菜花の里

増田朋美

菜花の里

夏もそろそろ終了して、涼しいなと思われる季節であった。そうなって来ると、読書の秋とか、食欲の秋とか、そう言われる季節がやってくる。それと同時に、あるものも流行ってくるのである。

「へっくしょい!」

朝食を食べながら蘭は大きなくしゃみをして、持っていたパンを落としそうになった。

「あら、どうしたの?風邪ですか?」

蘭の妻アリスが、そう彼に言った。

「いやあ、そんなたいしたことないんだけどねえ。最近くしゃみがひどくて。」

と、蘭が言うと、

「お医者さんに行ってらっしゃい!」

とアリスが言った。

「そうは言ってもね。熱があるわけじゃないし、咳が出るわけでもないんだから、病院に行くほどでは?」

と蘭は言ったのであるが、

「何言ってるの。ひどいことになったら、命取りになるわよ。早く、いってらっしゃい。診察の結果が出たら、ちゃんと私のところに連絡入れてちょうだいね。」

風邪くらいで大げさな話であるが、アリスは欧米人らしくそういうことを言った。

「そうだけど、田子の浦クリニックは行きたくないからね。あそこは、変な薬ばっかり出されてひどい目にあったから。それはもう除外だから、ほかをあたるか。お前、タクシー予約してくれる?」

蘭がそう言うと、

「はいはい。実はねえ蘭。あのショッピングモールの近くに病院ができたらしいのよ。まだ、新しいところだから、口コミに悪いところは書いてないはずよ。だから、すぐに行ってきてちょうだい。今は電話しなくても、予約ができるはずよ。」

流石に、人の噂を聞くのが早いものである。蘭は、すぐにスマートフォンを出して、病院を調べてみた。すると、

「菜花の里クリニック。何だ、女性のお医者さんじゃないか。どうも頼りなさそうだな。」

というウェブサイトが出てきたのであった。

「良いじゃないの、今の時代は、男性も女性も関係ないわよ。そういうことなら、行ってきてちょうだいよ。よろしく頼むわね。」

アリスは、こんなことも気にしないのであった。本当であれば蘭は、女性のお医者さんに、診察をしてほしくなかったが、アリスがあんまり言うので、仕方なく行くことにした。とりあえず、ウェブサイトにあった電話番号に電話してみると、受付で出た人は、

「はい。菜花の里クリニックです。」

と、穏やかな中年のおばさんの声でそう言われた。

「ああ、あのですね。初診なんですけど、予約をお願いしたいのですが?」

蘭がそう言うと、

「はい。いつ頃こちらに来られますか?」

というのであった。

「はい。これからすぐにいけます。」

蘭が言うと、

「じゃあ、来てくださって大丈夫です。小宮山先生と、お待ちしております。どんな症状でこちらに来られますか?」

優しそうな受付であった。

「ええとねえ。熱はないんですけど、風邪を引いたみたいで。それで、お願いしたいんですけどね。鼻水とくしゃみが酷いんです。」

蘭は、そう言いながら、へっくしょいと大きなくしゃみをした。

「わかりました。お待ちしています。お名前はなんですか?」

優しく聞いてくる受付に、

「はい、伊能と申します。伊能蘭です。」

と蘭は答えた。

「了解いたしました。伊能蘭さんですね。お待ちしていますので、お気軽にいらしてください。」

と優しそうな受付は言った。蘭は、急いで、出かける支度をして、アリスに呼んでもらったタクシーに乗って、菜花の里クリニックと言うところに、連れて行ってもらった。

菜花の里クリニックと書いてある看板の前で蘭はおろしてもらったのであるが、そのクリニックは、クリニックと言うより小さなカフェとか、ペンションという感じの建物であった。なんだか、こんな病院で本当にやってくれるのかなと思われる気持ちであった。

「失礼いたします。伊能蘭です。」

蘭は、車椅子を動かして、病院の中に入った。先程の電話の声ににた声の中年の太ったおばさんが、

「はいお待ちしておりました。こちらの問診票に記入をお願いします。」

蘭は、渡された問診票に鼻水がひどいことと、くしゃみが酷いことを記入して提出した。口にくわえる体温計で熱を測ったが熱はなかった。他の患者は数人いたのであるが、みんな若い人から中年の女性ばかりで、どうも男性は、いるのが大変だなと思われるような気がした。

