思い出
瀧 なつ子
商談
「まあ、お嬢さま。また来てますよ。あの男」
カーテンを覗いて、外を伺う。あの男が庭を通って玄関にやってくるのが見えた。
「あら、またいらっしゃるの。何度も、熱心なお方」
紅茶を飲みながら、眉根を寄せて請求書の束を見ていたお嬢様が顔を上げた。
まもなく来客を告げるチャイムが鳴って、私は玄関に出た。
お嬢様は対応するとおっしゃるので、応接間にお通しする。
男とお嬢様に来客用の紅茶を淹れる。これも、以前用意していたものの半分の値段のもの。男は舌が肥えていそうだから、そんなところからもこの家の先行きの危うさを感じているのかもしれない。
「何度もお訪ねして申し訳ありません。ですが私も諦めがつかない。一度そのあなたの美しい目と出会ってしまったら、もう後戻りはできないのです」
「そんな風に言ってくださって、嬉しいですわ。何度言われても悪い気はしませんもの」
「それでお嬢様、決心はつきましたか」
「そうねえ」
お嬢様は首をかしげて、男から目をそらす。
「私の方は、この間よりも、もう少し予算を用意してきました。現金で、すぐにお支払いすることができますよ」
「それは、ありがたいですわ。でも、ねぇ」
お嬢様はもじもじと袖や帯をいじり始めた。お嬢様の悪い癖。生前奥様はよく注意していらした。
「あれから幾分家の中のものを整理しましたの。皮肉なことに父のコレクションはほとんど値がつきませんでしたわ。そのかわり、母の遺した宝石がそれなりの値段になりました。あとはこの家を手放せば、溜まっている支払いと返済はすっきりしそうです。でも、ねぇ」
お嬢様は無垢なその瞳を私の方へ向ける。
「ふむ」
男も、知ったふうな相槌を打つ。
「牡丹さんの、退職金が払えないんですの」
「なるほど」
「お嬢様。わたくしのことなど気になさらないでください」
「いいえ、そうはいかないわ」
男はつるりとした頬をなでるとお嬢様に語りかける。
「あなたのその瞳でしたら、片方だけで十分なお値段になりますよ。傷なし、濁りなし。おまけに良質なものだけを見てきて、世界の淀みをほとんど知らない目は、そうそうあるもんじゃありません。あなたはこれから家を出られたら、きっと色々な現実を知る。今、この時期のあなたの瞳だから価値があるんです。それはそれは、綺麗な宝石になりますよ」
「それはほんとにありがたいのですけど、その、ほんとに痛みはありませんの?」
「ええ、あっという間です」
「片目だけで、生きていけるのでしょうか」
「片目で生きている人間はごまんといますよ。運が良けりゃ、哀れんだ男が結婚して養ってくれるかもしれません」
「結婚……」
きっとそれは、お嬢様が思い描いていた結婚とは天と地ほどの差があることだろう。
優しいお嬢様。
そこまでして、私に退職金を出そうとしてくださる。世の中の汚れを何も知らない、無垢で不器用なお方。ここまでお育てした甲斐があったというものだ。
私が人知れず胸を熱くしている間、お嬢様はうんうんと悩み、紅茶が冷めきった頃、右目を売る契約書にサインされた。
その夜、私は退職金を手渡され、二十四年間勤めたお屋敷から、期限の無い暇を出された。
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