第6話 吹雪の兆し

カーグが荷を担ぎながら近づいてくる。


「準備、整いました。調査区域は北東側の段丘斜面から始める予定です」

「そっちは崩れやすい。踏み抜くな。採集中も足場に気を配れ」

「肝に銘じますよ、ええ」


リゼットが杖を軽く握り直し、ゼルナをちらりと見て「大丈夫そう?」と声をかけた。ゼルナが「がんばります」と答えると、リゼットは少し目を細めてうなずいた。


一行は谷筋の奥へと歩を進めた。春の気配と未知の気配が混じる中、静かに調査の一日が始まろうとしていた。



調査は順調に進んでいた。

カーグは低木の根元を丁寧に掘り起こし、リゼットは採取した試料を魔力分析装置にかけて記録を取っている。

ゼルナはエルディンの後ろを静かについて回り、時折木の枝を払ったり、荷物の位置を整えたりしていた。

特に異常もなく脅威の兆しもない——ただ、空の色が変わっていた。


谷を囲む尾根の上に、ゆっくりと灰色の雲が流れ込んできている。

風向きが変わり、葉の擦れる音が耳につくようになった。

エルディンは気配に気づき、空を見上げる。


「……雲が下りてきたな」


ゼルナも空を見上げ、不安そうに眉を寄せた。

エルディンは歩を進め、斜面でスケッチをしていたカーグに声をかけた。


「作業はどれだけ残っている?」


カーグは驚いたように顔を上げ、手にした筆記具を止めた。


「あ……そうですね。予定していた標本の採取と分布記録は、あと三地点ほど……急げば、あと一刻(いっとき)ほどで終わるはずです」

「空が悪い。風も湿っている。雪か、冷たい雨になる可能性がある。予定の三地点は必要最低限に絞れ。作業は急げ」


リゼットは立ち上がり、魔力測定器を収納し始めた。


「……予備の装具はまとめておいた方がいい。風と雪が激しくなれば一気に迷うことになるぞ」


「了解しました」とカーグが即答する。

ゼルナはエルディンの指示に従い、荷をまとめて移動準備を始めた。

谷の空がじわりと暗くなり始める中、調査隊は黙々と歩を進める。

調査初日の平穏は、最後に訪れるかもしれない変化の前触れに包まれていた。




最後の標本を採り終えた頃、谷の空はすっかり灰色に染まっていた。

ぽつぽつと、乾いた布を打つような音を立てて雪が降り始める。

それは最初こそ静かだったが、時間をおかずして粒が大きく、密になっていった。


「……降ってきたな」


エルディンは空を仰ぎ、頬に触れた雪を確かめる。


「風も巻いてる。止む気配はない。吹雪になるかもしれん」


カーグが手帳を閉じ、肩をすくめて「予想通りですね」と言った。


リゼットは黙って荷の紐を締め直す。エルディンは周囲を見渡し、斜面のくぼ地に目をとめた。

木々が密に茂り、雪が地面に届きにくい場所だ。風も直接は抜けない。


「こっちだ。あの樹間。木の根が張っているから風が遮れる」

「承知しました」


リゼットがうなずき、カーグも続いた。


「ありがたい。私は寒さにめっぽう弱くてね……」


短時間での設営に慣れたエルディンは手早く雪を踏み固め、倒木と樹の枝を使って簡易な雪囲いを組み立てる。

ゼルナはエルディンの指示を仰ぎながら、黙々と布と紐で風除けを固定していく。

火床には湿気を避けるための枝と、乾燥布に包んだ火種。

エルディンは念入りに準備を進めつつ、最終確認のように言った。


「今夜は気温が急に下がる。靴の中に乾いた草か布を詰めておけ。寝る前に湯も用意する」


雪は次第に音を呑み込み、谷は静けさに包まれた。

火が灯るころには視界も白んできており、風がときおり布を揺らす。


ゼルナは震える手で湯を注ぎ、エルディンの脇に置いた。

エルディンは礼も言わず当然のように受け取る。

焚き火の光がそれぞれの影を雪の幕に映し出していた。


焚き火の炎がぱちりと弾ける。

雪は音もなく降り続け、視界の外を静かに白く染めていた。

カーグはすでに毛布にくるまって眠りについており、ゼルナは水袋と布を抱えてテントの端で身を小さくしている。

エルディンは火の手入れをしながら、斜め向かいに座るリゼットの視線に気づいていた。


しばらくの沈黙ののち、リゼットが口を開く。


「……あの子、よく訓練されてるわね。命令は正確にこなす。目立たず、喋らず、怒らせないように動いてる」


エルディンは火床に枝を追加しながら、何も言わない。


「でもそれは忠実だからじゃない。恐れてるからよ。相手を、状況を、何より“自分が何を失うか”を」


リゼットはゼルナを見ないまま、淡々と続ける。


「目線の動き、返事の仕方、身体の距離感……自分が“物”として扱われていた時間が、今でも体に染みついてるのがわかる」


エルディンはちらりと焚き火越しにリゼットを見た。特に否定も肯定もしないまま、静かに言った。