「それでは、椅子に座ってお待ち下さい。別室で待つことも可能ですが、いかが致しましょうか?このご時世ですから、中には一緒に待ちたくない人もいるんですよ。」

優しい受付のおばさんにそう言われて、蘭は、そちらで待たせてもらうことにした。なんだか待っているのが女性ばかりで、別室で待たせてもらうことにしたのである。

蘭は、受付のおばさんに車椅子を押してもらって、別室で待たせてもらうことにした。対策室と書いてあるのであるが、多分熱があるとか、そういう人が使うのだろう。部屋には何もないので、蘭は、ぼんやりとそこで待っているしかないのだった。

すると、壁越しに、患者さんと、医者が喋っているのが聞こえてきた。喋っているのは、若い女性らしい。

「本当にそうなんでしょうか?」

と若い女性は、逼迫したような声でそういうのである。

「ええ、間違いありません。間違いなく、A型です。」

ということは、インフルエンザにでもかかったのだろう。

「どうしたら良いのですか!私、これでも仕事していて、明日までに片付けなければならない仕事があるんです!それなのに、どうしてそんなこと言うんですか?」

と患者は叫ぶように言っている。その隣に、お母さんかお姉さんだろうか、中年の女性が

「お願いだから静かにして。先生の前でお願いしなくちゃいけないのよ。」

と、懇願するように頼んでいるが、女性は、わーっと金切り声で泣き叫び、どうしたら良いのかわからないという感じの声であった。

「百合子さん、大丈夫よ。間違いなく、A型ではあるけれど、薬だってちゃんと、開発されているんだし、薬を飲んで安静にしていれば、数日でよくなるわ。大丈夫。」

女性医師は優しくそう言っている。

「でもあたしは、しなければならない仕事があるんです。仕事をしている人にはわからないでしょうけど、あたしが飛び込みでとってきた仕事です。だから、仕事をしないと、あたしは相手の信用さえ失います!」

と、患者はそう言っているのであった。

「仕事なんかしてないでしょう!そんなありもしないでたらめなこと言って、なんていう失礼な態度を取るの!」

別の女性がそう言うので、この人は、仕事をしていないんだなと蘭は思った。それがあまりにも苦しいので、仕事をしていると妄想を思うしか、対処しようがなかったのである。なんとかして彼女に役目を与えることで、その妄想から回避できればいいのにと蘭は思った。

「そんなことはどうでもいいんです。大事な仕事なら、相手の方もちゃんとわかってくれますよ。あなたがちゃんと体調を崩してしまったって言えば通じますよ。百合子さん。だから、まずは薬を飲んでゆっくり休もうね。」

と、医者がそう言っている声が聞こえた。

「大丈夫よ。百合子さんが、ちゃんとしていればまた次の仕事もやってくるわ。だから、その前にちゃんと、体を治そうと思わないと。確かに仕事をなくしたショックは大きいかもしれないけれど、それはまた新しく仕事を得られるわ。もっと、いい仕事が得られるかもしれないわ。そのためには、体を休めることが必要なの。だからちゃんと、薬を飲んで、しっかり休ませてあげようね。自分の体がなかったら、仕事も何もできないわ。それでは、元も子もないでしょう?」

なるほど、なにか精神疾患でもある患者さんだったのだろう。その患者さんを一生懸命なだめているのだから、この先生も偏見がなくていい先生なのだ。

「失礼いたします。伊能さん、先生がおよびです。診察室へお入りください。」

受付のおばさんがそう言って、蘭ははっと気がついた。

「ああすみません。」

と蘭が車椅子を動かすと、

「はい。じゃあ、こちらへおいでください。」

と、受付のおばさんは、蘭の車椅子を押して、診察室へ連れて行った。

「はい、伊能蘭さんですね。医師の、小宮山紫穂でございます。」

40代くらいの、きれいな医者だった。まだ、大学病院などで勤務していたほうが良いのではないかと思われるくらい若い開業医だった。

「それで今日はどんな症状でご来院でしょうか?」

「ああ、ああ、実はですね。ちょっと、風邪を引いたみたいで、くしゃみと鼻水が特にひどいのでして。」

蘭は、申し訳なさそうに言った。

「そうですか、それで喉の痛みとか、咳は出ますか?」

小宮山先生にそう言われて、

「ええと、それはないです。熱もないんですけど。本当はね、自分でなんとかしなくちゃいけないと思いますが、妻がお医者さんへいけとうるさいものですから。」

と、蘭は、そう答えた。

「そうですよ、奥さんが医者へいけというのは、それだけあなたのことを心配しているということだから、奥さんの気持ちもわかってあげなくちゃだめです。」

そういう小宮山先生は、ちょっと喉を見ますねと言って、蘭に口を開けさせた。蘭がそのとおりにすると、

「ああきれいですね。うん、これはただの風邪でしょう。薬出しておきますから、飲んでください。一週間飲めば大丈夫だと思います。もし、それでもまた症状が出るようでしたらまた来てください。」

