第10話 エルフと魔王

稜線に出た瞬間、冷たい突風が三人の顔を叩いた。

眼下には白銀の谷が深く切れ込み、その底を細い川が蛇行して流れている。


谷の向こう――北の山腹には、雪に半ば埋もれた古い石造りの門が見えた。


かつて人とエルフが交易に用いた古道の入り口だが、戦争勃発と同時に封鎖され、今や忘れ去られている。


その門の前に、黒い影が十数体。

よろめく足取り、垂れ下がる腕。

雪に覆われた骸骨の顔は凍りつき、虚ろな眼窩に青白い光を宿していた。


エルディンが低くつぶやく。


「……あの鎧は、アズルナ兵だ」


ロクタルが頷いた。


「戦の頃、この谷から攻め入った部隊が返り討ちに遭ったんだろう。

その怨念と屍が負の力をまとって動いているのか」


ゼルナは息をのむ。


「復讐と帰還――矛盾した思いが奴らを縛っている。

ロトゥス・フィーンドは、あいつらにやられたエルフが核だったのかもしれん」


エルディンは谷底の影を睨み、山刀の柄を握りしめた。


「……なぜ今になって動き出したのかはわからんが、こっちに来られると厄介だ」


ゼルナは目を凝らし、静かに口を開く。


「……ほとんど、動いてない……」


骸骨たちは門の周辺でわずかに身を揺らすだけで、歩み寄る気配はなかった。

ロクタルが顎に手をやり、短く吐く。


「……凍っているな。風が抜けて雪も深い。物理的に動けないみたいだな」


エルディンもうなずく。


「ならば粉砕は容易い。足場と風にさえ気をつければ、こちらが有利だ」


冷気の中で吐く息が白く揺れ、戦うべきか否かの沈黙が流れる。

ゼルナは唇をかみ、エルディンはちらりと彼女を見た。


「……やるなら今だ」


彼は稜線から視線を外し、雪面を見回す。


「……ここから降り、右へ回り込む。門の手前の風下が死角だ」


ロクタルは槍を握り直し、ゼルナは緊張を押し殺して後に続いた。

雪を踏む音は、風の唸りに呑まれていく。


やがて門の間近。

骸骨兵の骨は氷に覆われ、関節はほとんど動かず、ぎこちなく頭部だけがこちらを向いた。


虚ろな眼窩から青白い光が漏れている。

エルディンが山刀を抜き、低く告げる。


「――行くぞ。ロクタルは右、俺は正面。ゼルナは後ろだ」


返事を待たず、彼は雪を蹴った。

刃が氷を裂き、骸骨兵の頭が粉砕される。

同時にロクタルの槍が二体を薙ぎ倒した。

氷片と骨片が宙を舞い、陽光を反射して煌めく。


残る骸骨兵も軋みをあげて動こうとするが、エルディンが叫ぶ。


「――今だ、全部砕け!」


やがて谷底に静寂が戻った。

白い息だけが揺れ、風が雪面を撫でていく。


倒れた骸骨の残骸のそば、雪の中に不自然な色が覗いた。

掘り返すと、それは硬直したエルフの亡骸だった。


「……二体、いや、三体か」


ロクタルが雪を払う。

見つかった亡骸は足を失い、膝下がなかったり、片足ごと切断されていた。


ゼルナが顔をしかめる。


「……どうして……」


エルディンは低く答えた。


「……雪に埋もれていた骸骨に足を掴まれ、そのまま切断されたんだろう。

恐らく――近づいてきたエルフの気配に反応して、動き出したんだ」


ロクタルも頷く。


「動けぬ骸骨でも腕は掴める。雪に引きずり込み、足を……」


言葉を切り、寒風に目を細めた。

エルディンはそれ以上言わず、亡骸に静かに雪をかけ戻す。


その時、腰の装飾に目を留めた。

三体とも同じ意匠――古木を象った円形の部隊章。エルフ軍の紋章だった。


「……同じ部隊だな。三人とも」


背後の林から足音。

雪を踏みしめ、銀髪と長耳を持つ一団が現れる。


弓、槍、長衣の魔法使い。


