◇  ◇  ◇


 通話を終えると、いつの間にか怜が帰ってきてベッドの上に座っていた。

「話は聞かせてもらいました」


 怜は立ち上がり、千里に近づいてきた。

「はい?」


「わたしが『野球未経験のおっさん』の練習相手になりましょう。あ、もちろんえっちなのはダメですからね?」

「いや待ってよ」


「わたしは生物的にも、性自認も女ですし、いまさら一つ罪を重ねたところでどうってことないですよね?」

「……笑えないから」


「でも嘘言ってないですよね?」

「まあ……」


 見知らぬ女の子を家に置き、あまつさえ親しい人間には『妹』だと嘘をついている。確かに『いまさら』なのかもしれない。


「じゃあ、やりましょう。今すぐやりましょう。そしてこういうときにすんなりお願いできる男になりましょう」

「仕事中なんだけど」

「じゃあ、早退しましょう」

「いや、無理だから」


   ◇  ◇  ◇


 終業後。


 千里は怜と並んでベッドに腰掛けていた。


「じゃあ、はい、どうぞ」

 怜が千里に手を差し出す。が、千里は床を見つめたままだ。


「もしかして速水さんに操立ててるんですか?」

 怜は千里の顔を覗き込む。


「たかが手でしょ? そんなものに操も何もないよ」

 千里は怜の視線から逃げるように顔をそらす。否定しておいて結局何もしようとしないので、本音は誰が見てもバレバレだった。


「はあ。お兄さんはホントわかりやすいですね。わたしのことなら気にしなくて大丈夫ですよ。お兄さんとこういうことしたってのは私の中でノーカンにしますから。女ってのは過去を『なかったこと』にできる生き物なんですよ?」

「本当にはなくならないよ」


 千里が怜の提案をすんなり飲む気になれなかったのは、申し訳無さだ。怜は好きでここにいるわけではない。なのに情けない男の練習台になってもらうのは抵抗があった。


「やっぱり堅物ですねお兄さんは。先輩にホントに寝取られちゃっても知りませんよ?」

 怜の言葉を聞いた瞬間、首から後頭部にかけてが一気に熱くなってきた。


「どいつもこいつも寝取られる寝取られるってうるさいな!」

 言われなくても自分でも情けない男だということは分かっている。しかし、好きでやってるわけじゃない。奪い取るように怜の手を取った。


「痛っ」

「ご、ごめん」


 今度は感電したかのように怜から手を離す。


「いえ。わたしも言い過ぎましたね。でも、女の子は優しく扱うものですよ?」

 怜が手を千里に差し出すと、今度はオジギソウが葉を閉じるような速度で怜の手を取った。


 千里は思った。性別が違うだけで、人間の体はなぜこうも違うだろう。

 怜の手は、自分の手がジャガイモか何かに思えてくるほど、シルクのように滑らかな手触りだ。そして冷たい。


 無意識のうちに、怜の手に視線を落としたまま、親指で怜の手の感触を味わっていた。


「お兄さん私より年上なのになんだかかわいいですね」

「うっ……」


 親指の動きは止めたが、なおも怜の手を取ったままだ。


「わたしが初めての女になっちゃいましたね」

「誰も初めてなんて言ってないだろ」


「別に恥ずかしがる必要はないですよ。私もこうやって男の人と手をつなぐのは初めてですし」

「え」


 反射的に怜の顔へ視線を向けると、笑みを浮かべているが、本当は何を考えているのか分からなかった。


「わたしの初めて奪われちゃいましたね」

 その一言に、つい考えてはダメなことを考えてしまい、


「あ、えっちなこと考えてますね? そっちの練習は流石にちょっと」

 すぐに怜にバレてしまった。


「いやいや誰もそんなこと言ってないから。……夕飯買ってくる」

 怜から手を離し立ち上がり、コートを羽織る。


「サラダも忘れずに買ってきてくださいね」

「分かったよ」


 家を出ると、右掌に視線を落とす。まだ怜の体温が残っているような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る