と言って、処方箋を書いた。蘭は、どうもありがとうございますと言って頭を下げた。

「それで、ちょっとお伺いしたいことがあるんですが。先生、先程は精神疾患のある女性を診察していましたね。その方はよく来られるんですか?」

「ええ。まあ、よくくるというか、私のことを頼りにして、来てくれるみたいなのよ。」

と、小宮山先生は答える。

「じゃあ、先生は、そういう人に対して偏見はないんですね。」

蘭はすぐに言った。

「何が言いたいの?」

小宮山先生が言うと、

「実は、どうしても見てほしい人が一人おりまして。とても必要な人なのに、医療にたどり着けない事情があって、今も伏せているのです。本当はそうなってほしくないんですけど、それを食い止めるには、特別な事情をわかってくれる医療関係者でないとだめなんですよ。」

蘭はここまでを一気に話した。

「特別な事情って何?医者は誰にでも公平な態度で接するのが医者の役目だけど、あなたが言っている事情はそれだけじゃないわね。」

小宮山先生はそういった。

「ええ、行けばすぐわかります。口に出して言うのは、ちょっと言いにくいです。大渕の富士山エコトピアの近くにある建物に間借りをして暮らしています。ぜひ、彼のことを診察してもらいたい。費用は、僕が出しますから。お願いできませんか?先生は、精神障害のある方を優しくなだめられるほど、人徳のある方のようですし。」

蘭がそう言うと、小宮山先生は、

「そうなのね。それなら行ってみようかな?」

と考えていった。

「お願いします。僕が言い出したということはできるだけ彼には伝えないで、ただ任意で来訪したということにしてください。」

蘭は改めて小宮山先生に頭を下げる。

一方、製鉄所では。

「ほらあ、もういい加減にせいや。もうさ、何度疊を汚したら気が済むんだよ。畳屋さんへの貼り替え代がたまんないよ。」

杉ちゃんが、水穂さんに薬を飲ませながらそう言っていた。それと同時に、由紀子が、汚れた疊のヘリを、タオルで拭いていた。

「ま、もうちょっとしたら涼しくなるけん、少し楽になると思うぞ。」

杉ちゃんは、でかい声で言った。由紀子は、そんなことを言っている杉ちゃんを、嫌な目で見た。

「本当は、お医者さんに見てもらいたいんだけど。」

由紀子は杉ちゃんに言う。

「ああ、ムリムリ。そんなことは無理だから。まあ、我慢してみるしかないわ。」

「そうよねえ。」

由紀子は、そういったのだが、それはなぜか受け入れられなかった。由紀子にしてみれば、まだ医療に頼ってほしいのであった。杉ちゃんが、医療関係者なんてなんの役にも立たないというが、由紀子は、どこかで親切な医者がいてくれないかと思うのであった。

「失礼いたします。」

と、玄関先から、女性の声がした。

「誰だよ。こんな大事なときに、ノコノコ入ってきやがって。」

杉ちゃんがでかい声で言うと、

「はい。菜花の里クリニックの小宮山と申します。実は、こちらに磯野水穂さんという患者さんがいらっしゃると聞いて、こさせてもらったんですが?」

と、その女性は言った。

「はあ、偉いのが来たもんだな。もし、銘仙の着物見たら、なんて言うだろう。こんなやつを診察するなら、すぐ帰りますって言うんじゃないか?それなら、もう帰ったほうが良いんじゃないか?」

杉ちゃんはでかい声で言うと、

「それでは、お願いします!」

由紀子はすぐに言ってしまった。

「あたしたちではどうにもできないことだから、ちゃんと診察して薬出してほしいです。」

「でもねえ。これまでもいろんな医療機関をたらい回しにされて、挙句の果てに余計に悪くしちまったことは、よくあるじゃないかよ。同じ失敗したら、水穂さんが可哀想だろ。」