ゼルナが息を呑んだ瞬間、澄んだ声が脳裏に響いた。


《……人間の冒険者か。骸骨兵を倒したのはお前たちか。理由を聞こう》


念話。冷たさを含んだ声。

エルディンは仲間に目で合図を送り、落ち着いて応じる。


「そうだ。だが通りすがりで片付けただけだ」


先頭のエルフ――隊長格が一歩出る。

骸骨の残骸と同胞の亡骸を見やり、鋭い視線を向けた。


《人間が弔うつもりなどあるまい》


「埋めてやるつもりだった。部隊章も見た」


若い兵が念話で叫ぶ。


《隊長、こんな人間――》

《黙れ》


鋭い声が遮る。

隊長は部隊章を拾い上げ、低く言った。


《……戦で多くを失った。だが今ここでお前を殺せば、私怨に過ぎぬ。軍人の行いではない》


エルディンは静かに告げる。


「俺たちは水源の調査で来ただけだ。死体も残骸も、お前たちの邪魔をする気はない」


沈黙の後、隊長は仲間へ命じた。


《遺体を回収する。手を出すな》


若い兵は渋々武器を下ろす。

すれ違いざま、隊長が低く告げた。


《……長く留まるな。人間の匂いは戦を呼ぶ》


やがてエルフたちは遺体を回収し去っていった。

エルディンはしばらく無言で見届け、仲間に向き直る。


「……長居は無用だ。依頼分はもう十分だ」


ロクタルもうなずく。


「匂いも残ってる。厄介なのを呼ぶかもしれん」


ゼルナは未練げに振り返ったが、エルディンの視線に押され黙って荷をまとめた。

雪は止んでいたが、空は厚い雲に覆われていた。


「引き上げるぞ。昼までに安全圏に下りる」


三人は足早に稜線を戻った。

背後ではエルフたちの低い念話が雪に吸い込まれていく。

ゼルナは黙ったまま、時折二人の背を見比べて歩いた。




山を下り、第二拠点の小屋へ戻る。

ロクタルは荷を整え、槍を背負った。


「報告は俺が行く。依頼を受けたのは俺だしな」


そう言って出て行き、エルディンとゼルナだけが残る。

薪のはぜる音が響いた。


やがてゼルナが遠慮がちに口を開く。


「……さっきのエルフたち、本当に私たちを殺すつもりだったんですか?」

「状況次第ではな。人間は彼らにとって憎悪の対象だ」

「どうして……?」


エルディンは火を見つめながら語る。


「昔、この大陸の北半分はエルフのものだった。

十五年前、人とエルフが戦を始め、十年前にエルフの王――人間が魔王と呼んだ存在が討たれた。

戦は終わったが、憎しみは消えちゃいない」


ゼルナは指先を見つめ、つぶやく。


「……だから、私みたいなダークエルフは……」


エルディンは首を振った。


「お前がどう生きるかはお前次第だ。少なくとも俺は、お前を敵と思ってはいない」


ゼルナは驚いたように顔を上げたが、エルディンはそれ以上言わず火を整えた。

小屋に静けさが戻る。




夕刻、ロクタルが戻った。


「ただいま。報告は済ませた」


雪を払う彼に、エルディンが問う。


「問題は?」

「特にはない。ギルドは相変わらずだがな」


彼が腰を下ろすと、エルディンはゼルナへ向き直った。


「さて約束通り、基礎訓練を始める。体力づくりと護身からだ」


ゼルナは緊張の面持ちでうなずく。

ロクタルは腕を組み、笑みを浮かべた。


「なら俺も時々見に来よう。あんたのやり方に興味がある」


エルディンは片眉を上げる。


「見ても面白くはないと思うがな」


ゼルナは二人を見ながら、わずかに息を吐いた。

一人きりじゃない日々が、しばらく続く。

そう思うと、不安と同じくらいの安心が胸に広がった。

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