「それが普通だと思ってるんだろ。あいつにとっては」


リゼットはほんのわずかに目を細めた。


「あなた、あの子を“どうにかしよう”って思ってる?」


エルディンは眉ひとつ動かさず答える。


「……生かすだけだ。俺が始めたことじゃない」


リゼットは小さく鼻で笑った。


「それにしてはよく見てる。口は出さないけど、目は外さない」


エルディンは答えず、リゼットは肩をすくめて毛布にくるまり、最後に呟いた。


「……“ただ生かす”だけなら、こんな山に連れてくる必要はなかったと思うけど」


言葉の意味が雪に沈むように静まり、火の音だけが谷に響いた。


焚き火が小さくなっていく。毛布にくるまったカーグとリゼットは寝息を立て始め、ゼルナも疲れと寒さで静かに目を閉じる。エルディンは最後に雪囲いを調整し、背を向けて座り直す。焚き火の炎が揺らめき、影がゆっくり踊った。




谷の向こう、密やかな雪の帳の中に――それはいた。最初はただの積もった雪の塊に見えたが、風が吹くとその中の“何か”がわずかに揺れ、ゆっくりと首を傾ける。丸い頭部が、ごろりと音もなく回った。


――目が、開いた。


黒い穴のような視線が遠く焚き火の光を見つめている。まるで“灯り”の存在だけを頼りに、じっと世界の形を確かめているかのようだ。


やがて、ずるり、と下半身が雪に沈む音を立てて動いた。人のような、だが人ではないシルエットが、吹きすさぶ雪の中に溶け込んでいく。




まだ空が白む前。吹雪の勢いは多少落ち着いたものの、冷気は張り詰めていた。野営地には不自然な沈黙が満ちている。


「起きろッ!!」


谷に響く怒声にゼルナが目を見開き、カーグが寝袋の中で跳ね起きる。リゼットは反射的に杖に手を伸ばして身を起こし、エルディンは焚き火の前に立って左手で抜き身の山刀を雪に突き立て、全員を睨むように見渡した。


「何か来る!準備しろ!」


風が吹き、遠くの雪面が“ずり、ずり”と音を立てる。まるで何か重いものが雪を押し分けて進んでいるようだ。


「なんなんですか……!?」とカーグが寝袋から這い出しながら叫ぶ。リゼットは素早く防寒外套の下に防護結界を展開する。ゼルナは肩を震わせながら「ど、どうすれば……」とエルディンに寄っていく。


エルディンは即座に指示を飛ばす。


「火を絶やすな。枝をもっとくべろ!」


全員が動き出す。ゼルナは焚き火に枝を放り込み、エルディンは雪原の先、木立の向こうを睨んだまま刀の柄に手を添えていた。


――白い闇の中に、確かに“何か”がいた。


雪がしんしんと降り続く夜。焚き火は勢いを増し、それに伴って煙の量も増す。場の空気は、呼吸すら許さぬように張り詰めていた。

エルディンは焚き火の傍にしゃがんだまま、低くリゼットに問いかける。


「お前、火は使えるか?」


リゼットはすぐに頷いた。


「はい。ファイアボルトまでなら制御できます。継続系は苦手です」


エルディンは視線をカーグに向ける。


「私は……火の触媒は持ってきていませんが、火薬式の火花起爆術なら。威力は期待できませんが“着火”くらいは」


エルディンは短くうなずき、膝に置いた山刀の背をゆっくり撫でた。


「……あの音からして、もしかしたらスノーゴーレムかもしれん。あれは“雪の塊”が動くものだ。体のほとんどは雪で、熱で崩れる」


リゼットが続ける。


「スノーゴーレム!? だとしたら、ごくまれに氷を核にしている個体もいます。身体の構成比率が違っていて、そういう個体は半端な熱じゃ解けません。魔力で自己再構成を行う例もある」

「一般的には子供くらいの大きさですが、山の魔力密度や気候条件によっては二メートル以上の個体も確認されています」


エルディンは目を細め、雪の向こうを見据えた。


「こっちの火力は、俺の刀とお前らの小規模魔法。ゼルナは戦力外だ。攻撃魔法は連続で出せない。連携して削っていくしかない」

「数がわかれば……」とカーグが呟く。


エルディンはゆっくり首を振った。


「わからん。気配は一体かもしれんし、三体かもしれん。夜の雪は音も光も吸う」


ゼルナがかすかに震えながら「逃げられるの?」とエルディンの袖をつかむ。エルディンは少し黙ってから答える。


「“戦って退く”ことはできる。だが“逃げるだけ”はできない。ここは狭い」


リゼットは静かに杖を構えた。


「使い捨ての火の魔晶石を一つ持っています。核が氷なら、これを合わせて破壊すれば……」


エルディンは立ち上がり、山刀の柄を握る。


「このまま大人しく消えてくれればいいんだがな……」


暗がりから、自然とは異なる音が近づいていた。

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