杉ちゃんがそう言うが、

「こんなチャンスはめったにないわ。水穂さんのことを、見てくれる医者が現れるなんて。」

と由紀子は、すぐに言った。小宮山先生は、杉ちゃんと由紀子のやり取りを聞いていたが、

「じゃあ、とにかくね。患者さんに会わせてください。」

小宮山先生は、上がり框のない製鉄所の玄関をくぐって、製鉄所の建物内に入った。

「なんか頼りなさそうな医者だな。」

小宮山先生を見て杉ちゃんがそう言うが、小宮山先生は、汚れた疊を見て、

「まあひどい!」

と、驚いて言った。

「薬は一応、漢方で出してもらってるんだけどさ。まあ、無理だよねえ。」

杉ちゃんがそう言うが、小宮山先生は、すぐに水穂さんの聴診を行い、背中を叩いたりして、なにか考え込んでいた。水穂さんが着物を着直すと、

「随分ひどいですね。そして、随分衰弱している。これでは、生活していくのに必要な栄養も足りていない。」

と、杉ちゃんたちに言った。

「だってご飯食べてないんだもん。いつも咳き込んで吐き出してしまうもんでよ。いくら食べさせても効果ないんだ。もう、しょうがないもんはしょうがないわな。」

と、杉ちゃんがでかい声でそう言うと、

「すぐに、総合病院に電話をしましょうか?ここまでひどいんじゃ、昔だったら手の施しようがないって言われるかもしれないけど、今だったら、まだ治る道があるかもしれないから。」

と、小宮山先生は言った。由紀子は、これを待っていましたという顔をするが、

「無理なものは無理だよ。どうせ、銘仙の着物を着たやつを診察したらうちの病院が潰れるとか言われるのが落ち。」

杉ちゃんはすぐ言った。小宮山先生は杉ちゃんを無視して、水穂さんを富士市の中央病院の感染症病棟に連れて行こうと言った。由紀子が水穂さんを背中に背負った。杉ちゃんはどうせ無理だろうけど気をつけていけよと言って、二人を送り出した。

小宮山先生の車に乗って、由紀子と水穂さんは、中央病院に向かった。小宮山先生は、急患入口に行って、この人を見てもらいたいのだがというが、警備員に連れられて診察室へ行くことはできたものの、その前で、何十分も待たされることになった。しまいには水穂さんがまた咳き込みだしたので、

「早くこの人をなんとかしてもらいたいのですが!」

と小宮山先生はいった。しかし、診察室から出てきた若い医者は、

「こっちだってね、大事な患者さんのこと見なくちゃいけないんだ。小宮山さん、自分の患者さんが可愛いのはわかるけど、こちらも忙しいんだよ。」

と言ってピシャンとドアを閉めてしまった。

「待ってよ。この人だって、苦しんでるのよ。それなら、見てあげて、なんとかしてちょうだいよ。」

小宮山先生がそう言うが、

「小宮山さんね、あんたはそうやって優しすぎるんだよ。どうせ、こんな人を助けたってなんの実績にもならないでしょ。それよりも、政治家とか、そういう人を助けたほうがよほど良いでしょう。あんたはそうやって、何も役に立たない人をどんどん連れてくるけどさ、こっちは、そんなことしたって、何も役に立たないんだよ。」

と若い医師は言った。

「せめて投薬くらいしてあげたって良いでしょ。この人のことを、大事に思ってる人がいるのよ。」

小宮山先生がそう言うが、

「小宮山さん、良いこと教えてあげようか。この人銘仙の着物だぜ。俺達が相手にしたって、俺達の経歴に傷がつくんだ。医療は結果と実績がすべてじゃないか。それをよく考え直したほうが良いよ。」

と若い医師はそういうのであった。由紀子が、どうしてそんなこと言われなくちゃいけないのという顔をして、がっかりと落ち込むのであった。

「そういうことなら、せめて、薬くらいは飲んでもらいましょう。薬局に私の方から指示を出したことにしてください。薬の内容はえーと。」

と、小宮山先生は、手帳に薬の名前を書いた。そして、病院の近くにある薬局へ行った。幸い、薬局は人が少なかった。小宮山先生は、手帳を破って、薬剤師に薬の名前が書いた紙を突き出した。

「はあ、また儲からない弱いやつを助けようとしてるんですね。小宮山さん、あなたそれで中央病院を退職に至ったのに、こりてないですね。なんで、そんなことするんですかねえ?」

と薬剤師はそう言うが、

「とにかくこの人を助けたいの!すぐに薬を出して!」

と小宮山先生は高らかに言った。薬剤師は、はあそうなんですかという顔をして仕方なく、調剤室へいってしまった。由紀子はそれを、なんで医療関係者はプライドばかりが強くて、こうして本当に医療を必要とする人に届かないのだろうという気持ちで眺めていた。

「はい先生。とりあえずこれだけですね。でも、こんな古い薬、何に使うんですか。なんか昔の映画で重病人に出すようなものじゃないですか?」

と薬剤師はそう言っているが、

「余計なことは言わないで水穂さんを助けてください!」

と由紀子は言ってしまったのであった。それを小宮山先生はよくやったという顔で眺めていた。



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菜花の里 増田朋美 @masubuchi4996

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